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再考ロス疑惑 三浦和義著『不透明な時』を読んで


まえがき

「ロス疑惑」は1981年にロサンゼルスで起こった銃撃事件が保険金殺人の疑いがあるとして三浦和義に嫌疑がかけられマスコミの報道が過熱した一連の疑惑であり、『不透明な時』はロス疑惑の報道が過熱していた1984年に三浦本人によって書かれた著書である。
僕は80年代前半はまだ小学生だったので、この疑惑について興味を持って見ていたわけではない。
銃撃事件の報道をリアルタイムで見た記憶はないが、一連の疑惑報道は幼くてあまり理解できないながらも見ていた記憶はある。
しかし、ロス疑惑に関する報道は僕が成人になっても度々テレビで報道され、事件について僕と同世代の人をはじめ多くの人が知ることとなった。
僕はこの本は今から十数年前に読んだのだが、この事件のことが忘れられず、今回改めて本を読み返し、記事にしようと思った次第である。
なお、三浦以外の一般人の氏名は念のために伏せてある。

三浦和義の経歴

三浦和義

三浦和義は山梨県で生まれ、北海道で幼少期を過ごした後、千葉県で育ったが、父の仕事の関係での転居だった(本人談)。
石原裕次郎などを育てた映画プロデューサーの水の江瀧子氏が父方の叔母であることが発覚し、水の江氏はこのスキャンダルのために芸能界を引退している。
中学時代は神奈川県で暮らしていたが、何度も家出したり教師と喧嘩したりする問題児だったという。
高校時代は生徒会長であるにもかかわらず停学処分を受けたり、強盗傷害、窃盗、日本刀不法所持などで逮捕され、少年鑑別所に収監されるが、脱走した経歴がある。
高校は退学になり、1966年に放火容疑で逮捕され、懲役10年の判決を受け水戸少年刑務所に収監されるが、刑期7年で仮出所した。
出所後は『土曜漫画』や『週刊漫画』の編集部で働いた後、「三浦ドレス」「三浦兄弟商会」「Mオフィス」といった会社を設立後(本人談)、雑貨輸入会社「フルハムロード」を設立した。

ロス疑惑の概要

銃撃事件の現場(現在)

ロス疑惑の概要は以下のようなものである。
1981年(昭和56年)8月31日、三浦が妻K美とロサンゼルスを旅行中、ホテルの部屋に女性が上がり込んできて、K美の頭部を鈍器で殴打し、K美は軽症を負った(K美さん殴打事件)。
同年11月18日、三浦夫妻がアメリカ渡航中にロサンゼルス市内の駐車場で銃撃事件に遭遇。
2人組の男に銃撃され、K美は頭を撃たれて意識不明の重体になり、三浦も足を撃たれ負傷した。
三浦は「犯人はグリーンの車に乗っていたラテン系の2人組」と主張した。
1982年(昭和57年)1月、三浦は「悲劇の夫」としてマスコミに取り上げられ、その後もたびたび報道されていた。
K美は日本に移送され、神奈川県の病院に入院したが、同年11月30日、意識が戻ることなく死亡した。
三浦は、保険会社3社から計1億5500万円の保険金を受け取った。
1984年(昭和59年)1月、『週刊文春』が「疑惑の銃弾」というタイトルで、この事件が「保険金殺人ではないか」とする内容の連載記事を掲載した。
それ以降、マスコミの報道が過熱化することになる。
三浦の自宅前に記者が列をなし、マスコミ関係者が自宅に不法侵入する事件も起きている。
1985年(昭和60年)、三浦の恋人であるYが殴打事件の犯行を新聞上で匿名で告白した。
その後、夕刊紙がYの実名を暴露し、それ以来実名報道となる。
同年9月11日、警視庁は三浦を殴打事件での殺人未遂容疑で逮捕し、同月12日、Yも同容疑で逮捕された。
三浦は1998年に釈放されるまで13年間を拘置所で過ごしている。
釈放後4ヶ月の後、殴打事件でYに懲役2年6ヶ月、三浦には懲役6年が確定し、宮城刑務所に収監されるが、三浦は未決勾留の期間を差し引かれ、2年2ヶ月で出所した。
三浦が一連の事件で収監されたのは通算16年であった。
銃撃事件の裁判で、東京地裁は三浦に無期懲役の判決を下したが、三浦は東京高裁に控訴した。
高裁では、実行犯が特定できていないことから証拠不十分で逆転無罪となるが、検察は最高裁に上告した。
2003年、上告が棄却され、銃撃事件の日本での三浦の無罪が確定した。
2008年、三浦はサイパン島で現地に出向いていたロサンゼルスの警察に殺人容疑で逮捕された。
捜査当局は、殺人罪において時効のないカリフォルニア州のロサンゼルスへの移送を目指していた。
三浦側は「一事不再理」の原則を主張して、ロサンゼルスへの身柄移送の中止と身柄の解放を訴えて、法廷で争った。
一事不再理とは、確定した判決がある場合には再度審理をすることは許さないとする原則のことである。
同年9月26日に裁判所は殺人罪の逮捕状は日本で判決が確定した一事不再理にあたり無効とした上で、殺人の共謀罪については日本で裁かれていないとして有効とした。
同年10月10日、サイパンからロサンゼルス市警に身柄移送された三浦は、同日にロサンゼルス市警内の留置所で首を吊っているのを発見された。
警察は調査により自殺と発表した。
しかし、三浦の弁護人は「遺体を検視した病理学者が自殺ではなく他殺であったと結論づけた」と主張している。

ジェイン・ドゥ・88事件の概要

2009年逮捕時の三浦

三浦には「もう一つのロス疑惑」の嫌疑もかけられた。
1979年(昭和54年)、ロサンゼルス郊外で身元不明のミイラ化した女性の遺体が発見された。
当初、この遺体は「ジェイン・ドウ・88」と呼称されていた。
「身元不明の88人目の遺体」という意味で、アメリカでは身元不明の男性を「John Doe」、女性を「Jane Doe」と呼ぶ慣わしがあるためである。
1984年(昭和59年)、歯型から身元が確認され、1979年に行方不明になっていた日本人女性C子であり、彼女は結婚していたが当時三浦と交際していた。
1978年(昭和53年)2月、C子は三浦の経営する会社の取締役に就任している。
1979年、C子は夫と正式離婚したが、「北海道に行く」と言い残し行方不明になっていた。
同年3月29日、ロサンゼルスにC子の入国記録があり、三浦は3月27日にロサンゼルスに入り、4月6日に帰国している。
三浦は、彼女の口座に5月8日に振り込まれた前夫からの慰藉料である426万円を6月12日までに複数回に渡って引き出していた。
三浦はC子に金を貸しており、「アメリカから送られてきた彼女のキャッシュカードを使い、引き出した」と供述している。
この事件は日本では証拠不十分のため立件されなかった。
2009年1月、アメリカの捜査当局の元捜査官が三浦が自殺する直前にC子殺人容疑で訴追、再逮捕する方針を固めていたことを明らかにした。
C子の渡米理由が三浦に会いに行くこと以外に考えられないこと、被害者の銀行口座から金を引き出していたことなどの状況証拠に基づき三浦の単独犯行と断定、死刑求刑が可能な第1級殺人と窃盗容疑で近く逮捕状を請求する方針を固めており、捜査トップにも報告していたという。
同年1月14日、ロサンゼルス市警は記者会見し、三浦がC子を殺害した容疑者だったと結論づける捜査結果を公式に発表した。

著書のあらまし

『不透明な時』のカバー写真

この本は1984年に書かれている。
『週刊文春』の「疑惑の銃弾」の連載が始まったのはこの年の1月である。
翌1985年に三浦の愛人のYが殴打事件の犯行を告白、その年の9月に彼とYが逮捕され、彼はそれ以降の13年間勾留されることになる。
要するにこの本はロス疑惑の報道が加熱していた最中に書かれ、翌年に逮捕され勾留されるまでのつかの間の自由な身の時に書かれたと思われる。
もっとも自由と言っても、彼にとっては私生活での自由が事実上マスコミにかなり奪われていた可能性もあるが。
本の内容は主に自分自身の会社の事業のこと、C子さんやK美さんとの関係、そして、その他の人物との関わり合いで占められている。
全体的に自らの潔白を主張する内容になっているが、実際に伝票など数々の物的証拠を提示しつつも、自身の無罪を決定づけるような証拠は何も示されていない。
もっともそんな証拠があればとっくに警察に差し出していたであろうから当然のことと言える。
彼の性格は文章から察すると虚栄心の強い男という印象を受ける。
虚栄心の強い人間は自分を華美なもので飾って体裁を取り繕う傾向があるが、話す内容に関しても「自分がいかに異性にモテるか」ということを強調する傾向があるからである。
事件とは関係のない内容も少なくない印象だが、事件と関係ない被害者との会話のやりとりだって、被害者自身が事件に直接関わっている当事者である以上、全然関係がないとは言い切れないのである。
彼はこの著書によって一連の疑惑を晴らせるとは思っていなかっただろうから、僕にはほとんど興味本位に書かれた本に思えた。
マスコミの報道がもっとも加熱していた時期でもあっただろうから、本が売れることによって得られる印税を期待しての刊行だったという側面が大部分だったと思う。
彼がもし「クロ」であるなら、彼の犯した行為は言語道断の許されざる行為である。
彼を信頼していた何の罪もない女性を自らの金銭欲のために死に至らしめる行為は極悪非道と言わざるを得ない。
しかし、彼が「シロ」か「クロ」かを僕の憶測で述べても何の意味もない。
彼自身もうこの世にいないし、僕がどれだけ事件について詳しく調べて検証しようとも、この事件に対する世間の認識が覆る筈はないからである。
事件に関しては判決や捜査当局が公式に発表した内容を尊重する他ない。
ただ僕が興味を持ったのは、彼が会社を設立して事業を営んだ経緯、被害者の女性や周囲の人間との関係、事件前後やマスコミに疑惑が取り沙汰たれてからの彼の心境などである。
著書の最初の部分でこう述べている。

私はこの書で、いわゆる「疑惑」なるものがすべて氷解するとは楽観していない。いままであまりに多く語られすぎてきたから……。不存在の証明は"悪魔の証明"といわれているそうだ。私には、すべての不存在を証明することは不可能である。

「悪魔の証明」とは、「ないこと」を証明するのは「あること」を証明するよりも非常に困難であるという意味の言葉である。
例えば、地球上にツチノコがいることを証明するには一匹捕まえればいいが、いないことを証明するには地球上をくまなく探さなければならない、というような意味である。

C子さんとの馴れ初めについて

C子さんの写真

著書は全体が「昭和○○年」というような章で区切られ、その年に起こった出来事などを実際の会話を交えて書かれている。
会話の部分に関して彼はこう述べている。

本文中、会話の部分が数多くあるが、これはそのとおりを記憶しているものを除いて、前後のいきさつから判断して私が推量して書いている。このことだけをお断りしておきたい。

最初は「昭和五十一年——ニューヨーク」という章で始まる。
冒頭部分はC子さんと最初に交わした会話から始まるが、それに続いて会社設立に至った経緯について書かれている。

当時、私はアンティーク・ドレスの買い付けのため、何度もニューヨークへ飛んでいた。この年の六月二十三日、私は二回目の結婚をしている。
この結婚の数ヶ月前に、それまで勤めていたファブリック・メーカー(生地屋)の『エイガールズ』を辞め、渋谷区神宮前にある木造アパート・浅見荘で『三浦ドレス』を始めた。
とはいえ、浅見荘は新婚生活の場でもあったし『三浦ドレス』も、法人ではなく単なる個人のビジネスだった。
(中略)
こうして、アンティーク・ドレスの買い付けで順調にビジネスが回転しはじめ、この年の九月一日には、それまでサラリーマンをしていた実弟とともに、株式会社『三浦兄弟商会』を設立している。場所は『三浦ドレス』のあった自分たち夫婦の部屋のある浅見荘に、もう一部屋を借り、そこを事務所とした。
兄である私は、アメリカに飛んでアンティーク・ドレスを買い付けて日本で卸し、一方、弟は買い付けたアンティーク・ドレスをコピーして売るメーカーを志向していた。
後になって、私がこの『三浦兄弟商会』を弟に譲渡し、やがて『フルハムロード』を設立することになったのも、兄と弟の方向の違いが理由となっている。

三浦はニューヨークでビジネスを通じて知り合ったS・M子さんという女性から、東京にいる妹に荷物を渡してほしいと頼まれ、引き受ける。
これがC子さんと出会う切っ掛けとなった。
C子さんと初めて会った時のことを次のように述べている。

C子さんと初めて会ったのが、教えられた目黒に電話したその日のうちだったのか、あるいは数日経ってからだったのか、ハッキリとはしない。こちらとしては、ニューヨークで買い付けてきた商品の整理で忙しく、そんなことに時間をとられるのは、正直なところ迷惑という気持ちがあったのだけは覚えている。
電話で待ち合わせた場所は、原宿の喫茶店だったと思う。ひと目で、私は彼女に魅かれた。米国製の茶色のカトラスという大型車に乗り、五、六歳の男の子を連れて現れた彼女は、当時、私の周囲にいた女性とはまるで違っていた。

彼もC子さんも結婚していたが、やがて肉体関係を含めた交際に至る。
しかし、彼はこの著書でC子さんとの関係は軽い交際だったことを強調し、同棲していたとする報道を否定している。


