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「意味の深みへ3」

なんでこの様なブログを嬉々として書き綴っているのか。。。
多くの人が、私のブログを「私小説」ぐらいに思っておられることと思います。ですが、「真実」とまでは言いませんが、まぎれもない「体験談」です。これらの「出来事」の「解釈」をめぐって、「賛否両論」あるとは思いますが、「作り話」は一つもありません。
さて「神秘体験」と銘打って、最近ここに書いていますが、「これが神秘体験だ」として認識しだしたのは、けっこう最近の事です。それまでは、「おもしろい明晰夢を見る様になったな」とか、「おもしろい空間共鳴現象が重なるな」とか、「反転した人生が始まって久しいな」といった、個々バラバラの「体験的な内容」に終始していたのですが、「井筒俊彦」先生の著作である『意味の深みへ』と出会ったことで、「思想的な意味合い」を帯び始めたのです。そして更に「多くの体験的な事実関係」との符合の中で、「普遍的な意味合い」を持ち始めます。そして最終的に「これが神秘体験(秘儀参入)である」との認識を強くした切っ掛けとなったのが、『意味の深みへ』の第6章、「スーフィズムと言語哲学」との出会いです。
それでは以下に、「書籍の内容」と「体験的な事実関係」の符合の部分を中心に、述べてみたいと思います。


『二十世紀後半、特に構造主義が起こってから現在までの西洋の思想界の大きな特徴、そしてまた地球社会的普遍性を持つ世界文化的パラダイムとしての西洋の圧倒的影響のもとにある非西洋世界、具体的に言えば東洋、の現代思想の顕著な特徴、少なくともその一つ、は言語に対する関心であると私は思います。
現に日本の思想界でも、特に西洋化の傾向の著しい進歩的分野では言語に対する異常な関心が見られます。文化人類学、記号学、哲学などはその典型な場合でありまして、今日ではコトバは決して専門的言語学者だけの研究対象ではありません。』


おっしゃる通り、「言語」への強い関心は、思想界にとどまらず、コンピュータの世界にまで及び、C#やPython等への関心も含めて、AIを応用した新産業の登場と共に、さらに拍車がかかっています。


『このことは、現代社会におけるコミュニケーションの重要性を考えただけでも、容易に理解できることですが、さらにコミュニケーション以前、つまり人間における意識の成立そのものに対するコトバのかかわりの重要性がわかってきたということが、もっとも大切な要因です。
わけても、フロイトやユングなどの深層心理学の研究の成果を通じて、人間意識の社会生活的表面の底に、下意識的薄暮の領域が想定されてきた、それがわれわれにコトバの異常な重要性を悟らせる一つの有力な動機となったのであります。』


皮肉なことですが、コンピューターに代表される「人工言語」は、「関係の意識」のことば以上の何者でもなく、「井筒俊彦」先生が語る「意味の深み」は、まさに、「場の意識」が顕在化させたコトバ(意味の自己分節作用)に思えるのです。


『意味論的には、この下意識的---私は無意識的とは申しません---下意識的領域こそ、コトバの意味生成の生きた場として考えられなければならないのでありまして、もしこのような意識構造モデルを立てるということになりますと、普通われわれがコトバの「意味」と呼んでいるものが、たんに辞書に記載されている単語の社会制度的意味だけでなくて、さらに、いわばその下に、通常は気づかれない形で、今現に生れつつある意味、まだ言語コードに形式的に組み入れられていない意味、浮動し、流動し、絶え間なく新しくつくり直され、組み直されていく意味可能体の星雲のようなものを、どうしても考えなければならないことになってきます。この下意識的意味領域の認知は、あらゆる次元における人間存在にたいするコトバの絶大な関わりを、われわれに悟らさずにはおかないような性質のものなのであります。』


ここで「井筒俊彦」先生は、こう言ったコトバが活動する人間意識の深層の領域を「無意識的領域」とは呼ばず、「下意識的領域」と呼んでいます。これは私の体験にもあって、決して「無意識的」ではないのです。どんな、「明晰夢」や「直感的な言葉」の体験も、どこか「意識的な部分」が残っていて、『「場の意識」と「関係の意識」』と呼んでいるコトバも、「無意識的」な発声と言うよりも、「意味不明ながらも自然に何度も口走る」発声(バトカンケイ)であり、それでいて「深い意味を予感させる余韻」のようなものが、あったのです。そしてそこから、このコトバに関する「意味の探求」が始まるのです。まさに、コトバが先にあって、意味が後から付いてくるような不思議な体験だったのです。

長くなりましたので次回に続きます。

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