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「意味の深みへ5」

「人生の反転」について、いろいろな体験(解釈)を書きましたが、最も大きな反転は、人生そのものだったと言えそうです。そしてその反転を象徴する、最初の実体験が、ここのブログにも書いた、「最初のインパクト」の中の『「金星」と「鉄塔」と「鋭い三日月」からなる、生々しい「ギロチンのイメージ」』の心象風景です。

https://note.com/mr_mu/n/n3e3f5f824ae6

その当時は、今でいう、上司のパワハラのストレスからくる、「関係の意識」を象徴する出来事でしたが、今の「場の意識」から観察すると、その「意味する処」が全く違って見えて来るのです。
何だか謎かけの様ですが、これを今ここですぐに書いてしまうと、その意味する次元が「宗教の次元」か、良くて「思想の次元」で解釈されてしまい、意味の本質が伝わらない可能性があります。よって、「宗教の次元」から順を追って上げて行く意味でも、以下の「禅の講義」の内容から「井筒俊彦」先生の「意味の深みへ(スーフィズムと言語哲学)」のつづきへと入って行きます。

まずは、嵐山天龍寺館長、「佐々木容道」老師による講義の内容からです。

はじめに「禅宗」は、もともと維摩経の「維摩居士」の流れであることが語られました。その昔、舎利弗(般若心経に登場する釈迦の弟子)が森で座禅を組んでいるとそこにやって来て、こう語り掛けてきたのだそうです。「舎利弗よ座するばかりが座禅ではないぞ、心と体に捕らわれない、生活そのものが座禅である」と。「維摩居士」は、在家で悟りに至った人物で、「禅宗」は伝統的に「出家」と「在家」をあまり区別しないのだそうです。「六祖慧能禅師」も、在家の身で「五祖弘忍禅師」から「法」を授かり、そこを原点に、多くの著名な禅僧を輩出するのだそうです。「法話と禅語」のホームページによりますと、

「臨済宗、雲門宗、曹洞宗、仰宗、法眼宗の五家と、これに臨済宗の二派、楊岐ようぎ派と黄龍(おうりょう)派を加えて五家七宗に分化発展し、日本にも二十四流の禅として伝えられ現在に至っている」

と書かれていました。よってそこから、「曹源一滴水」という言葉が生まれます。これは、「六祖慧能禅師」を指す言葉で、一滴の水から、大河が生れてくる事への例えだそうです。この様に、必ずしも、「宗教者」や「専門家」「学者」と呼ばれる人たちが、新しい「創造的な道」を、切り開いたわけではないことを伺わせます。

さて、実は「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」の「スーフィズムと言語哲学」の章を考察する中で、それとは全く関係のない「座禅の講義」を通して、「維摩居士」や「禅仏教」が、生の体験とシンクロする形で、思考の中に入って来たのです。以下は、「スーフィズムと言語哲学」のつづきです。


『本日の私の主題は「スーフィズムと言語哲学」ということでございますが、ここで先ず第一に、今お話いたしました「バシーラ」による実在の真相体験、すなわち意識の深層的機能による日常的存在秩序の解体、新しい分節、新しい存在秩序の組み直しということが、事実、コトバと深くかかわっているということにご注意願いたいと思います。ただし、この場合、スーフィー的神秘主義的実在体験とコトバとのかかわりが否定的、パラドキシカルなかかわりであるということも注意に値します。
スーフィーは、あるいはより一般に神秘家は、己れの体験を言葉で表現し、記述したりしようとすると、たちまち乗り超えることのできない壁にぶつかってしまう。
もともとわれわれの日常使っている言語は意識の日常的次元における存在分節に基づいたものでありますから、これは当然であります。コトバという語を日常的社会生活で使用されている普通の常識的コミュニケーションの言語と理解いたしますと、スーフーたちの実在体験は、明らかにコトバを超えたものであり、コミュニケーションを拒絶する性質のものなのであります。
それならいったいどうしたらいいのか、思い切りよく一切の言語の使用を断念してしまうか。事実、そういういき方をとる場合が従来は非常に多かったのであります。
(中略)

コトバを超えている。ロゴス以前、ロゴスの彼方、コトバで表現することも叙述したりすることもできないもの、それが初めから当事者にはわかっている。とすれば、例のヴィマラキールティ、維摩居士のように、話が究極のところまできたら黙然として口を閉じてしまうのが、いちばん利口なやり方なのかもしれません。しかし、本来ロゴス的存在である人間には、なかなか黙り通してしまうということもできない。』