最初がアソビだったら、最後までアソビでしかない。それが、私の男女哲学。あとになって、私とC子さんが同棲していたのではなかったのか、などと疑惑をもたれることになったが、断じてそのようなことはない。彼女とは、おたがい、最初から最後まで気のおけないアソビの関係であった。

水戸少年刑務所でのこと



水戸刑務所の外観(現在)

次の章は過去に戻り、「昭和四十三年〜四十九年——水戸少年刑務所」という題名である。
ここでは約7年間過ごした刑務所での生活やその当時の心境などが書かれている。

昭和四十三年七月三十一日、横浜地方裁判所の法廷で判決を受けた。
「被告人を懲役十年に処する」
少年時代の過誤というには、犯した罪はあまりにも大きい。あのころの自分をかえりみると、"野獣の時"としか考えられず、その衝動を説き明かすことは、いまの自分にもできない。
だが、判決を得たときから、私は本来の、いま生きている自分の人生が始まった、と思う。

刑務所にいる間、父親が何かと世話してくれ、毎月面会に来て数十冊の本を差し入れてくれたと三浦は述べている。
彼は父親のことを誰よりも慕っているようなことを述べているが、彼の父親は相当立派な人間だったようである。

水戸での六年あまり、私はこの当時のことをかえりみて"七年制大学"であったと思う。それほど、よく勉強をしたつもりだ。法政大学の通信教育を受講し、あらゆる分野の書籍を二、三千冊読破した。
"我思う、故に我あり"——このことばに触発されたのが、私を本に向かわせたきっかけだったと記憶している。

1日1冊読破したとして1年で365冊。
3,000冊読破するには10年近くかかる。
当時の刑務所の房にテレビが設置されていたかはわからないが、テレビなどの娯楽をそっちのけで読書のみに集中すれば1日1冊のペースで読破するのは可能かもしれない。
休日は数冊読破できなくはないと思うが、約7年間で2〜3,000冊というのは驚くべき数字である。
勿論、誇張が含まれている可能性はある。
実は僕自身この著書を初めて読んだのが受刑生活の時だったのである。
僕は受刑生活の間に出所してからの自分の仕事のことについて真剣に考えた末、会社を経営することを思いついた。
僕の思いついた会社は彼の会社と似ていた。
彼の会社は主にファッションや雑貨を取り扱っているが、僕が考えたのは中古オーディオ製品を販売する会社だった。
東京で中古オーディオ販売店を経営している人と受刑生活の間に知り合って話を聞いていたのである。
その人はオーディオ製品を盗品だと認識しつつも店で販売した罪で服役していた。
その人はあくまで国内で中古製品を仕入れていたが、僕は商品を海外で買い付けて輸入し、売る商売を考えていた。
しかし、実際、出所してからそんなに甘くないことを知った。
第一、そのような店を立ち上げるにしてもまとまった資金が必要である。
そういう訳で出所後その夢は半ば諦めた。
しかし、自分が起業しようと考えていたビジネスのスタイルと彼が営んでいるビジネスのスタイルが共通する面が多かったので、この本を興味深く読んだ記憶がある。

彼はニューヨークという街に特別な思い入れがあるように語っている。

ニューヨークは、幸運な人間にとって、齧っても齧っても食べきれないほどにおいしいリンゴ。その反面、ついていない人間には、齧っても齧ってもいつまでも酸っぱい味がするリンゴでもある。

1974年から1976年までのことについて

次の章は「昭和四十九年〜五十一年——飛翔への滑走」という題名である。
ここでは主に本格的に事業を営むまでの経緯について書かれている。
冒頭で次のように述べている。

C子さんと初めてホテルでベッドをともにしたころ、私はすでに『三浦兄弟商会』を弟に譲渡していたかもしれない。彼女とは、そう頻繁に会っていたわけではなく、初めて原宿の喫茶店で会って以来、月に一回、あるいは二回くらいのペースで会っていたように覚えている。
『三浦兄弟商会』から『フルハムロード』の準備会社『Mオフィス』を構えたのが、昭和五十二年の一月だったろう。たしか、C子さんはこの『Mオフィス』に、経理としてかなり初期から参加していたような気がする。
(中略)
C子さんが私の仕事を経理面で手伝ってくれるようになったのは、なにも私が彼女にもちかけたからではなかった。その間の詳しい事情は記憶が定かではないが、ただ、彼女のほうから「なにか仕事をしたい」と、いいだしたのがきっかけだったように思う。

「三浦兄弟商会」は株式会社だったらしい。
今の会社法では資本金1円から会社を設立できるが、当時の商法では株式会社であれば資本金1,000万円以上ないと設立できなかった。
三浦はその資金を用意できたことになる。
しかし、そのことに関する記述はない。
ただ、会社の株の60パーセントを所有していたと述べているので、弟と資金を出し合ったのかもしれない。
その会社の代表取締役を弟に譲ったと述べている。


私はアメリカを歩きまわって商品を買い付けることに刺激と生きがいを感じていた。ただ、それだけの理由で、弟に会社を譲ったのだ。また、そうすることが、それまでサラリーマンをやっていた弟を口説き落として私のビジネスに引っぱりこんだことに対する私の責任でもあった。

この会社は浅見荘という木造アパートの一室で業務を行い、三浦夫妻も同じアパートの一室に住んでいた。
ここで妻M子さんと弟の仲がしっくりいかなかったことについて触れているが、夫妻はやがて転居することになる。
その経緯についてこう述べている。

いくら仕事の延長とはいえ二階の私たちのスイートホームに顔を出す弟に、二人だけの時間を邪魔されるのが、たまらなくイヤだったようだ。そんなとき、M子は露骨に感情を表に出した。
しかし、この職住同居という状態は、まもなく解消されることになった。ある日、M子のお父さんから、公団募集の抽選に当選し、江東区南砂の団地に入居できるとの連絡を受けたのだ。

団地に入居後、猫を飼ったことについて触れているが、ここでマスコミの報道の誤りを指摘している。

二人だけの生活に、やがて一匹の猫が加わった。たしか、サンケイ・リビングだったと思うが、無料配布の新聞に『ネコゆずります』との広告があり、川崎までもらいに行ったのだ。それが、グレである。
グレはペルシャと三毛の混血で、生まれてすぐに貰ってきたのだが、その当時、身体全体が灰色だったことから、グレと名付けた。
(中略)
一部マスコミが、グレはC子さんの飼い猫だったと報じているようだが、まったく事実とは違っている。その命名が、C子さんが愛用していたフランスの香水「グレ」からきている、という報道にいたっては、なにをかいわんや、である。

妻M子さんとは弟に対する彼女の暴言が原因で別居し、離婚に至ったと後に述べている。
彼は女性に対する気持ちを次のように述べている。

たしかに、私は四回結婚している、しかし、これまでをかえりみて、つくづく思うのだが、私はいつも人を、そして女性を愛してきた。愛さずにはいられなかった。
私は一人として女性をもてあそんだことはない。いつでも真剣に愛していた。愛していながら、いつもその愛に物足りなさを感じていた。私が本当に充足しえたのは、亡きK美であり、Yである。
四回結婚したということに関しても、その真剣さの結果であった。いい加減な気持ちでは結婚する気になれないだろう。
(中略)
その一方で、結婚ということを考えない愛情を何人もの女性に感じたことも事実だ。街で通りかかって偶然に出会った女性に、女性としての魅力を感じたら、私はその感情に素直になろうとした。無理に感情をおさえつけても意味がない、とも思っていたようだ。

彼はここでも刑務所にいた当時のことについて触れている。
彼は受刑生活の間にノートに書き記したことを掲載しているが、その一部を転載する。

〔1969年2月2日〕
「釈放後のこと——
十年から七年の受刑後、釈放され、自分は何をすべき。父の援助を受けるならば本屋を開き、書籍の内で生活してゆきたいと思っている。静かに、内よりだけ外を眺め、学びゆく気持ちで過ごしてゆきたいと思っている。
自分の内的真実に忠実であればあるだけに、新たな道も考えられるが、いまはいうまいと思う。たとえ過去、自分が侮辱してきた小市民的生活に過ごすとも、父のため、すべてを我慢することだ。
確かに過去の自分の在り方は十分間違っていた。この誤りをふたたび犯さないため、学問により自分を錬磨してゆかねばならない。
自分の存在と方法がすべて真理たることが、完全なことと思う。
が……。生きるということは、かくも辛く悲しいことが多いのか」
水戸から出たあと、父といっしょに東京に戻った。本屋でもと思っていたのだが、社会に出てみると、さすがに人より七年も遅れていることに焦りに似た気持ちを抱き、生来の"動"の部分が頭をもたげはじめた。
それに、私の性格は生来、明朗快活、けっしてネクラではない。気持ちの切り替えも早いつもりだ。十代に犯した罪は、七年近くの服役で償ったものとしなければ、一歩も前へ進めない。水戸のことは忘れなければならないと思った。

彼が受刑生活の間考えていた出所後の仕事は、本屋を開くということだったが、いざ出所してみるとその考えを変えざるを得なかったようである。

たぶん、新聞広告で見つけたのだったろう。お茶の水の新聞販売店で新聞配達をやり、父の友人にお世話していただいた『土曜漫画』誌の編集部へかけ込み、原稿をとりに奔走したあと、夜にはサンケイ新聞に飛んでいって社員食堂の皿洗い。深夜二時に皿洗いが終わって、そのままサンケイ新聞社の仮眠室で二、三時間の仮眠。そして、早朝、お茶の水へ行って新聞配達。
働きまくった。この生活を三ヶ月近くやり抜いて、五〜六〇万円の貯金ができていたと思う。おカネが貯まったところで、仕事を土曜漫画だけにしぼり、当時、実家のあった神奈川県の秦野市から小田急線を利用して編集部のあったお茶の水へと通うようになった。

彼は刑務所にいた時、印刷工場で働かされたと述べているが、その経験が雑誌の編集部で働いたことに少なからず影響していたのかもしれない。

彼はこの当時、最初の結婚をしたが、その経緯についてこう述べている。

小田急線の上り電車の車中、痴漢にいたずらされていた女性を助けたことがあった。その女性がS子(仮名)であり、その三ヶ月後に私たちは結婚したのだ。昭和五十年二月二十四日のことである。私たちは、世田谷区の桜ヶ丘の木造アパートで新婚生活を始めた。彼女はある光学機器メーカーの部長秘書をしていたOLで、美人だった。なによりも、そのテキパキとした態度に好感を持ったのを覚えている。
大久保にある教会で挙式。私はたしかそのとき、ジーンズ姿だったように思う。S子は姉さん女房タイプで、よく気のつく女性だった。しかし、S子との結婚は六ヶ月たらずで破局を迎えることとなった。その原因は、私のほうにある。

やがて彼が働いていた「土曜漫画」は倒産してしまう。
その後、彼は編集部で働いていた時に知り合ったH女史という人のマネージャーとして働き始め、彼女がオープンした赤坂にある「青い真珠」というナイトクラブでも働き始める。

日中は社長の雑用係、夜は店内でボーイとホステスを総括する店長を補佐して働いた。土曜漫画時代は月給九万円あまりだったのが、一気に四十万円前後にハネ上がる。客からもらうチップが大きかった。

しかし、この仕事も結局長続きしない。
辞めた経緯について次のように記しているが、それに続けて彼は自分の会社の債権者に対する責任を全うしたいとの意向を述べている。

私は筋の通らぬことは苦手だ。水戸での所内生活で"ハンチクなことはダメだ"と叩きこまれたし、人との関わり方は"筋を通す"ことが唯一という不文律があった。それを無視しては生活は成り立たなかったのだ。
この性格は"長いものには巻かれろ"という考えとはもっとも遠いところにあり、水商売には向いていなかった。やがて、ホステス人事の問題で社長と対立し、私はホステスの味方をして辞めざるをえなくなった。
この筋を通すというやり方は、いまのいまでも少しも変わっていない。たとえば、誰かと知らない場所で約束するとしたら、前もってその場所へ行き所在を確認することを怠らないし、約束の十五分前には行っている。
今回のこの騒動で、我が愛する『フルハムロード』の業務停止を余儀なくされたあとも、自己破産をして債権者の方たちに迷惑をかけることだけは断じてできない、と私財のすべてを投げうって債務を返済した。
ことは『フルハムロード』ではなく、三浦個人に関することであり、会社に対して迷惑をかけることはできない相談だ。それを社長である私が自己破産を申告して逃げ出すようなことをしたのでは、筋は通らない。
ここにいたるまで、K美から相続した保険金はほとんど手をつけていなかったが、ことここにいたり、やむをえず、そこから債権者の方々への返済にあてた。

彼の著書には刑務所で服役していた頃の話が度々出てくる。
受刑生活は彼のその後の人生に非常に大きな影響を与えたように推測される。

その後、彼は同じ編集部で働いていた時に知り合った別のY・M女史という人の下で働くことになる。
彼が出所後働いた仕事は堅気な商売とは言えないような仕事だったが、次の仕事もそのような仕事だったようである。

