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二度目のインパクト2

あけましておめでとうございます。
本年もよろしく、お願い申し上げます。
年が明けて、すでに二週目です。突然中東の近辺が炎上し始めて憂慮しておりましたが、ひとまずは収束に向かって良かったです。私は特に、宗教としてのイスラム教への思い入れはないのですが、自国の尊厳(政治的自由)に対する干渉は、どこの国であろうと、見過ごすことは出来ない出来事だと思います。この度は、イランとアメリカの双方ともに戦争を望んでおらず、一部の過激派を除いて、意見の一致が見られる様です。

前回のブログで、『「場の意識」と「関係の意識」のコトバの効用について』述べたいと書きましたが、まだまだ「発展途上の概念」であることは確かです。ですが、「人間の心」の本質が詳らかになって来ると、意識せざるを得ない概念だと思います。これらの概念は、「イスラーム神秘主義」の伝統には既にある様で、「井筒俊彦」先生は、これを熟知されていたようです。
そして、先のブログで紹介した、「井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生」との衝撃(偶然)の出会いを経て、その詳細が詳らかにされてくるのです。このブログの題名にもなっている「泥酔妄語」の言葉も、「井筒俊彦」先生の著作にある、スーフィー(イスラーム神秘主義の神秘家)の「妄言」に対する翻訳を拝借したものです。
私はある特定の宗教を信仰したことはなく、そのつもりもありませんが、世界中に流布されている「宗教思想の本質」には、「何らかの普遍性」が隠されていると信じる者です。私が書いている体験談が、ただの虚構に過ぎないかどうかは、その「言動や事実関係」、更には、そこで述べられている「本質的な意味」からお察し頂ければと思います。

さて、このコトバになぜ「偶然」が付きまとうのかと言いますと、まずはその出会いから、お話しすべきだろうと思います。
その当時は、結婚したばかりで、埼玉県の深谷市というところに住んでいました。余談ですが深谷市は、明治の実業家として有名な「渋沢栄一翁」の生誕の地です。そこのとあるアパートの駐車場を家に向って歩いていた時に、突然あるコトバが、ひらめいたのです。そのコトバが「バトカンケイ」という言葉です。不思議なのですがそのコトバは、思考を伴っており、あてはまる漢字がありました。それが「場と関係」です。こんなことを改まって書くと、たいそうに聞こえますが、普段の思考の中に「場と関係」のコトバが、深い意味も解らず思い浮かんだのです。ですがこのコトバは、次第に脳裏から離れなくなって行き、少しこのコトバの意味について、思考を深めてみようと、思い立ったのです。
蛇足ですが、この辺りは、数年後に知る処となるヌース理論(現在は、ヌーソロジー)の半田広宣氏の体験とも似ています。違うのは「高次元の知生体との通信」としてではなく、「自分の思考に寄り添うように、染み出したコトバ」であった点でしょうか。あちらは、理知的でアカデミック。こちらは情緒的でプラクティカル、とでも言えば良いですかねえ。

最初このコトバの意味について思い浮かんだのは、大学の専門であった物理学の考え方です。それは、量子力学の「不確定性原理」と言う考え方です。今でこそ、AIの話題等で有名になりましたが、その当時は一般にはマニアックな部類に入る考え方です。ここで「場」は、「波動関数(確率波の振幅)」を意味し、「関係」は、「力学関数(位置と運動量)」を意味します。更に「関係」は、古典力学と呼ばれる分野で「運動方程式」を意味します。これが、物質の微細な領域【10exp-10m規模(原子サイズ)】に達すると、「波動方程式」つまり「場と場の干渉」が、意味を持つ世界となってきます。そして「不確定性原理」と呼ばれる原理は、プランク定数(ℏ)を要として、「関係の領域」と「場の領域」を橋渡しする方程式ともなって見えるのです。

そして「場と関係」のコトバの概念は、これだけには留まらなかったのです。物理学の分野では、「関係」は、閉じられた「因果の法則」を意味します。そして「場」は、「素粒子構造」と呼ばれる「高次元の構造体」へと繋がっています。

さてさて、カンの良い方は、ここで「関係」が意味する「閉じた次元の領域」と、「場」が意味する「高次元へと開かれた方向性」がイメージされるかと思います。そしてこれらは、「人間の意識」にも当てはまっていて、私が「関係の意識」と「場の意識」と呼んでいる「2つの意識」に対応します。驚くべきは、「井筒俊彦」先生が、「言語学」のアプローチを用いて、「物理学」とは全く異なった手法で、同様の結論に至っている点です。「人間の意識」と「物理的空間」が同様の構造を持っている可能性が、見えてきたのです。私が、「ヌーソロジー」と呼ばれる思想運動(こう書くと、イデオロギーと誤解されそうですので「意識科学」と書くべきかも知れませんが。)にシンパシーを感じるのも、この「量子力学の原理」が、人間の本質(意識構造)と深く関わっているとの観点にあります。

それでは、話を戻しますと、「井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生」との偶然の出会いが、どれほど衝撃的な出来事であったか、多少はご理解頂けますでしょうか。
この本には、以下の紹介文があります。
『東西の叡智を一身に体現する世界的思想家、井筒俊彦。その著作を読み解きながら、井筒哲学の基層や可能性に迫る。』
言語学者であり、思想家であり、哲学者でもある氏の、世界に対する洞察の奥深さが垣間見れる紹介文です。ですが私にとっては、しょうしょう物足りないのです。「井筒俊彦」先生の洞察は、こんな思想レベルのものではないとの想いがあります。
それは、私の「神秘体験(あえて言ってしまいます)」ともオーバーラップするからです。

さて次回は、当時の私のブログ『「匿名」にしてください。』を引用しながら、本書で感じた衝撃について、書いて行きたいと思います。

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