見出し画像

「意味の深みへ6」

何と言いますか、これまでのブログの内容を否定する気持ちが、強くなっているのではないのでしょうか。なぜかと言いますと、「コトバが下りて来る」こととか、「偶然に導かれる」こととか、そう言ったところだろうと思います。何故そう思えるのかと言いますと、私もそう思っているからです。私の意識の半分は、そう思っているのです。これを「関係の意識」と「場の意識」の違いと、単純に言ってしまうと、本質からズレてしまう様に思います。結局のところ、表層意識に全て還元されてしまうからです。「場の意識」とは、もっと本質的な意味で、世界(下(深層)意識から無意識に至る領域)と融合している部分があるのです。よって、自分の思いの方向(はっきりとした意志、というよりも、ふとした思い)が、将来の現実へとつながってしまうのです。これらは、「引き寄せ」と呼ばれる「作用」というよりも、「人間存在」と「世界全体(地球意識)」とのつながりを、回復させるような「場のサイクル」に入ったことを示す「実例」ではないかと思っています。

それでは、「井筒俊彦」先生の著作の「意味の深みへ」の中の「スーフィズムと言語哲学」の章の続きです。


『一般に神秘主義といいますものは、ある意味で伝統的宗教の中における解体操作である、と私は考えております。つまり神秘主義とは、ある意味で宗教内部におけるデコンストリュクシオン運動であると思います。
これがイスラームのように著しくロゴス中心的な宗教の場合、重大な問題を惹起することは当然でありまして、ここにスーフィズムに伏在する危険思想への傾きの淵源があります。
この点が同じ神秘主義でも、初めから神などというものを全然立てない、つまり初めから非ロゴス中心主義で、初めから解体されている大乗仏教、特に禅などになりますと、事情が全然違ってまいります。
イスラームである限りは、神秘家といえども「神は死んだ」と言い切って簡単に片付けてしまうわけにはいかない。そうかといって、在来の宗教的神表象でも満足できない。とすれば、イスラーム神秘主義としてのスーフィズムは、必然的に非常に屈曲した形で神と対決せざるをえないということになってまいります。スーフィズムも神と人間とが人格的、つまり実存的に出会う出会いの、一つの著しく特殊な形態ということになるのであります。
もちろん神秘主義でない普通のイスラームでも、神と人間との実存的出会いということが中心問題であります。しかし、普通の、つまり神秘主義でないイスラーム信仰の場合には、神はただひとえに絶対的超越者でありまして、神と人間とのあいだには超え難い断絶がある。深淵、あるいは無限の距離を隔てて、その向うに人は遥かに神をのぞみ見る。そういう形でのみ、人間と神とのあいだに我ー汝の・関・係・が成立するのでありまして、そういう関係において人は「我」として、無限の彼方なる神に「汝」と呼びかけるのであります。』

そう、「イスラーム文化」が「欧米文化」へとつながる部分は、「人間と神」との間の、絶対に越えられない「関係」の部分です。これは、「イスラーム」の半分を示しています。


『これに反して、スーフィズムでは神と人間とのあいだの本性上取り払うことのできないはずのこの隔てを、あえて体験的に・無・化・してしまおうとします。完全に無化すること ができないまでも、少なくとも両者の隔たりを紙一重のところまで持っていこうとする。 そこにスーフィズムの大きな特徴があります。
ここではもはや、「我」と「汝」という関係が問題ではなくなってまいりまして、「我」の問題だけになる。すべては「我」の一点に集約されてしまいます。スーフィー的修行道の極点において、「我」が本質的に変質し、今まで人間的「我」であったものが、突然神的な「我」になる、あるいは神的「我」として自覚される。これを俗に人が神になるというのであります。』

これが、「イスラーム文化」が「東洋文化」へとつながる部分です。この自我を無化する行為が、「禅」につながる部分でもある訳です。現在の「東洋文化」的な例としては、「孫悟空」つまり、日本のアニメ文化の表現にもある「ドラゴンボール」が示しています。この交戦好きな人間?(悟空)が主人公の作品には、常に「自らの進化」が、織り込まれて見えます。


『たとえばイランの有名な神秘家バーヤジード・バスターミー(Bayajid Bastami)---西暦九世紀、初期スーフィズムの大立者であります---がこんなことも言っています。「蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように、私は私の殻を脱ぎ捨てた。そして私は私自身の中をフト覗き込んで見た。すると驚いた、私はまさしく彼だった」と。私はまさしく彼だった。「彼」とは言うまでもなく神であります。
普通の神秘主義ですと、こんな場合、たちまち言語道断、コトバの道が跡絶え、コトバでは言い表わしょうもない幽玄な境地、ということになって沈黙してしまうわけですが、すぐれて言語的であるイスラームでは、だれもなかなか黙るということはいたしません。どこまでも、ものを言おうとする。ちょっとパラドキシカルになりますけれど、言語を超えた次元で、あえて言語を使おうとする。
このような状況でのスーフィーの発言を術語で「シャタハート」(shatahat)と申します。アラビア語です。酒に酔いしれた人の吐く異常なコトバ、「泥酔妄語」とでも申しましょうか、事実、この言葉のもとになった「シャタハ」(shataha)という動詞は、酒を飲み、飲み過ぎて泥酔するという意味です。ですから、「シャタハート」とは非日常的な意識からほとばしり出てくる非日常的なコトバであります。』