ここに、「仏教の限界」が、一般に言う「仏教文化の在り方」として、示されています。今に伝わる「空」としての「仏教文化」には、これを「コトバ」に分節する次元が、見えていなかった。もっと言えば、「東洋文化」には、そこを突破する理性が足りていなかったとも言えるのかも知れません。そう、多くの「仏教文化」の中で、「真言密教」だけが、「その可能性を温存し続けた」とも言えそうです。と言いますのは、「真言密教」には、言葉による表現を否定しない(諦めない)ところがあるからです。ですが、後世の時代に、あまりに呪術的(コトバの意味を考えない)になり過ぎたきらいがある様です。


『そればかりではありません。言語道断とか、コトバを超えるとか申しますけれども、それはコトバというものを先ほどお話しました社会制度化された記号コードとしての常識的コミュニケーションの言語として考えた上での発言でありまして心の下意識的領域に場を持つ意味の生成過程、深層意識の薄暗がりの中で点滅し、活動している無数の意味可能体まで掘り下げてコトバというものを考えますと、問題はそう簡単に解決できなくなってまいります。だいいち、コトバのそのような次元に視座を据えてみますと常識的にはコトバを超えたものとされる実在体験、実在ヴィジョンにしても、意味可能体による存在リアリティの分節し直し、そして分節されたものの組み直しによって処理できる面も出てくるはずでありまして、単純にコトバを超えた境地などといってすましているわけにはいかなくなってくるのであります。』

「コトバがない」とは、「概念がない」と同義であり、「存在しない」とも同義なのです。つまり、「ロゴスを俯瞰する視点が持てていない」ことであり、この「意味可能体」が、封鎖された現実があったのです。これが中東(イスラーム)において、言語化できたのには、それなりの理由があるのです。


『コトバは、さっき申しましたように、元来、人間の日常的、常識的存在次元において、人間相互のコミュニケーションの要求に合わせて設定されているものでありますから、コトバを使うというからには、どうしても社会的記号コードとしての言語を使うほかはない。しかし、それの使い方次第では、社会的記号コードの下に伏在している意味可能体を示唆するようにすることも不可能ではない、というふうに考えなおしてみようとするのであります。
つまり、実際に使われるコトバは、普通の人間の使う普通のコトバにはほかならなくとも、その使い方次第で、そこに一種のヒネリが出てくることがあり得る。いわば、ひとひねりしたコトバの使い方を考えるのでありまして、日常言語のこのヒネリ、あるいは歪み、から生じてくる異常な意味論的緊張のうちに、常識的にはコトバにならないと考えられているような精神的事態が言語化されることもありうるというわけであります。
そしていったん、コトバをこのような方向に向かって発動させ、いわゆる「言語以前」の体験内容の言語化が始まりますと、それがさらに進んで一種独特の哲学的思想にまで展開するということにもなってまいります。われわれに身近なところでは、大乗仏教の哲学など、要するにそのような性格の哲学だと私は思いますが、イスラームでもスーフィーと呼ばれる神秘家たちは、常識的にはコトバにならない実在体験をあえてロゴス化し、言語化した特殊な哲学をつくり出しております。』

この特殊な哲学は、「東洋文化」と「西洋文化」の狭間に位置する、中東ならではの地理的要因が生み出した、「特殊な哲学(イスラーム文化)」に思えるのです。


『いわばスーフィズムの哲学ということでございますが、この種の哲学をイスラームではギリシャ系、特にアリストテレス系のスコラ哲学、いわゆる「ファルサファ」(falsafah)----「ファルサファ」というのはもちろんギリシャ語のアラビア語化でありまして、スコラ哲学、ギリシャ系のアリストテレス的なスコラ哲学をイスラームでは「ファルサファ」と呼びます----からはっきり区別いたしまして、神秘主義的実在体験に基づくスーフィズム的哲学を術語的に「イルファーン」と申します。後世の思想界、特にイランの思想界では、「イルファーン」と同時に、「ヒクマット」(hikmat)という語も使います。「ヒクマット」とは、英語でよくwisdomなどと訳されておりますが、叡知、知恵、もちろん非常に特殊な意味での知恵でありまして、普通の人間の感性的、理性的認識とは全く違う実在認識の形であります。大乗仏教の「プラジュニャー」、つまり「般若の知」などと呼ばれているものにほほ該当します。』