『青い真珠』をやめたあと、おなじく土曜漫画の取材で知り合った、Y・M女史のオフィスに『愛のY・M研究室』に入社した。ここでの私の仕事の主なものといえば、借金の言い訳係であった。
クリエイターとしての才能はバツグンだった彼女だが、こと経営に関してはからきしダメで、私の仕事は、彼女が気ままに借りた暴利の借金の引き延ばし交渉。話を聞けば聞くほど目茶苦茶で、二百万円を借りて、毎月利子だけで七十万円もを、すでに五ヶ月にわたって払いつづけているというではないか。渡されたリストを手に、私は金融業者を歩きまわった。

受刑生活が彼のその後の人生や価値観に大きな影響を与えたであろうことは想像できるが、僕の見解では、彼が出所後に働いたこのような仕事も彼のその後の人生や価値観にかなり影響していたと思われる。

この仕事は次の引用文にあるような理由で終わることになるが、この後、彼はファッション業界に初めて踏み入れることになる。

やがて、『愛のY・M研究室』に、サギの容疑がかかることになった。南太平洋にハート型の島を見つけた女史は、その所有権も持たぬまま、『夢の島』ということで会員を募ったのがいけなかった。女史は単に思いつきをマスコミに公表しただけだったようだが、申し込み者がつぎつぎに現金を送ってきたのだ。
この事件の最中、ある週刊誌記者が私に会いにきた。
「これ以上"Y・M研究室"にいると、あなたの叔母である水の江滝子さんの名に傷がついてしまいますよ」
と、教えられ、私のために叔母に迷惑がかかることを避けるべく、私は退職した。
このあと、兄が慶應大学時代に同級生だった方が経営する『エイガールズ』に入社し、初めてファッション・ビジネスの世界に入ることになった。

彼の叔母が水の江瀧子さんだということが発覚したのは「週刊文春」で記事が連載されてロス疑惑の報道が始まってからだと思う。
しかし、彼がここで言っていることが本当だとすれば、当時の名もない彼に週刊誌の記者がこう尋ねたという。
週刊誌の記者がたかが女性社長にこき使われている青年の親族まで調べるだろうか。
当時、彼はC子さんと知り合う前であり、ロス疑惑の事件など影も形もないのである。
僕はこの部分に関する記述はかなり疑わしいと思う。


1977年から1978年5月までのことについて


次は、1977年(昭和52年)から三浦がK美さんと知り合う前までの1978年(昭和53年)5月までの著書の内容について解説する。
「昭和五十二年——原宿」
「昭和五十三年五月——類焼」
「昭和五十三年五月——有栖川マンション」
以上の題名の章である。
「有栖川マンション」というのは当時C子さんが住んでいたマンションの名称である。
冒頭は次のように始まる。

『Mオフィス』は、昭和五十二年一月に発足したと思う。事務所は渋谷区神宮前2-20-11、八百辰ビル101号、八畳ほどのスペースのワンルームであった。
このときまで、すでに十回あまりアメリカに渡っていることが、パスポートの渡航記録に残っている。アンティーク・ドレスの買い付けもすっかり慣れてきたころだ。

三浦は最初の章で、1976年(昭和51年)6月に二度目の結婚をし、その数ヶ月前に最初にファッション業界で働いた「エイガールズ」を辞め、彼の最初の会社「三浦ドレス」を立ち上げたと述べている。
そして、この年の9月に「三浦兄弟商会」を設立し、翌年の1977年(昭和52年)1月に「Mオフィス」を立ち上げたということは、彼がファッション業界に入ってから「Mオフィス」設立までは1年足らずの期間ということになる。

飽くまで僕の憶測だが、彼はファッションの世界で儲かり、自分の会社がとんとん拍子に成長していくさまに酔っていた面はあったと思う。
そして、それが彼の金銭欲を目覚めさせ、もし彼が一連の事件の犯人だったなら、分別を失うほど金銭欲に心が支配されるようになっていったのではないか。
人間は怒り、憎しみ、性欲、金銭欲などに心が支配された時、過ちを犯す。

彼は最初の章の冒頭部分で、C子さんと初めて会話を交わしたのは1976年(昭和51年)の「秋から冬にかけてだったと思う」と述べているが、「三浦兄弟商会」の時と推測される。
そして、C子さんに「Mオフィス」の経理を手伝ってもらっていたらしい。
しかし、C子さんとの交際は遊びでしかなかったことをここでも強調している。

また、仮に私に対してひたむきな愛情を持ったと仮定したら、私のところにかかってくるおびただしい数の女性からの私用電話に我慢がならなかったにちがいない。いい加減、彼女はあきれて去っていったと思うのが自然ではないか。
それに、オフィスにかかってくる電話で、女性とのデートの約束をしているのだ。私の行動のある程度まではわかっていたのだから、ヤキモチを焼こうとしたらキリがなかったろう。
彼女にはそんな素振りはまったくなかった。そして同時に、二週間に一度ぐらいの割合いで、私とおなじベッドに入っていたのだ。彼女が私に対してどのような気持ちを抱いていたのか、それで見当はつこうというものではないか。
彼女にとって私が遊びやすいボーイフレンドであったと同時に、私にとっても彼女は遊びやすいガールフレンドであったにすぎない。

「Mオフィス」は渋谷区にある雑居ビルに事務所があり、当時の彼の住まいは別の場所にあった。
知り合いの女性に自宅ではなく会社の電話番号を教えていたのは、彼が結婚していたからだろうが、この部分に関してはかなり誇張が入っていると思われる。
例えば、「おびただしい数の女性」という表現である。
買い付けのために半月はアメリカ、半月は日本という生活だったと彼自身語っているので、それほど多くの女性と知り合う機会があったとは考え難い。
C子さんとはそれほど深い関係ではなかったことを強調する理由もわからない。

次の章の冒頭で彼はマスコミや自分の周囲の人間に対する不信感を露わにしている。

この騒動に巻き込まれるまで、私はマスコミに対して漠然とながら信頼を置いていた。刻々と報道されるニュースは、しかるべき裏付けとなる資料や取材によって集められたものに違いない、という程度の信頼である。
だが、私をめぐる一連のマスコミの報道ぶりを肌で知って、それがまったく間違いであったことを痛いほど知らされることになった。いま、私は一部の大新聞を除いて、すべてのマスコミを信用できなくなっている。
週刊文春の『疑惑の銃弾』と称する連載記事に関しても、私は二百ヶ所あまりの事実誤認を指摘できるし、他のマスコミの報道姿勢にしても、予断にもとづく作意を感じないわけにはいかない。
(中略)
某テレビ局は、私に対して連日にわたり"疑惑"報道をしていながら、特番を作るので出演してほしいといってきて、出演料は一千万円でも支払うとまで言い出すのだった。
つまりは、私を材料にした、いわゆる"三浦疑惑"なるものを番組メニューにすることで、視聴率や実売部数がハネ上がると踏んだマスコミは、疑惑とかいわれるものの裏付けとなるものを提示してとやかくいう前に、なにがなんでも私が"クロ"でなければ始末がつかないといった姿勢で、私を商売のネタにした。
私が悲しく思うのは、こうしたマスコミの姿勢に乗せられてなのか、私の周囲の人間たちが、どう思い起こしても誤り、あるいは事実無根のことがらを、世間に向かって公言したことであった。

「フルハムロード」設立後、3ヶ月余り経ってからショールームとして使用していた浅見荘の一室が火事になる。
彼の談によれば1978年5月のことだったという。

『フルハムロード』設立後、三ヶ月あまりたってから、浅見荘が燃えた。それは、私が米国への仕入れの旅から帰った翌日のことであった。この火災に関しても、私に対して一部マスコミは疑惑を抱いているような記事の書き方をしている。
私が十代に犯した罪を前もって記述しておき、そのうえでこの火災に関して疑惑を向けているのだ。七年近くの刑に服し、私は過去のあやまちに対する罰は受けたものと思っている。しかし、マスコミはそうは受けとってくれなかったようだ。社会人として公正に生きている私に対しても、偏見の目を向けていたとしか思いようがないではないか。
たしかに私は浅見荘のショールームに収納した商品に保険をかけていた。だが、このことになんの疑問があるだろうか。在庫商品は『フルハムロード』にとって生死にかかわる貴重な財産である。品物に万一のことがあったら、たちまち仕事はストップしてしまう。それに、大金を投じて買い付けてきたものではないか。保険をかけない経営者がどこにいるだろうか。

この火災は隣の部屋の住人のタバコの不始末ということで収まっている。
しかし、当時のマスコミも同じように考えたのだろうが、僕もこれを読んで犯行の手口から三浦が関与していたのではないかという疑念を抱いた。
当時のマスコミが疑いの目を向けていたように、もしこの火災を引き起こしたのが彼で、C子さんやK美さんの事件の犯人も彼だと仮定した場合、次のような推理ができる。
この保険金目当ての放火は後のC子さんやK美さんの事件を引き起こす起点となった。
もし放火ならアパートであればその当時、現に人が住んでいただろうから「現住建造物等放火罪」にあたる。
現住建造物放火は死傷者が出ていなくても死刑になり得ると言われるほどの重罪で、殺人と同等かそれ以上に罪が重いと言われているほどの重罪である。
かつて放火で服役したことのある彼が放火罪の量刑に関して知識がなかったとは考えられない。
もしこれが彼の犯行だとすれば、大変なリスクを伴った行為である。
しかし、以上はあくまで仮定の話である。

アパートの火災に関する記述の後、二人目の妻であるM子さんとの離婚に至った経緯について書かれている。
彼の弟の妻の父親が亡くなった時、妻M子さんが「なんで私があんな人のお父さんのお通夜に行かなければならないの?」「あんな人のお父さん、死んであたりまえよ!いい気味だわ」と言ったらしく、それが離婚の原因になったらしい。
しかし、M子さんはロス疑惑の事件とは無関係なのだから、一連の疑惑とはあまり関係のない内容のように思える。

C子さんが正式離婚したのは彼女が行方不明になった1979年(昭和54年)のことだが、彼はその前年から彼女の離婚に向けての動きを認識していたと語っている。

南青山へ引っ越したときは、ご主人と別居したのだなということはわかったが、さらに彼女ひとりだけで住む場所を見つけたいと言いだしたのだから、私は勝手に、いよいよ本格的に別居するのか、と推察していた。私もいつものように、彼女のプライバシーに関して、どうのこうの聞き出すつもりもなかった。
ただ、引っ越すといっても彼女は経済的に余裕がなかったらしく、見つけた有栖川マンションの入居時に必要な六十万円余を、私に貸してほしいといってきた。
それまでにも何度となく社員におカネは貸したことがあったし、C子さんは信頼のおける人間であったから一にも二にもなく貸すことにした。たしか、私の車のなかでそのおカネを彼女に手渡した記憶がある。別に、一筆書いてもらうなどということはしていない。それまでも、またそれ以後も、私は信用する人間におカネを貸すとき、そのようなものは書いてもらったことはない。

彼はC子さんのキャッシュカードで金を引き出したのは、C子さんに金を貸していたからだと主張しているが、もしそれが虚偽だとするなら事実をでっち上げてまでもC子さんに金を貸したと主張する理由は十分ある。
当人はこの世にいないのだから確かめようがない。
アメリカの捜査当局は、彼がC子さんを殺害した容疑者だと結論づける捜査結果を公式に発表しているのである。

彼はC子さんが彼の会社の経理を担当しているIという人物と交際していることを知り、C子さんを責めたということを語っている。
会社と関わりのない人間との交際なら問題ないが、会社と関わりのある人間との交際は彼にとって問題があったらしい。
彼はIに会社の経理を辞めてもらい、C子さんはそれ以来会社に出社しなくなり行方をくらましたが、探した結果、睡眠薬を多量に飲んだ後、病院に運ばれ入院していたという。

S院長が説明してくれた。睡眠薬の飲み過ぎによる薬物中毒、とのことだった。
それだけである。一部マスコミで、このとき、C子さんは外傷を負っていて、暴力を振るったのは私というようなことを書き立てたが、まったくの事実無根。S院長(仮名)ご自身、「そのようなことはなかったと思う」とおっしゃっている。また、カルテにもそんなことは記載されてはいない——ということであった。

しかし、彼はC子さんとの関係はそれほど深い関係ではなかったと突き放すような書き方をしているし、自分以外の男性とも不倫しているC子さんに対してあまり良い感情を抱いておらず、暴力を振るった可能性も十分考えられる。

K美さんとの馴れ初めについて

三浦とK美さん


次の章は「昭和五十三年——チェリス氷川坂」という題名である。
C子さんは会社を自主退社し、歯科の受付として働き始めるが、三浦との交際は続いていたらしい。

彼女は『フルハムロード』の経理を担当していた社員である。この時点で、事実上、C子さんは『フルハムロード』の仕事とはノータッチとなっている。ただ、形だけの役員としての立場は以降、昭和五十四年三月三十一日までつづいていた。
それも、たんに私が彼女の役員としての立場を会社から抹消することを忘れていて、あとになって後任の経理士が、私のアメリカ滞在中に、形式上、臨時株主総会をやったということでその手続きをとったといういきさつである。時期がこの日付となったことにしても、一月三十一日の決算から六〇日以内という規定によるものであった、と聞いた。