「イスラーム文化」が示す、この極めて「前衛的な特質」は、「欧米的な科学の文化」と「東洋的な進化の文化」を「コトバ」でもってつなぐ、「文化的(地球的)な働き」を、持つところだと私は考えるのです。


『第一級のスーフィーたちの「泥酔妄語」(あるいは「酔言」)がたくさん今日まで伝えられておりますが、その多くは、普通われわれが酔っ払いのコトバということで考えるようなわけのわからない諭吉(うわごと)みたいなものではなくて、むしろはっきり筋の通った言表です。しかし、その筋の通った意味が極端に冒漬的であるような発言、神をまともに冒漬するような内容の発言であることを特徴といたします。なかでも世に有名な、西洋でもよく知られたものは、さっき名を挙げましたハッラージの「アナ・ル・ハック」(Ana al-Haqq)でしょう。「アナ」は私、「ハック」というのは真理とか真実とかいうことで、al-は定冠詞です。定冠詞がつくと「唯一の」とか、「絶対の」とかいう意味になります。ですから、「我こそは唯一の絶対者」「我こそ真実在」というような意味であります。』

これこそが、「イスラーム」のもう一つの半分、インド文化、中国文化、そして果ては、「日本文化」へと繋がっていく、「ワタシ」としての「場(人間と地球意識をつなぐ)」を指していると考えます。そしてさらに、あくまでも自我から離れられない「スーフィー」達は、次のような「泥酔妄語」を述べ始めるのです。


『もう少し長い、そしてきわめて独創的な発言としましては、さっき挙げましたこのバスターミーの次のようなコトバがあります。
「霊性の大海の深みに飛び込んだ私は、ついに神の玉座にたどりついた。ところが、驚いたことに、玉座の上には誰もいなかった。私はその場にひれ伏して言った、神よ、汝の御姿をどこに求めたらよろしいのでしょうかと。すると目の前の帳がスルスルと巻き揚げられて、私はそこに、驚いたことに、私自身の姿を見たのだ。私は、そうだ、私だった。結局、私はほかならぬ私自身を求めてここまで来たのだった」。
そう言いまして、さらに彼は続けてこう申します。
「私は私ではない、だが、私は私だ、なぜなら、私は実は彼なのだから。私は彼なのだ、彼なのだ」と。
「私は彼なのだ」「アナ・フワ」(Ana huwa)、「わたしは彼」、まさに古代インドの、【ウパニシャド】にいわゆる「我こそは・か・の・も・の・」「アヤム・アスミ」(Ayam asmi)、あるいは「アハム・ブラーフマースミ」(Aham Brahma'smi)「我こそはブラフマンなり」、という境地。
そしてバスターミーはさらに付け加えて申します。「我はある。我のほかに神はいない、我を礼拝せよ」と。
イスラームの一神教的世界において発言されるとき、このような発言がいかに大胆不敵で、いかに危険なものであるかは想像に難くありません。はたして非常に多くのスーフィーがこのような発言の故に刑場の露と消えたのであります。生命を賭して、命を失ってまでもこのような発言をスーフィーたちにあえてさせた体験が、深い哲学的意義をもつものであることは、申すまでもありません。
今いくつかの例を挙げましたスーフィー独特の「泥酔妄語」、このような異常なコトバの源となった特殊な体験、そういう体験をした人の意識が、普通の人間のそれとは全く違った内的状態であることは明らかでありまして、またそのような意識状態にある人の見た世界---内的世界、外的世界ともに含めて---が常識的人間の見る世界とはまるで違った異様な世界であることも明らかであります。』

まさにこれこそが、「自我」と「世界(地球意識)」の融合を、あくまでも「自我」からみた立場を離れずに(離れられずに)、述べていると考えます。
そう、これからの人類にとって重要なのは、「地球意識とつながりながら生きること」に尽きる様に思います。「場の意識」のコトバを使って、そのセンスを磨くことが求められている様に思えて仕方がないのです。これらは、「信仰や思想」などの「理念や概念」ではなく、実際に試してみて、手応えを確かめるためのものだと私は考えています。
非常識極まりない発言ですよね。。。。
常識とのバランスを損ないかねない体験談は、可能なら信じたくない所でしょうか。ですが、考えてもみてください。AIや量子コンピューターを可能とする技術の革新は、そんな常識さえも吹き飛ばしてしまうほどのインパクトがあります。多くの人たちは、新しい技術ができたと大喜びですが、人類の霊長類としての自尊心や、アイデンティティさえも破壊してしまいかねないこの事態を、多くの識者は憂慮しているはずです。もう既に、人間の思考能力を遥かに凌駕し始めているこれらの技術を、この先どうやってコントロールするのでしょうか。
これまでの私のブログは、信仰やイデオロギーを示しているのではなく、人間自体を超えて行く新しい認識の一つの可能性に、一歩足を踏み出すべきだと、指摘しているのに過ぎないのです。必要なのは、信仰や理論ではなく、体験や実践そのものだと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?