「佐々木容道」老師によると、この「般若の知」と呼ばれる哲学は、かつてインダス文明が隆盛だった時期の名残でもあるようです。


『このように考えてみますと、哲学として展開した神秘主義、すなわち「イルファーン」あるいは「ヒクマット」は、われわれの日常的意識の働きを超えた根源的に非ロゴス的な意識次元に働く「バシーラ」、内観の目、に映った非ロゴス的存在風景を、その次元特有の意味分節に従って、全く新しくロゴス的に組み立て直したものであるはずでありまして、意識論としましては、意識の超ロゴス的領域の機能構造論であり、存在論としては存在の超ロゴス的様相の構造論であるということになります。
また言語論としては、もともと日常的シチュエーションにいちばん適合した形ででき上がっているコトバが、日常的シチュエーションからいわば無理に引き離されて、非日常的な限界領域、限界状況に移されたとき、どのような形で機能し始めるか、どのような意味作用を示し始めるかという、一種独特な意味論として展開いたします。この点において「イルファーン」、あるいは「ヒクマット」なるものは大変興味ある現代的な言語哲学的問題性をはらんでいるのであります。
しかし、これまでの私の簡単な説明でもおわかりいただけたと思いますが、「イルファーン」「ヒクマット」と呼ばれるスーフィー的哲学は、本性上、スーフィー的存在体験の内容のロゴス化、哲学化でありまして、それ以前に、哲学以前の生のスーフィー体験というものがあることを忘れてはならない。ですから、言語論としましても、「イルファーン」ないしは「ヒクマット」の言語哲学で、哲学的に取り扱う以前に、スーフィーたちがその特殊な実在体験の中で吐き出す生の言葉というものがあります。それをまず考察しなければならないのであります。
要するにスーフィーたちは、哲学する以前にスーフィーだったということであります。したがって、結局問題は、また元に戻って、スーフィズムとは何かということになります。
(中略)
今日の話の最初のところで、私はスーフィズムとはイスラームの文化枠の中で、それに根本的に条件付けられた形で生れ育ったミスティシズム、イスラーム的神秘主義であると申しました。しかし、実はこれだけではまだ何事も解明されてはおりません。神秘主義それ自体につきましては、これを広い意味で、一種の普遍的精神現象として先ほど仮に定義いたしましたようなところで、いちおう満足しておくことにいたしましても、この地球上、人間の歴史において今までに現われてきた神秘主義のいろいろなタイプの中で、特にイスラーム的という形容詞に値するものはどんなタイプの神秘主義なのであるか、それが先ず第一の問題であります。詳しく論じ出しますと際限もなくなりますが、それを極端に単純化して、いわゆる神秘主義なるものを、私はまず第一に有神論的神秘主義と、無神論的神秘主義という形に二大別したいと思います。
無神論的神秘主義ということで私が考えておりますのは、たとえば古代インドのブラフマニズム、大乗仏教諸派、わけても禅仏教のようなものであります。』


イスラームの知恵によって見えて来る「希望」があります。「バランスの場所」と呼ばれ、「中東の地」に発する「イスラーム文化」は、「東洋の文化」と「西洋の文化」の橋渡しとなる、「全地球的な要」の可能性を秘めています。私には、そう感じられました。
じつはここにも「場」と「関係」があります。「イデオロギー」と呼ばれる現象の中にも、下意識を通して及ぼす作用があります。その一つの例が「全体主義」と呼ばれる現象です。最も代表的な例として、「西洋文化圏」の「ロシア」と、「東洋文化圏」の「中国」を、考えてみたいと思います。
一般にロシアでは、文化や芸術を重んじる傾向が強くあります。そしてマルクス・レーニンよる思想(思考)は、「唯物思想(科学主義)」と「人間信仰」の形で「全体主義」と呼ばれる「大自然に対する抑圧への反作用」を生み出したのです。そして中国では、現実を重んじる傾向を背景とした「唯物思想」が、「自文化否定」の形で現れたのです。殆どの人は意識していませんが、「文化」とは「人間の外面(人間の上位次元の認識領域)」の表現を意味します。これが「場の意識」と呼んでいる現象です。そして「政治」とは、「人間の内面(人間が関係性を形成する領域)」での闘争を意味します。これが、「関係の意識」が引き起こす出来事です。そして「ロシアと中国」における「下意識への作用」の違いが、「科学信仰(唯物思想)」を背景に、「関係の意識」への信仰と、「場の意識」の否定の形で現れたのが、「全体主義」だと考えたのです。つまり、「全地球的な文化」には、その「地理的要因(西洋と東洋)」により、「関係の意識(陽:顕在的)」と「場の意識(陰:潜在的)」への「文化的な分極(傾向)」があるのです。
(※「人間の外面」と「人間の内面」のコトバ自体は、ヌーソロジー(半田広宣氏)の「シリウス言語」から拝借しています。)


だいぶ長くなりました。それでは次回は、「場の意識」と「関係の意識」の「コトバ」がもたらす可能性を、「井筒俊彦」先生の著作に現されたイスラームの神秘家の「コトバ」を通して、述べてみたいと思います。

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