昭和54年(1979年)3月31日はC子さんがアメリカへ立った直後で、彼もアメリカへ出張のために渡航し滞在中の日である。
この部分に関する記述もかなり疑わしい。
C子さんが役員として登録されていれば会社の定款に記さなければならないから、記録として残っているため、嘘はつけなかったはずである。
彼女が行方不明になるまで彼の会社に役員として関わっていたことを否定する理由はある。
C子さんが死亡した事件への関与を否定するためである。
彼が事件の犯人だったなら完全犯罪を目論んだであろうが、C子さんの役員としての登録を抹消するタイミングなどは浅薄である。
会社の役員の記録まで調べられないと思っていたのだろうか。
あるいは、そもそも事件が明るみになることはないだろうと踏んでいたのだろうか。
完全犯罪とは、警察の捜査が及んだとしても自分が罪に裁かれないように企てて実行することではないのか。

この章で初めてK美さんが登場するが、彼はK美さんと初めて出会った時のことを次のように書いている。

そんな最中、六月三十日に、武道館でダイアナ・ロスのコンサートが行われた。C子さんはチケットを手に入れ、そこへ行くという。コンサートが終わったら迎えに来てほしいとのことだった。
その夜、仕事を終えると、私は彼女と待ち合わせたフェアモント・ホテルへと向かった。千鳥ヶ淵に面したガラス張りのカフェテラスに入る。公園に向かって最前列のテーブルだけはシートが向き合わせにはなっていず、外の景色に面して一列に並んでいる。
そこに席を下ろした。そろそろ、目の前の武道館では、ダイアナ・ロスのコンサートが終わろうとしている時間だった。夜の八時過ぎだったろう。
おなじ最前列のテーブルに、スラリと伸びた脚をきれいに組んだ若い女性がひとり、ポツンと坐っていた。後から来て傍に坐った私を気にとめるようすもなく、熱心に本を読みふけっている。
スリムながら、胸のあたりの豊かなふくらみは、どんな男の視線をも釘付けにしないではおかないだろう。コーヒーをすすりながら、私はタバコに火をつけ、フッーとひとつ煙を吐いた。
〈素敵な女性だ……〉
傍にひとり坐っているその若い女性に、私の心は集中していた。とはいえ、容易に声をかけられるような風情ではない。こんなとき、なにかのきっかけさえつかめれば、と男なら誰しも思うだろう。
ガラス越しに見える千鳥ヶ淵公園の堤が、初夏の心地よいそよ風に吹かれて、街路灯にあわく浮かんでいた。ためらっていた私の足許に、彼女が読んでいた本のあいだからしおりが落ちた。身をかがめてそれを拾う。彼女と、初めて視線があった。

この後、彼が初めてK美さんと交わした会話を書いているが、それに続けてこう書いている。

どんな内容の話をしたのか、はっきりとは覚えていないが、K美の第一印象はこのようなものだった。名刺には会社の電話番号も刷られている。このときから、私はいつでもK美と連絡することができたわけだ。一部マスコミが、私がなにやらK美のことを調べまわって彼女の連絡先を見つけ出したように書いていたが、あまりといえばあまりの邪推だ。
K美との話に花が咲いたところに、C子さんが入ってきた。K美とはそこで別れて、私は席を立ち、C子さんをうながして車に乗った。
「あの女性、誰なの?素敵な人ね……」
「初めて会ったんだ。彼女もダイアナ・ロスのコンサートに行ってる人と待ち合わせしてるんだってさ」
「社長ったら、まったく手が早いんだから」
いたずらっぽく、C子さんは私にこういった。たしなめるとか、嫉妬とかいうのではない。いつものように、私が女性に声をかけたことを冷やかすような口調であった。
私の知るかぎり、C子さんとK美が顔を合わせたのは、このとき一度だけである。あとにも先にも、たった一回、この時だけであった。

彼のK美さんとの出会いはこのようにドラマチックに書かれていて、事実を美化して書いた可能性もある。
彼自身、会話の部分ははっきり覚えていないので推量で書いていると述べているし、人間は過去の思い出を美化して記憶する傾向があると言われているが、「死人に口なし」なのだからいくらでも話を作ることはできただろう。

彼は以前住んでいたマンションから新しいマンションへ引っ越す。
章の題名にある「チェリス氷川坂」というのは彼が引っ越した新しいマンションの名称である。

続いて、C子さんに対する気持ちとは対照的に、K美さんに対しての気持ちは真剣だったことを強調している。

K美のことが頭から離れなかった。なにか将来の進展を予感させるようなものがあった。すぐさま、彼女がくれた名刺に書かれてあった電話番号をまわす。
K美の声は私の耳に爽やかに響いた。私はしきりに彼女を食事に誘った。
K美の明るさに翳りがなかった。大人びた外見とは違う無邪気な明るさ。それに、人生についての態度も真摯であった。ときとして少女趣味とも思わせるような物想いに、大きな瞳を曇らせたりもした。K美のそんな観念的な物思いは、同世代の友人たちよりは書物を読みあさっていた私にも理解をもとにすることができたと思う。
(中略)
私にとって、K美はそんな軽さは感じさせなかった。安易な気持ちにはさせないなにかがあった。彼女の存在感は、素敵に重たかったのである。
前にも書いたように、私はこれまで一度もふらちな気持ちで女性とかかわった記憶はない。つねに真剣であった。ただ、真剣さに度合いの差があったのだ。あるときは、真剣にかかわろうとすればするほど、相手の女性の軽薄さが浮き出て見えてきたり、それで熱がさめたこともあったと思う。
真剣になればなるほど、私は相手の女性に対して臆病になる。安易に身体に触れて、それで彼女に自分の本当の気持ちを曲解されたらどうしよう、と気おくれしてしまうのだ。
デートにK美を誘っても、私は彼女をベッドに誘うようなことはできなかった。K美とは、初めからアソビではなかったのだ。最初から本気であった。だからこそ、会ったその日以来、彼女との将来を予感したのである。

K美さんは仕事をしていて川崎市に両親と同居しており、夜遅くまで出歩くようなタイプの女性ではなかっため、あまり頻繁に会えなかったらしい。

K美は、あらゆる意味で私の理想とする女性であった。たしか、三度目ぐらいのデートのとき、私はK美との結婚を意識した。
当時の私の立場は、依然として法的にはM子の夫であることに変わりはなかったが、精神的にはまったく独身と思っていた。
K美も、私のそんな真剣さをしだいに理解してくれはじめた。私の気持ちが伝わりはじめたのである。ただ、私はM子のことを口に出すことができなかった。たとえ離婚も同然の状態とはいえ、まだ正式に届けを出していなかった。それを口にして、K美に正当に理解されなかったら、と考えるだけで身が凍るようだった。
おまけに、M子との結婚は実は二度目で、もしK美と結婚するとなると三度目となる。私のK美への気持ちが一点の疑いもなく真剣なものであっても、K美にしてみれば、三度目の結婚と知っただけで偏見に眼を覆われてしまうことになるだろう。どうしても、このことだけは言い出せなかった。

彼は自分が結婚した女性に対しては真剣だったと語っているが、僕の個人的な意見では、彼の結婚に対しての意識は一般人のそれに比べてかなり軽いと思う。

一方、C子さんに対しては愛情が冷めていったらしい。

C子さんに対する私の気持ちは、だんだんドライになっていく。突き放すように、しだいに距離をとっていった。
だからといって、男と女の関係がすっかり切れたというのではない。悪く表現すれば、惰性でつづけていたともいえる。それは、C子さんにとってもおなじではなかっただろうか。私には彼女の真意はわからない。

やがて彼はK美さんと結婚するが、彼によれば最初に彼との結婚を言い出したのは彼女のほうだったという。

K美に"結婚"を口にしたのは、この年の九月か十月ごろだった。それまでは、私はK美とベッドをともにしたことがなかったし、プラトニックな交際をつづけていた。C子さんとのハワイ旅行は、遊びでしかなかった。それは、C子さんにしてもおなじことだったろう。
なぜ私がK美と三ヶ月余ものあいだ積極的に男と女の関わりをもたなかったのかは、前にも書いた。私は、K美の真面目さがこわかったし、安易に誘ってピシャッとやられて、それでK美を失うのがこわかったのだ。
K美が私に対して結婚を口にしたのには、ある理由があった。九月か十月に、彼女のおばあ様が亡くなられた。その直前、容態が悪化し、いよいよダメだというときになって、K美は私にいうのだった。
「おばあちゃんに、私と結婚する相手だといってあげてくれないかしら」
聞けば、彼女のおばあ様の唯一の気がかりは、K美がまだ独身でいることだという。一一も二もなく、私は同意した。
「わかった。でも、僕は本当に結婚するつもりでいるんだよ。おばあさんの気安めのためにいうんじゃない。いいかい、K美、結婚しよう」
K美は、こっくりとうなずいた。病床でいまにも危険な状態であったおばあ様に、私はこう告げた。
「三浦と申します。K美さんは、ぼくがお嫁にもらいたいと思っています」
その場には、K美の親族の方たちが居合わせていた。このとき初めて、K美と私との結婚は公のスケジュールになったといえる。でも、私はM子のこともS子のことも、まだK美には明かしていなかった。

1978年から1979年までのことについて


次の章とその次の章では、1978年から1979年の初頭までことについて書かれている。
「昭和五十三年〜五十四年——ポラロイド写真」「昭和五十三年〜五十四年——往復書簡」
以上の題名の章である。
C子さんの住むマンションのドアを叩いて「出てこい」と脅す人間がおり、そのためにC子さんはマンションを出たいと言い出したという。
彼女の持っている写真が離婚調停の際の彼女側の証拠になるためにそれを狙っているのだという。
彼はそれを預かり、写真は封をされた封筒に入っていたが、ずっとあとになって見たら、C子さんの夫が裸でスワッピングのプレイをしている写真だったらしい。
彼はこの写真は切り刻んで捨てたが、マスコミの報道で出てきたようである。
C子さんが同じ写真を別の人間にも渡していたかは定かではないが、その写真に三浦とC子さんの夫であるK氏が一緒に写っていた。
そのことについて彼はこう述べている。

今回のこの騒動の渦中、スワッピング写真が公表され、私の隣にC子さんのご主人が写っていたと書かれた。その場所に居合わせていたのだから、Kさんと私は顔見知りだったにちがいないというような説明がついている。
断じてそのようなことはない。スワッピング・パーティーの会場は薄暗く、参加者の顔などまじまじと見ることもなかったし、おたがい身許を隠すことを前提に参加しているのだから、ビジネスの話などするわけもない。だいいち、ポラロイド写真の歪んだ顔を、そこに居合わせた男性とダブらせて考えることさえナンセンスである。繰り返す、私はKさんとは面識はなかった。また、いま現在もおなじことである。
私は、C子さんが別居中に交際していた男の一人であったし、彼女は逃げまわっていたのだから、私がなんでわざわざK氏と会う必然性があるのだろう。C子さんにとって、私との交際がK氏に発覚することは、離婚調停に不利なことであった。彼女が逃げたいと思っていた相手と、なにゆえに私が接触しなければならなかったろう。馬鹿げたことだ。

彼はこう述べているが、当時のマスコミとはいえこの写真の人物が三浦とK氏であることの裏付けが取れた上で公表したものと思われる。
もしこれが事実なら三浦とK氏が面識があった可能性は高い。
なぜなら同じ女性の夫と愛人がスワッピング・パーティーに偶然居合わせる確率は極めて低いからである。
もし三浦とK氏が知り合いだったとしたらいろいろな可能性が考えられる。
・三浦とC子さんとの交際をK氏は知らなかった。
・三浦とC子さんとの交際をK氏は知っていた。
・C子さんは三浦と夫が面識があることを知らなかった。
・C子さんは三浦と夫が面識があることを知っていた。
しかし、当時、K氏はご存命であっただろうから、どれが真実だったかはK氏に聞けばわかったはずである。
しかし、三浦がこの著書でK氏とは面識はなかったときっぱりと否定しているということは、K氏も否定していたからであろうか。
または真実を話さなかったからだろうか。
本当に偶然居合わせたのだろうか。
この部分に関しては謎が多いが、いずれにしてもロス疑惑の事件の本質にはあまり関係のないことのように思われる。

1978年(昭和53年)11月頃からK美さんとの手紙のやりとりが始まったらしい。彼女からの手紙は彼がアメリカへ主張中に泊まっていた宿宛に送られてきたという。
彼はこの手紙の内容を掲載しているが、それを読むと彼女が彼に対して特に疑いもなく、真剣な気持ちで愛していたのだとわかる。

〔1978年(昭和53年)11月10日付。K美よりの書簡。速達便〕
(前略)
いますぐにでも和のそばに飛んで行きたい。ただ和が生きていることを感じたいと思います。帰国し、また逢う時間があったときは、ただ和のそばにいさせてください。
少し疲れた気分です。いっしょにいることのできる時間がとれたら、そのとき、私に何もいわないで、ただ抱いていてください。ときどきいう私の言葉を音楽聞くときのように何げなく聞き流して少しだけうなずいてくれればいいです。
そんな風にして時を忘れたい。
誰でもいい、私を愛してくれるんなら、そんな人の側でじっとしていたいと思う程、疲れてしまいそう。でもね、いまは和が一番安心すると思う。このまま私の片想いでいるのがよいのかも知れません。
早く逢って和を感じたい。でも逢うのも怖いよ。いっそ私の耳が聞こえなくなって、和の言葉だけ覚えていられると良いのに。元気で逢える日を楽しみにしています。
乱文乱筆失礼致します。草々。愛する和へ。K美

〔1979年(昭和54年)2月8日付、K美より書簡。速達便〕
背中どうですか?まだ痛いの?検査の結果いかがでした?あんまり心配させないでください。
いますぐ和のそばへ行きたいの。逢いたい。和を感じたい、強く抱きしめて欲しい。
とっても遠くにいるような気がします。いつまでも和は遠い人ですね。(日本にいてもそう思う)。やっと半分の一週間が過ぎました。あと少しですね。
御仕事充分できたら一日でも早く帰って来てください。そしてK美とcall upしてくれるのずっと待っています。いま、夜8:00。そちらは夜中の2:00。声だけでも聞きたいけれど、起こすとかわいそうだものね、がまんしよう。
毎日でも御手紙出したいけれど、笑われるだろうし、馬鹿みたいと思われそうだから、これもやめる。和がそちらへ行ってから毎日まっすぐ家に帰っています。ずっといい子でいますから御心配なく。早く逢いたいな。I Want Kiss You (ママ)
今夜はずっと一人です。皆親戚の家へ出掛けてる。一人でいると和のことしか考えないの。泪が出るほどせつない感じ。昨晩、和の夢みたの。いやな悲しい夢でした。夢のなかで泣いていたから本当に"和"って泣いていたかも知れませんね。
夢って、ときには現実より現実めいて感ずるものです。
(後略)

夢の部分に関する記述は後の彼女の運命を考えると意味深に思えなくもない。
彼はこの2通の手紙の間に妻M子さんと正式に離婚する。
離婚は話し合いで簡単に終わったという。

あとは金銭的な話し合い。M子と生活していた当時、M子の収入も私の収入もゴチャゴチャになっていたから、離婚に際し、その金銭の始末をめぐって話し合いが持たれたのだ。結局、私が清算金という形で二百万円をM子に支払うことで離婚は成立した。
一部マスコミで、あたかも私がM子側から一千万円を会社設立のため借金したかのように書かれたが、それは根も葉もない誤りである。
こうして、私は晴れて独身の身となった。M子とはこんなことで離婚にいたってしまったが、私としてはM子に対して感謝の念はいまでも持ちつづけている。私がビジネスをスタートしようというとき、彼女はどれほど私を助けてくれたか知れやしない。
また、私を励まし勇気づけてくれた。M子のヘルプがなければ、その後の私のビジネス・サクセスはありえなかったともいえるほどだ。彼女ほど優秀な女性がなぜ、あんな暴言を口にしたのか、いまになっても私にはわからない。

彼はK美さんに結婚していることを告白したが、彼女はそれ以来彼の過去の女性のことを気にするようになったという。

〔1979年(昭和54年)10月31日付、K美からの速達便。すでにK美は私の妻となっている〕
(前略)
私いつも和さんの過去を聞きたがるのは、和さんが隠そうとするからなのよ。いまの和はその過去の一つ一つの積み重ねがあったからで、ちがう過去だったら、いまの和はいないだろうし、和が私を好きでいてくれるか、私も和を好きでいるかわからない。二人の経験してきたことの一つ一つが私達二人を会わせてくれて、一緒にさせてくれるのだと思っています。
だから余計に和さんのいままでの生きてきた姿を知りたい。そのなかから、いま、和さんが私を選んでくれた何かを確実につかんでみたいと思ってしまう。
特にいろいろあった人だし、不信が強い人だもの、昔がなければ今も未来もないのだもの、その辺わかって欲しい。
そうしたら和さんの背中についているたくさんの女の人の"貴方だけが特別な女じゃない。私も和にいたし、和も私にしてくれたのと同じ事"という聞きなれぬたくさんの声から解放されるかもしれません。
(後略)

また仮定に基づいての話になるが、K美さんを殺害した黒幕が彼だとするならば、これほどひたむきに彼のことを信頼し、愛していた女性を殺めるなどということはもってのほかで、僕には到底考えられない。
人を殺めるという行為は勿論一般論として許される行為ではないが、仮にそれを除いて考えたとしても、敵でもない慕ってくる相手に対して酷い仕打ちをするというのは僕にとってこの事件のもっとも憤りを覚える点である。
自分に酷いことをした相手に対して仕返しをしたというのなら、例え犯した行為が社会的・法的に許されないことであっても、まだそこにはかろうじて正義も正当性も残る。
そこには「人間を信じられるか」という問題に対するかすかな救いがあるだろう。
弱い立場の女性に残酷な仕打ちをする、ましてや殺めるなどということは男として断じて許容することはできない。
保険金殺人が死刑に値する犯罪なのは当然である。

C子さんが行方不明になる直前について

次の章は「昭和五十四年三月某日——渋谷・東急イン」という題名である。
ここでは1979年3月にC子さんが行方不明になる直前のことが書かれているが、この著書で三浦はC子さんがアメリカへ行くつもりであることは知っていても、アメリカに向けて発った日にちは知らないことになっている。

最後に私がC子さんと会ったのは、彼女から私の会社に電話がかかってきたからだった。いま思い起こしてみると、C子さんとの会話はつぎのようなものだったと思う。
「明日にも離婚が成立するの。相談したいことがあるので、会ってくれないかしら。私、いま、渋谷の東急インにいるのよ。C子の名前じゃなくて、別な名前で泊まっているから」


マスコミはC子さんが正式に離婚した日は昭和54年3月20日と報じているらしく、彼はこの電話があったのはその前々日か前日だっただろうと述べている。
そして、彼はその日のうちに彼女のいるホテルへ行ったと述べているが、その時のことを次のように記している。

部屋の内部は、ベッドがあり、小さなテーブルをはさんで二脚の椅子があった。その二脚の椅子のベッドに近いほうにC子さんが坐り、私はもう一脚の椅子に腰を下ろした。このときのやりとりを、できるかぎり思い出してみよう。たしか、C子さんがこういい出したように思う。
「アメリカに行くのよ」
突然のことに、私は驚いて、
「うそだろう?なにしにアメリカに行くの?どうして?」
「本当よ。パスポートもチケットも用意してあるんだから」
というと、ベッドの上に置いてあったバッグを取り、そのなかからパスポートとチケットを出して見せた。わざわざチケットを手に取って内容をあらためたりした記憶はない。彼女が手にしたパスポートとチケットのカバーを見て、彼女が本気でアメリカへ行くのだと思った。
「でも、どうして?」
「K(彼女の長男)が住んでいる日本にいると辛くなるの。会いたくなって、どうしようもなくなって……。私、日本にいたくない。当分のあいだアメリカに行くわ」
「そうなの……。Kクンはご主人が引きとることになったのか……」
「そう。でね、相談があるのよ。明日にも離婚が成立するの。そしたら返せるあてがあるから、お金を貸してもらえないかと思って。慰謝料が入るでしょ。近日中に返すようにするから。アメリカでの生活費の足しにしたいのよ」
彼女が借りたい、と申し入れてきた金額がいくらだったのか、記憶にはない。
「わかった。お金は明日にでも用意しておくから」
「ありがとう、助かるわ。それともうひとつ、お願いがあるんだけど。みんなには私は北海道に行ったといっておいてほしいの。いまはあんまりいいたくないのよ、アメリカに行くっていうこと……」
「わかった。みんなにはそういっておく」
こんなやりとりだったと思う。アメリカへ行くと聞いても、C子さんはニューヨークのM子さんのところへは行かないだろう、と私は思った。すでに、このときには、C子さんとM子さんが義絶状態にあったのを知っていたからだ。

M子さんというのはC子さんの姉であり、最初に彼にC子さんを紹介した人である。
あくまで僕の個人的な見解であるが、この部分の記述に関してはほとんど彼の作り話である可能性が高い。
それまであまりアメリカに縁がなかったであろうC子さんが急にアメリカへ行くと言い出すのは不自然だし、そのためにわざわざ彼に400万円以上の借金を頼んで彼が簡単に了承したというのはあまりに出来過ぎた話ではないか。
C子さんは実際にアメリカへ行ったが、彼がC子さんに何らかの指図をしてそうさせた可能性がある。
彼が犯人なら、わざわざアメリカで決行したのは、日本よりアメリカのほうがいろいろな意味で事件が発覚する可能性が低いと計算しての行動であっただろう。
実話の場合、その話が信憑性が高いかどうかは具体性を持ったその状況に特有の何かがあることが重要なのだがそれも見受けられない。
彼がC子さんとのこの経緯を創作しなければならない理由は十分ある。
彼は報道されている否定しようのない事柄に関しては事実だと認める一方、C子さんとの関係など第三者が事実かどうか確認しようのない事柄に関しては平気で嘘を言い、巧みに話を作って無理矢理つじつまを合わせているような印象を受ける。
もちろん僕個人の感想であるが。

多くの報道によると、そのとき私が、渡米後のC子さんの行動等を聞かなかったのはおかしい、とされているが、私は聞いたと思う。当時の彼女の心境の一端を知る私が聞かなかったというのは不自然だと私も思う。しかし、C子さんはなにも答えなかったのだろう。私にその記憶がないのだから。
私がC子さんにT弁護士を紹介した前後のことだったろうか。私の見ている前でC子さんは泣きじゃくったことがあった。
一時間あまりも喋っていただろうか。
それがどういう内容だったか、そのとき、彼女が私に話したことは、私はあえて書くのを控えようと思う。とても、ここで書けるような内容ではなかった。なによりもKクンのためを思うと、そうするのが賢明だと思うからだ。
こんなことがあったから、アメリカに行くというC子さんが、ニューヨークのM子さんを訪ねるようなことは、まず、なかったにちがいないと思っている。
これは余計なことかもしれないが、M子さんが捜索願いを出したのは、つい去年の十月とか十一月のことだったと聞いている。それまでの四年間以上、M子さんは本格的にC子さんの行方を捜そうとはしていなかったのだろうか……。M子さんが帰国して、C子さんの行方を私に尋ねてきたのも、去年の十月の終わりから十一月のはじめにかけてのことだった。
週刊文春の取材は、そのころからすでに開始されていたとも聞いている。

彼がこの部分を作り話にする理由は十分ある。
C子さんが日本を発ってアメリカに入国した日付は記録で明らかになってはいるものの、彼女がいつ死亡したかについては明らかになっていない。
検死の結果、推定でおおよその死亡した時期はわかっていたとしてもである。
彼女の遺体の身元が確認されたのは行方不明からおよそ5年後の週刊紙の連載が始まった年で、ロス疑惑の報道が過熱していたと思われる時期である。
だから、その後ニューヨークのM子さんのところにも記者は取材に行ったであろうから、M子さんから当時の事を聞いた時、彼女はC子さんは自分の所に来なかったし、連絡もしてこなかったと答えたのだと思う。
しかし、1984年にロス疑惑が報道されていた時点でC子さんの遺体の身元が特定され、いつ頃死亡したかの見当はついているから、C子さんがM子さんの所に行けなかったのも連絡できなかったのも当然である。
それではなぜ彼がこの話をでっち上げる必要があったのかというと、仮にC子さんと姉のM子さんが絶縁状態になっていて、C子さんが行方不明になっているにも関わらずM子さんが4年以上C子さんの消息を突き止めようとしなかったのが彼の言うように事実だとしても、彼とC子さんの関係を知っていた人間から彼のところにC子さんの消息を聞きに来た人間が少なからずいたはずである。
だから、彼がC子さんの消息についてM子さんをはじめC子さんの知人に尋ねたという事実がなかったとしたら不自然である。
だから、彼がC子さんの消息を関係者に尋ねようとしなかった理由として、C子さんとM子さんが絶縁状態だったことを利用したのではないか。

三浦はC子さんに現金を渡したのはホテルで会った日の翌日だった気がするが、どこで現金を渡したのかははっきり覚えていないと話す。

C子さんは私から現金を借り受けると、こんなふうにいった。
「近日中に連絡するわ。そのとき、このおカネを返すから……」
離婚の慰謝料が入ったら、返済してくれるということだったと思う。あとになって、その額が四百三十万円だったのを知ることになった。私が記憶していたことに、C子さんの口座から返済を受けた金額は、たしか三十万円ほど足りなかったように覚えている。ということは、このとき彼女に一時預けの形で用立てた金額は四五〇万円〜四六〇万円だったということになる。口惜しいが、こうして推定してみる以外、はたしていくら用立てたのか思い出せない。
そのような金額を覚えていないのはおかしい、とマスコミに批判されているが、私としては当時、けっこう大きな現金を扱っていたし、C子さんを信頼していたこともあって、覚えていない——としか、いいようがない。

百歩譲って仮に彼の話が本当だとしても、相当不自然である。
マスコミはC子さんが正式に離婚した日付は3月20日と公表していて、彼はC子さんから電話がかかってきてホテルへ行き借金を頼まれたのはその前日の19日か同日の20日だっだと話している。
そして、C子さんの口座に慰謝料が振り込まれた日は約1ヶ月半後の5月8日である。
彼女は慰謝料がいつ振り込まれるのかははっきりわかっていなかったかもしれないが、近いうちに振り込まれることは彼にも話していたらしいし、それほど近いうちに現金が手元に手に入る人間が400万円余りの借金を軽々しく人に頼むのも不自然だし、貸した額についてとぼけた事を言っているのも、C子さんの口座に振り込まれた慰謝料と彼が貸した借金の額がほぼ同額であるとの指摘に対する彼の苦し紛れの言い訳のように思われる。

彼がC子さんに最後に会ったのはC子さんに現金を渡したこの時らしいが、その後の彼女のことは知らないと言い、彼女がいつアメリカに発ったのかも知らなかったと言っている。

預かり金を早急に外国送金し、用意が整ったところで、三月二十七日、私はあわただしく成田空港を飛び立ち、ロスへと向かったのだった。
この時点で、C子さんがどこにいて、なにをしているのか知る由もなかったし、知ろうとも思わなかった。彼女のことだ、いつか連絡をしてくることだろう、と考えていた。私にとって、彼女に一時預かりの形で貸したおカネは、すぐに返してもらう必要のあるものではなかったのだ。
三月十九日ごろに最後にC子さんに会って以来、その後の彼女の消息は、マスコミが伝える内容でしか私にはわからない。はたして、マスコミが報道した内容のそのすべてが事実にもとづいてのものであるのかに対しては、私は信用を置いていない。もっともなことではある。私に関する報道は、予断と偏見に満ちたものであるし、どう思い出しても事実無根、あるいは誤りの報道が多すぎる。今回、初めてマスコミのそうした報道姿勢を知って、マスコミに対する信頼は、一部のマスコミを除いて全面的に崩壊してしまっている。
それはともかく、三月二十日からC子さんがロスへ向けて出発した三月二十九日の間の彼女の消息は、プッツリと途絶え、謎のままであるようだ。そのおなじ期間の私の行動記録からしても、私がその間、C子さんと接触できた可能性はきわめて小さいし、私も彼女と接触した記憶はまったくない。もし、お金を渡した日が三月十九日だったとしたら、それが最後だった。


この引用の冒頭の預かり金とは彼の会社の預かり金のことである。
次の章で彼はC子さんとアメリカで接触していたとされる疑惑について反論している。


1979年3月27日から4月5日までの行動について


C子さんがアメリカに入国したのは1979年3月29日のことである。
そして、三浦が出張でアメリカに入国したのは同年3月27日で日本に帰国したのは4月6日である。
次の章は「昭和五十四年三月二十七日〜四月六日——LA→NY→LA」という題名で、さらに小さな章に分かれ、それぞれ次のようになっている。
「三月二十七日——シティー・センター・モテル」
「三月二十八日——サンタ・バーバラ」
「三月二十九日——サンタ・アナ」
「三月三十日——ダウンタウン」
「三月三十一日〜四月二日——ニューヨーク」
「四月四日〜四月五日——ロスアンジェルス」

要するに、これらの章で彼はC子さんとロサンゼルスで接触していたとされる疑惑を晴らすべく、その当時の自分の行動について保管してあった伝票などの写真を掲載しながら詳細に説明している。

この著書のおよそ8割と思われるが、大部分はC子さんの事件に関係する記述で占められており、意外にもK美さんの事件に関係する記述は少ない。
あくまで僕の推測だが、それはK美さんの事件にはあまり謎の部分が少なく、主な論点といえば彼が「シロ」か「クロ」かしかなかったのに対して、C子さんの事件に関してはまだ究明すべき謎が多く残っていたことと、遺体の身元がC子さんであると確認されたばかりで新しい嫌疑が彼にかけられ、世間の人々にとっても新鮮なネタだったという側面があったのかもしれない。
彼はその世間の人々の関心に合わせるようにこの著書を書いた面もあったのではないか。

彼は度々マスコミに対する愚痴とも取れる発言をしている。

私がいくら、当時書いたメモだ、と主張しても、周囲の偏見に満ちた目には偽りと映ってしまうだろう。あとになって、自分に都合のいいようにでっちあげたものにちがいない、と勝手に解釈したとしても、ここまできたら、私はもう驚かない。
だが、私は可能なかぎり冷静に記憶をたどっていこうと思う。こうして執筆のために閉じこもった一室に、膨大な資料を運びこみ、そのひとつひとつを丹念に調べていき、この当時の私の行動を思い出させてくれる材料を探し出す作業にとりかかった。
その前まで、私にはこうする余裕すら与えられなかったのだ。八つぎ早に質問を浴びせかけてくる礼儀さえも知らぬマスコミに対して、当初のように、あやふやな記憶のまま答えることは、余計に私に疑惑を向けることになる。私は、マスコミから逃げるだけで精いっぱいだった。落ち着いて資料に当たるなどということはできない相談であった。
五年前の三月二十七日から四月六日にかけてのこの出張中、私がどこでなにをしていたのか。それを思い出すには、当時、私がロスで、ニューヨークで、普段どんな行動をとっていたのかを思い出すことから始めなければならない。

そして、彼はその出張の間の行動について語っていくのだが、それはほとんど彼が普段アメリカに買い付けに行った時の行動を書いているだけで、それと同じような行動をしていたと主張し、そう書くことでC子さんの事件とは無関係だったことを強調している。
そして、一つのエピソードを次のように書いている。

リトル・トーキョーは、文字どおり日本語で会話できる場所だ。各店に働く従業員も、また経営者も、日系人だったり日本人だったりする。毎日のように通う私は、すっかり常連客となっていた。
そのなかの一軒が、「浪花寿司」である。マスコミに登場して、私が『完全犯罪』のことを語ったり、部屋に呼びつけてなにやら物騒なことを依頼したとか"発言"していた板前は、この「浪花寿司」の店員だった。
私になんの怨みがあるのか知らぬが、よくもあんなウソを堂々と並べ立てられるものかと呆れてしまう。
たしかに、私は「浪花寿司」の常連だったし、ちょくちょくいろいろな女性といっしょにこの店へ行った。それに、寿司をつまみながら、あれこれ、とりとめもないことも話したことだろう。
彼らはしきりに日本のようすを知りたがったし、私もできるかぎり、彼らの要望を満足させようと日本で話題になっている事件のことやらを、ときにはおもしろおかしく脚色して話したものだった。
例の板前に誤解される元になった『完全犯罪』的な話をしたことはあったような気がする。日本で話題になっていた何かの事件のことを話しているとき、ミステリー小説好きの私は、あれこれと小説に出てくる犯罪の手口やらをおもしろおかしく話したような気がする。
寿司屋での会話だ、寿司がまずくなる話題よりおもしろおかしい話のほうが似合っている。いずれにしろ、その程度の軽口でしかなかった。

この寿司屋の店員が語っている「部屋に呼びつけてなにやら物騒なことを依頼した」のが殺人などの犯罪だったのかはわからない。
彼はこの店員が記者に語ったという「完全犯罪」のことを話したことは否定していないが、軽い世間話だったと主張している。
この店員が発言していることは証拠がある訳ではないし確かめようがないが、すべて否定しなかったのはあまりに何もかも否定していてはかえって怪しまれるという計算からなのだろうか。
彼はミステリー小説好きと自ら語っているが、もし彼が一連の事件を決行したとするなら、刑務所で読んだであろうそれらの小説の内容が彼が行った犯罪の手口に多かれ少なかれ影響したと考えられる。
しかし、彼は「物騒な依頼」に関しては否定している。

かりに、作為的にウソをいったとするならば、私が考えうる唯一の理由はつぎのようなものだ。
ある夜、私がいつものように「浪花寿司」のカウンターに腰を下ろすと、彼は私に近づき、
「読みましたよ、三浦さんのことが出ている本」
と話し出した。それは『個人貿易成金商法』というタイトルの本で、私のことを五〜六ページにわたって紹介してあった。彼にその本のことを話した覚えはないから、きっと、ロスの紀伊國屋書店ででも見つけて買ったのだろう。
彼は以前から屈折したところがあり、よく私にこういっていた。
「こんな所で板前なんかやってるのは、あくまでも仮の姿でね。本当はこっちで貿易の仕事をやりたいと思ってるんですよ。こっちへ来る前は、私、日本でJALに勤めてましてね」
ロスにかぎらず、アメリカに渡った日本人の大半は、現地で"ひとはた"あげようと思っている。彼もそのなかの一人であった。『個人貿易成金商法』という本を自分で買い求めたのも、そうしたことが動機だったかもしれない。
彼は、そのとき、私にこう切り出した。
「三浦さん、私をあなたの会社のロス支店で使ってくれませんか」
私は即座に断った。それも、いまから思えば、彼の屈折した心情を逆撫でするような言い方をしたように思う。
「あなたが入って、どうするの?タイプは打てる?オフィスのなかでスシを握るわけにもいかんでしょう」
こんな内容だったろう。もしかすると、このことを遺恨に感じて根に持ち、私に対してあることないこと、マスコミに語ったのかもしれない。だいたい、そんな彼を、モテルの自室に呼ぶなどということは考えられないことだ。
どうせ自室に呼ぶのなら、女性を招待する。ロスのガールフレンドは、たくさんいた。ロス専用の私のアドレス帳には、女性の名前と電話番号が相当数、書き留めてある。

口で言っただけの事は証拠が残るわけではないため、後になっていくらでも言い訳が効くものである。
彼がロサンゼルスにたくさんガールフレンドがいたと語っているのは、M子さんと結婚していた時なのかK美さんと結婚していた時なのか、あるいはその両方なのかはわからないが、彼の女性に対する不誠実さはこの著書の至るところに現れており、普通の結婚生活を送っている方々には見せられないような内容である。
僕が引用した以外にも女性との関係についてたくさん書かれているが、彼の個人的なそういう女性との関係はあまり事件や疑惑の本質とは関係ないため、必要以上に触れないようにしている。

続いて彼はこの出張当時に取引先から送付されてきたビジネス・レターという証拠を提示しながら、買い付けのために取っていた行動を長々と説明している。
彼が言いたい事は、要するに、マスコミの報道ではC子さんがロサンゼルスに入った3月29日にロサンゼルスの空港で待ち合わせたのではないかとされているが、その日、彼はロサンゼルスから遠いサンタ・アナという街まで買い付けに行っており、もしその日にC子さんとロサンゼルスで待ち合わせていたなら、わざわざサンタ・アナまで行くはずがないということである。
C子さんの遺体はロサンゼルス郊外でビニール袋に入れられた状態で発見された。
彼がこの事件の犯人だとするなら、C子さんを殺害する機会はC子さんがロサンゼルスに到着した3月29日か翌日の30日のニューヨークへ発つ前までしかなかったことになる。
彼が3月31日にニューヨークへ行った事実を認めているのは、ロサンゼルスからニューヨーク行きの便に搭乗した記録が彼の買った航空券の情報などから残っているためと思われる。
それに彼にはニューヨークへ行ったことを否定する理由もない。
彼はロサンゼルスからサンタ・アナまでレンタカーで移動したと言っているが、彼自身サンタ・アナからニューヨークまではレンタカーでその日のうちに戻れる距離だと言っているので、彼がその日サンタ・アナまで行ったのが事実だとしても、それが重要な意味があるとは思えない。
C子さんと接触するのは翌日の30日にも可能だったのだから。

断っておくが、僕はこの事件に関する情報を詳しく調べた訳でもなく、多少のネットの情報とこの著書に書かれている記述を頼りにこの記事を書いているので、僕の書いている内容におかしな点があるとすれば申し訳ない。
間違っている点などがあれば是非ご指摘いただきたい。

次に彼はある人物の証言に対して反論している。

『ジャパン・アメリカ・ツアー』の社員の証言が、一部マスコミに紹介され、彼はつぎのようにいったとされている。
私が同社でアメリカの国内線の航空券を買ったのは、あと先含めて、このときが初めてだった——というものだ。なにをカン違いしてこんなことをいったのか、私にはわからない。
例の『浪花寿司』の板前といい、この『ジャパン・アメリカ・ツアー』の社員といい、"日本からわざわざこんなことを聞き出すためにマスコミがやってきたのは、裏付けとなるべきものがあるからに違いない"と思ったのかもしれない。
前もって先入観を植えつけられ、それならばこうだったのだろう、と判然としないはずの五年前の記憶を、さも昨日のことのように思い出してみせたのだろうか。
私が『ジャパン・アメリカ・ツアー』で米国内航空券を買ったのは、このとき一回だけではない。ここに、数枚の領収書がある。見つかったものだけでもこういうぐあいだ。

彼はこう述べてこの会社の領収証のコピーの写真を2枚掲載しているが、それは3月30日以降の領収証なので、そこに重要な意味があるとは思えない。
重要なのは、彼がこの会社で3月30日に初めて航空券を買い、従業員が「当日になってあわただしく国内航空券を買い求めたのが印象的だった」と証言しているのが不審だという点である。
また、彼はこの3月30日に買ったアメリカの国内線の航空券のコピーの写真を載せている。
この航空券は、ロサンゼルス→ニューヨーク→モントリオール→ロサンゼルスというルーティングの航空券らしいが、僕にはこの著書に書かれていない不審な点を一つ指摘できる。
彼がこの航空券でカナダのモントリオールへ行こうとしていたということである。
彼はわざわさこんな事を言っている。

ニューヨークからモントリオールへ飛ぼうとしたのは、ニューヨークでの買い付けが思うようにいかなかった場合、モントリオールの毛皮問屋へ行こう、と押さえのつもりでルーティングしておいたからだ。
会社の出張メモによると実際には、ニューヨークから直接、ロスに戻っている。ニューヨークでの買い付けが満足いくものだったからだと思われる。

航空券をあわてて買ったのもモントリオールへ行こうとしたのも、一つの仮説が立てられる。
もし彼がこの時すでにC子さんに手をかけた後だと仮定するなら、犯罪者の心理として現場から遠い場所へ逃げたいという衝動が働くはずである。
もしC子さんの遺体がすでに発見されていたら、警察は犯人を探し回っている。
カナダならアメリカの警察の管轄外だから追って来ないのではないか。
そう考えて彼はニューヨークからモントリオールへ飛ぼうとした。
しかし、カナダに入国する際に入管に警察から事件に関する情報がすでに入っていて逮捕される可能性がある。
日本に帰国するにしても同じである。
警察がC子さんと関係のある人物の出入国記録を調べ、C子さんが入国した直前直後にアメリカを出入国した関係者がいれば当然怪しまれる。
そう考えた彼は、モントリオールまでの航空券を持っているにも関わらず、モントリオールへは行かないことにし、ニューヨークからそのままロサンゼルスへ戻ったのではないか。
しかし、彼は3月30日に航空券を買った時点ではそこまで頭が回らなかった。
事件を起こしたばかりで多少パニックになっていた面もあったかもしれない。
ここまで書いたことは、あくまで僕の推理である。

キャッシュカードでの現金の引き出しについて

次の章は「昭和五十四年五月——三菱銀行渋谷支店」という題名である。
5月8日にC子さんの口座に慰謝料が振り込まれた銀行が題名の銀行である。
この章の冒頭で三浦はC子さんからキャッシュカードを受け取った経緯について書いている。

問題のキャッシュカードが届いたのが、ロスから帰国した直後だったのか、あるいは帰国して会社に出向いたときにはすでに届いていたのか、覚えていない。
私宛てに、アメリカからC子さんがエアメールを送ってきたのだった。そのなかに、キャッシュカードが同封されていた。ティッシュ・ペーパーに包まれていたように思う。
私がC子さんに最後に会ったのが三月十九日とすると、帰国が四月六日、つまり彼女におカネを用立てておよそ半月後ということになると思われる。
同封されていた手紙の文面はつぎのような内容のものだったと思う。
* アメリカに無事着いたこと。
* 借りたおカネは、T弁護士に連絡をとって三菱銀行渋谷支店の彼女の口座に振り込むよう依頼して、振り込まれたおカネをもって返済にあてたいこと。
* 同封したキャッシュカードは、その際、引き出すために使ってもらいたいこと。
そして暗証番号が書かれてあった。
かすかな記憶では、その手紙を入れた封筒はまっさらなものではなく、どこかの会社かなにかのロゴが印刷されていたような気がする。たとえば、航空会社やホテルなどがサービスのために作っている封筒のようなものだったかもしれない。
私が帰国した前後に日本に届いているとしたら、ロス→東京の郵便事情から察して、その五〜十〇日前に投函されていたことになる。

C子さんがこのキャッシュカードをわざわざアメリカから送ってきたと言わなければならない理由は次のように推察される。
C子さんはアメリカへ行っていて、彼は5月8日に口座から現金を引き出している。
彼女が彼にキャッシュカードを渡したとするなら、渡した日は彼女がホテルで借金を頼んだ3月19日または20日から彼が口座から現金を引き出した5月18日までのいずれの日しかない。
彼女がまだ日本にいた時に渡せるタイミングはあった。
しかし、彼女がもし事件に巻き込まれないとするならば、彼女が彼にキャッシュカードを渡すタイミングはいくらでもあるはずである。
彼女がアメリカにずっと留まるのだとしたら、アメリカから送ることも、彼がアメリカへ行った時にも渡すこともできた。
彼女が日本に戻ってくるなら、なおさらいつでも渡すことができた。
だから、彼女がアメリカへ発つ前にあえて彼にキャッシュカードを手渡しておく必要はない。
しかし、真実は彼がキャッシュカードを手にしたのは彼女とアメリカで接触した時だった。
しかし、C子さんが死亡したのはアメリカへ渡った直後だということが検死の結果わかっているから、それ以降に彼にキャッシュカードを渡すのは不可能である。
だから、彼はわざわざ彼女がアメリカにいるタイミングでアメリカから送ってきたと言う必要があったと思われる。
彼はこの著書で先の出張から日本に帰国した直後には彼女からキャッシュカードの入った封筒が届いていたと述べている。
彼が最初に口座で金を下ろしのは、この後のアメリカ出張から帰ってきた日の翌日の5月18日である。
慰謝料が振り込まれた5月8日には彼はアメリカにいた。


前にも書いたが、報道によると、私は彼女の口座を初めにカードで残高照会しているという。

彼はこのように書いていて、これがいつだったかについては記述がないが、素直に考えるなら5月18日のことであろう。

キャッシュカードの件に関しての彼の弁明は苦しさが目立つ。

三月二十日に離婚が成立したのだから、慰謝料の支払いがいつになるかを、彼女はすでに知っていただろう。ところが、彼女は三月二十九日に出発する何かの理由があって、支払われた時点には日本にいないことを事前に承知していたはずだ。
そのことを私に連絡しようとしても、私はつかまらず、結局、エアメールでキャッシュカードを郵送する方法をとらざるをえなかったのかもしれない。
では、なぜ彼女が成田を発つ前にキャッシュカードを私宛て、日本国内から送らなかったのだろうか——という疑問が残る。あるいは、直接に手渡さずとも、T弁護士なり、誰なりに預けることもできたはずだ。
だが、あわただしい出国の前に、キャッシュカードを手離すことがあるだろうか。成田から出発するまで、彼女の口座に残高があったとすれば、それを引き出し、諸々の出発前の準備やら整理、さらにアメリカでの生活費のためにあてたにちがいない。
どこでドル交換をしたのかわからないが、それをする際にも、銀行でキャッシュを引き出す必要があったろう。日本を発つ最後まで、彼女は自分のキャッシュカードを携行している必要があったと考えられる。成田から私に手紙を書いてキャッシュカードを送ることも可能だったろうが、出発直前のあわただしさのなか、そんな余裕がなかったとしても不思議ではない。
あくまでも推定であるが、C子さんが機内に腰を落ち着けてから、ようやく手紙を書きはじめたのかもしれない。そして、ロスに着いてから投函したと思われる。封筒に印刷されてあった何かのロゴというのも、彼女が搭乗したエアラインのものだったのかもしれない。機内には、レターセットが備えられてあるのだ。

彼はキャッシュカードが入っていた封筒に何かのロゴが印刷されていたという事実を書いているが、著書の記述から推測すると、キャッシュカードは彼の会社に送られてきたために彼の社員がその封筒を目撃していて、その封筒にロゴが印刷されていたと証言していたと思われる。
しかし、三浦がキャッシュカードを自分の会社宛てに送っていないとすれば社員が目撃することはない。
この点に関しては、彼は犯罪の重要な物的証拠であるキャッシュカードをアメリカ出国時に所持しているのは危険だと判断して、自分でアメリカから会社に送り、社員がその封筒を目撃し、証言していた可能性がある。
あるいは、社員がキャッシュカードが入った封筒ではない無関係の封筒を例のキャッシュカードが入った封筒だと思い込んで警察やマスコミに証言したが、三浦にとってそれが都合が良かったために、彼がその情報に合わせて嘘を言った可能性も考えられる。
しかし、著書から推測できることはそのぐらいである。

K美さん殴打事件について

次の章は「昭和五十五年八月——LA・ホテル・ニューオータニ」という題名である。
ここまでくると、三浦が一連の疑惑を少しでも晴らす狙いで書いたと思われるこの著書でさえ、相当きなくさい臭いがしてくる。
彼がこの章でK美さん殴打事件について触れているということは、この事件に関しても彼に疑いがかけられていたということである。
しかし、この著書は彼が殴打事件の容疑者として逮捕され、拘置所に収監される年の前の年に書かれたものである。
彼の恋人Yがまだ新聞上で彼の犯行を匿名で告白する前であり、まだYという人物がマスコミの報道に登場していなかった可能性がある。
しかし、彼はYに関してはこの著書の後半で実名で触れているので、マスコミもこの著書が切っ掛けで知るようになったのかもしれない。
あるいは、マスコミが三浦の当時の恋人がYであることを知っていた可能性もある。
いずれにせよ、彼はこの著書を書いている時点でYが事件について告白するなどとは考えていなかっただろう。

続いて、彼は自分が加入した保険のことについて触れている。

結婚した年の十二月四日に、第一生命の保険に夫婦で加入申し込み。三浦和義、三浦K美が一口ずつ、おたがいを受取人として一五〇〇万円ずつ掛け合った。翌年一月一日より発行している。掛け金は毎月五二五〇円だった。多くの結婚した男女なら加入するだろう、ごく普通の生命保険である。どちらかになにかあっても、それでカバーしようというものだ。
たしかに私は保険好きかもしれない。翌年五月二十一日には『フルハムロード』の全従業員のために保険をかけたりしている。これは死亡した場合でも一〇〇〇万という保険で、掛け金は会社が負担した。以降、毎年、更新していった。
社員に対するサービスのつもりだった。『フルハムロード』の社員はバイク気違いが多く、万が一、事故を起こしたとき、こうした保険があれば助けになる。保険料は年間一五万円程度だったと思う。

彼は保険に関する情報はマスコミに握られているために触れなければかえって怪しまれるような気がしたのか、それとも開き直ってこのように堂々と書いているのか知らないが、何か隠し事がある人間が饒舌になる心理に似たものがあるような気がした。

彼とK美さんは1980年(昭和55年)12月から翌年1981年(昭和56年)1月までアメリカに正月旅行に出かける。
これがK美さんにとって初めてのアメリカ旅行だった。
彼はここでマスコミが彼とK美さんが夫婦仲がうまくいってなかったとしている報道を、K美さんから当時送られてきた手紙や自分が彼女に書いた手紙を転載して反論している。
しかし、手紙は写真を掲載しているわけではないため、内容についての真偽は定かではない。
やがて夫妻の間に子供が生まれる。

昭和五十五年九月十五日、私たちのあいだに長女・Y子が誕生した。ついに一児の親となった喜びと同時に、責任感がジワジワと湧いてきた。

ここでも彼は保険のことに触れている。

翌年の五十六年一月十三日に、千代田生命の保険に加入申し込み、K美は二十日に健康診断を受けている。記録によれば、この前の十六日から、私は海外に行っていた。長女の誕生でいよいよ責任が重くなったこともあり、おたがいを受取人とした二五〇〇万円の保険に加入した。掛け金は、毎月八七五〇円であった。
K美は和服を着て運転することもあり、そんなときでも、ドシャ降りの雨のなかを一二〇キロで飛ばしたりもした。クルマの運転はなるべくしないようにはいっていたが、事故でも起こしたら取り返しがつかない。それに、私も毎月のように飛行機に乗る身。Y子のことを考えれば、この保険に加入しておく必要があると考えたのだ。


彼が自分たちが加入した保険のことについて触れるのは、考えてみれば当時のマスコミの報道で彼が入った保険の情報について多く報道されていたに違いないから、このようにさらっとでも触れておいて、保険に加入した理由を簡単にでも述べておかないと返って疑いが強まるとでも考えたのかもしれないが、この期に及んでは彼の疑惑という焼け石に水のような気がする。

彼はK美さんとこの年1981年(昭和56年)の8月12日、再度ロサンゼルスへ出張を兼ねた旅行へ行き、K美さんが事件に遭う。
K美さんは自分でブティックを開きたいという夢を持っていて、その夢を実現させるための準備として彼女の勉強も兼ねた旅行であったという。
中国系の女がしきりに彼にチャイナドレスを売り込んできたが、その女に自分の泊まっている宿のカードに名前と部屋番号を書いて渡して別れたが、その女から何度も部屋に電話がかかってきたと語る。
K美さんはシンガポールへ行った際、チャイナドレスを見て自分も作りたいと思っていたという。
それで彼は中国系の女とK美さんをホテルの部屋で会ってもらうことにする。
相手が男性であれば自分の妻と部屋に二人だけにしないと思っていたが、相手が女性だったので二人だけで会うことに安心していたという。
彼がK美さんと泊まっているリトル東京のホテルニューオータニの1階のカフェで仕事仲間と話をしている時にK美さんから電話がかかってくる。

私、K氏、M氏、O氏の四人でシッピングの打ち合わせをしていたときに、"電話がかかってる"と、ウエイトレスに呼ばれた。私が受話器をとると、K美だった。部屋からかけてきた。苛立たしげな声の調子で、「すぐきてほしい」という。席にいた三人に、
「ちょっと家内が急の用なので、すぐ戻りますから」
と断ってなにごとかと駆けつけてみると、例の中国系の女性がしきりになにごとか大声でわめいている。私には彼女がいっている英語の意味がほとんどわからなかった。K美はK美で、憤慨した表情でベッドに腰かけていた。
「いったい、なにがあったんだ?」
「この女の人、私の身体を採寸したとき、失礼なことしたのよ」
なにごとかわめいている中国系の女性をそのままにして、私はK美に、なにがあったのかを質した。すると、K美はこういうのだ。多少、露骨な話になるが、K美が私に伝えたところを正確に表現すると、つぎのようなことであった。
「私の身体をさわるのよ。セックスのところを撫でたりしたの。失礼ったらないわ。アタマにきちゃう!やめてっていったのに、それでもやめようとしないの。乳首をつまんだりしたんだから!」
K美は怒って彼女の手を払いのけたのだという。そして「もう、けっこうだから帰って!」という意味のことをいい、彼女をドアのほうに導き帰そうとしたとき、ちょうど部屋の入口に近いバスルームのドアの前で、背中を押すようにしたK美に向かって、彼女は手を払いのけるようにしてK美を押したという。ドアが開いていた。スリッパをつっかけていたK美は、その拍子に滑って、ドアの開いたままになっていたバスルームの床に倒れたというのだ。
見ると血が出ているではないか。ようやく、なにが起こったのかを知った私は、即座にその中国系の女性に向かい、部屋からすぐ出て行けというつもりで『Go home please! あんたなんかとビジネスしたくない!』と追い払った。
見ると床にも二、三滴、血がついている。急いで1FにいるO氏を呼び出し、大急ぎで部屋に上がってくれるよう告げ、彼に救急車を呼ぶように頼んだ。英語の不得意な私が電話するより、O氏に頼んだほうが正確だからだ。
すぐに救急隊員がかけつけてくれたが、K美の傷のようすを調べると、病院に運ぶこともないと引き上げてしまった。そんなことをいわれても、現にK美は負傷しているではないか。O氏に頼んで、ホテル側に病院を紹介してくれるよう告げた。

彼は事件の一部始終をこのように書いている。
その場にいたビジネス関係の知人や医療関係者などは警察やマスコミに事情を話している人間もいただろうから、彼がそれに関して書いていることは事実に近い可能性は高いが、あとは創作の部分が大半に違いない。
彼はこの事件で実際に殺人未遂を首謀したとして逮捕され、有罪判決を受け服役しているのである。
この著書では彼は事件に関与していないという設定になっているので、彼と中国系の女が面識がなかったなど、根本的なところから事実と違っている。
しかし、彼は厚顔無恥も甚だしく、事件への関与をはっきり否定している。

しかし、あたかも私がK美を襲った犯人を逃がし、そのうえ、その犯人に私が依頼したなどとは、言語道断のいいがかりでしかない。もし、そのようなことがあったとしたら、K美は私に不信感を持っただろうし、数ヶ月後ふたたびおなじロスに、おなじ私と行くだろうか。考えてみても、わかると思う。

そして、事件があった直後に撮ったK美さんの写真を掲載し、こう述べている。


この事件が起こった翌日、または二日後に撮ったK美の写真がある。この表情のどこに、強盗に襲われたなどというショックの表情があるというのか。K美はいたって元気であった。

銃撃事件について

銃撃事件の現場(現在)

次の章は「昭和五十六年十一月十六日——LA・ダウンタウン」という題名である。
三浦はこの章で疑惑が発覚する切っ掛けとなった、1981年(昭和56年)11月18日に遭遇したとされるロサンゼルスでの銃撃事件について述べている。
彼はこの章の前半部分でも保険のことについて触れている。

その前日の十一月十六日、私はアメリカンホームの保険に加入している。『フルハムロード』で、担当者が、K美もいっしょに行くなら、ぜひ、K美も加入してくれという。私は、夫の自分がついているのだから大丈夫、その必要はないでしょうといったが、それでも入っておいたほうがいい、とすすめられ、それならそうしましょうということにした。
K美自身がこの保険に入っていたことを知らなかったことはない。十一月十七日、成田に向かう車中でだったか、成田空港内でお茶を飲んでいたときだったかは定かではないが、K美本人が、その保険のカードにサインしているのだから。
それまでに掛けた保険同様、妻であるK美が夫である私を受取人とした保険に加入したのだ。このことに、なんの疑惑があるというのだ。保険金は七五〇〇万円で、旅行者障害保険。掛け金は掛け捨てで、一二七七〇円だった。ごく一般的な保険である。

おそらくこの保険に関しても、ロサンゼルスへ渡航する前日に加入していることや保険の種類が「旅行者障害保険」だったことも不審な点としてマスコミに取り沙汰されていたのだろう。
生命保険に加入するには健康であることなど条件があるが、K美さんが死亡したのは不慮の事件に巻き込まれてのことである。
保険会社は顧客の病気には神経質でも事故や事件に関しては不審に思わないのだろうか。
不審に思ったとしても調査する権限がないから仕方ないのであろうか。
警察はこの保険金加入に関して知らなかったのか、または知っていても不審に思わず、あるいは不審に思ったとしても彼を容疑者とする十分な証拠がなかったからそれ以上捜査しなかったのだろうか。
警察がこの事件に関して本格的に動いたのは週刊誌に疑惑が取り沙汰されてからである。
事件がアメリカで起こったために捜査が難航したと言われている。
第一、捜査するにも警察関係者が現地に飛ばなければならないし、アメリカの警察関係者と意思疎通するにも英語を理解し話せる人間が必要である。
僕には警察がこの事件に関して疑いを持っていたとしても、当初、捜査に消極的だったように思えてならない。
しかし、週刊誌で疑惑が取り沙汰されてからマスコミで報道され、世間の人々の関心が高まってからやむを得ず重い腰を上げざるを得なかったように思える。
日本の警察にとっては、当初、この事件の容疑者を躍起になって探さなければならない理由などなかったのである。
しかし、週刊誌の出版社にしてみれば雑誌が売れることで利益がもたらされる。
だから、記者が現地に飛んだり、様々な人間から証言を得たり、証拠を集めたりという泥臭い作業もできた。
いっそのこと警察の捜査を週刊誌の出版社に任せたほうがいいのではないかと思えるほどである。

彼はTシャツのデザインとして使用する素材としてパームツリーを被写体として写真を撮るため、彼の車に同乗するK美さんに写真を撮ってもらっていたらしい。
そして、例の事件現場の駐車場の側に立っているパームツリーを撮影するため、そこに車を停める。

パームツリーの立っている後方には、ロスのダウンタウンの高層ビル群が見てとれる。K美に、パームツリーの傍に後ろ向きに立ってもらう。つまり、フレームとしては、左にパームツリー、右に髪の長い女性。その女性は高層ビル群を見ているというものだ。なかなかおもしろい構図だし、これなら何かに使えると思った。
カメラを構えた私は、ハーバー・フリーウェイの金網を背にして盛り上がった場所に立っていた。ファインダーをのぞきながら「もっと右。いやもっと左」と、K美に指示した。
この道路はクルマの通行量がけっして少なくなかった。バスも何台か通ったと思う。そのうちの一台が私たちに近寄ってきたことに、私もK美もまったく気がつかなかったのだ。それに、ファインダーをのぞいていたから、私の視界は狭かった。
突然、ファインダーの私の視界のなかで、バタンとK美が倒れた。棒が倒れたように倒れた。はじめは滑ったのかと思い、「どうしたんだ、バカ」といい、K美のところへ一、二メートル飛び出した。
そのとき、パーンという音がして、私はその場から一メートルほど飛ばされたように思う。そのようなショックを受けて初めて撃たれたことがわかった。K美を撃った銃声は後方のハーバー・フリーウェイの騒音に消されたためか聞こえなかった。
銃撃をうけて倒れた私は、それでも道路のほうに必死で視線をやった。すると、一台のクルマから二人の男が飛び出してきて、一人はK美のほうへ、一人は私のほうへ走り寄った。私のほうへ走ってきた男は、車から飛び出したとき、車中に向かって、なにか棒状のようなものを投げたように、一瞬見えた。
アッというまに、私はワイシャツを破かれ、腰をバタンと蹴とばされて後ろ向きにされ、尻ポケットに入れてあった一三〇〇ドル前後を奪われてしまった。
チラッとだけ、K美のほうへ走って行った男の姿が見え、ハンドバッグを逆さにして中身を出している姿が見えた。
数十秒のできごとだったろう。あっというまに犯人たちは逃走していた。だが、私はしっかりとこの眼で犯人たちを目撃している。二人とも白人だったと思う。逃げる車も瞬間、私は見た。グリーン系の旧式の大型車だった。

彼は現場での出来事についてこう書いているが、犯人だと疑われている立場の彼が書いた記述でも惨たらしさに目を背けたくなるような当時の状況が頭に浮かんできて、文章を書き写しながらも嫌な気分になった。
この後、K美さんが運ばれた先の病院での様子についての記述があるが、それをあえてこの記事に書く意味もあまりないと思われるため、触れないでおく。
K美さんは米軍のヘリコプターで日本の横田基地へ運ばれ、そこからまたヘリコプターで神奈川県にある東海大病院へ運ばれる。

彼はこの出発の当日にも不審極まりない行動をしている。
ロサンゼルスへ発った1981年(昭和57年)11月17日に夫妻の娘であるY子さんの住民票を彼の実家のある相模原市へ移していたのである。

一部マスコミは、私の長女の住民票が五十七年十一月十七日に、相模大野にあった私の実家に移されていたと書いた。つまり、銃撃のあったロス行きの当日に、長女の住民票を移動したのはおかしい、というのだ。
この日、Y子はK美に連れられて相模大野の私の実家に預けられた。旅行中の五、六日という約束で、私の両親も快く預かってくれたという。しかし、この事件に遭遇して私が帰国しても、私は傷を負っていたし、二人だけでは生活できなかった。それで当分の間は、両親に頼みY子を預かってもらうことにした。
父がY子の転入届けを出したのは、当分の間は両親の家でという話があってから、相模大野の保育園に入るべく住民票を必要としたからであった。それは翌年の一月中旬であり、そのとき、手続きに行った父が、係員から、
「いつからこちらに住みはじめたんですか」と問われ、
「昭和五十六年十一月十七日から」
と答えたという。住民となった日は十一月十七日であるが、実際に転入届けが出されたのは、昭和五十七年一月の中旬ごろだ。ずっとあとのことである。それまで、Y子はたんに預かってもらっていただけなのだから。いつK美が奇跡的に回復するやも知れぬ、という希望を持っていられるあいだだけ……。

要するに、当初は渡航中だけ娘Y子さんを彼の実家に預かってもらう予定だったが、彼が事件に遭遇して負傷してしまったために当分の間預かってもらうことにした。
彼の父親がY子さんの住民票を移したのは、地元の保育園に入園させるために住民票を移す必要があった。
父親は翌年1982年(昭和57年)1月に転居届けを出しに行ったが、区役所の職員にY子さんがいつから住み始めたのかと問われ、1981年(昭和56年)11月17日と答えたところ、住民票においてはその日から住んでいることになったという。
娘Y子さんの住民票を移したのは保険金の相続の関係のことであろうが、もしこれが嘘だとするなら、僕などはよくこんな上手い作り話をでっち上げられるものだなと感心してしまう。
しかし、当時の彼にとっては嘘をつくことは生きることでもあったわけである。
嘘は勿論良くないことだが、彼の嘘をつく才能は見事だと思わず認めざるを得ない。
この才能を他の何かに活かせなかったのかと思ってしまう。

K美さんは1982年(昭和57年)11月30日に亡くなるが、彼女に対する同情のほうが大きく、彼が悲しんで泣いたことに関する記述なども全然頭に入ってこない。
悲しいのはK美さん自身であり、彼女の親族や友人のはずなのだから。

K美さんの死後について


次の章は「昭和五十九年二月——東京」という題名で、最後の章である。
ここではK美さんが亡くなった後から疑惑が始まった年までのことが書かれている。
題名にある昭和59年(1984年)という年は週刊文春の「疑惑の銃弾」の連載が始まった年であり、この著書が執筆された年である。
この章の冒頭はこう始まる。

気がつくと、私は青山にある竜厳寺の塀を乗り越え、K美の墓の前にいた。雪が降っていた。私は、死のうと思っていた。
K美の墓にお詣りをすませると、公衆電話から、高井戸で私の帰りを待つYに電話した。
「自分さえいなければいいんだ。自殺さえすれば迷惑はかからないんだから……」
「なに子供みたいなこといってるのよ!いい歳して、なにを考えてるの!!しっかりしなさいよ!」
「でも、もう、やんなっちゃった。僕がいるだけで、みんなに迷惑がかかるのだから……。もう電話切るよ」
「わかった!?考えなおしてね、またかけるのよ!わかった!?」
「切るよ……」
すでに三通の遺書をしたためてあった。両親宛てに一通、Y宛てに一通、そして私にいきなり疑惑を突きつけて両親、兄弟、親類縁者をさえ窮地に追い詰めた報道陣に一通だった。降る雪のなか、すでに自殺のために用意したゴムホースを積んだソアラを、あてどもなく走らせた。


しかし、三浦は恋人Yのおかげで自殺を思いとどまり、疑惑の渦中、Yと行動を共にするようになったと語る。

このマスコミからの逃走生活中、ある方にこう言われた。
「三浦さん、どんなことになろうとも、真実が一番強いんだ」
私の目の前からモヤが一気に消える思いだった。真実はたったひとつ。そのとおりである。なにをいわれても、書かれても、真実には勝てない。この身の潔白という真実が、このときほど心強く思えたことはなかった。
このひとことを契機に、私は立ち直った。マスコミに対する気持ちも変わってきた。私に向かって"シロ"だの"クロ"だのと騒ぎたてる彼らを、黙殺できる余裕が出てきた。
いつか、この真実が明らかにされるときがくる。そのとき、私に向けられたおびただしい疑惑とやらが、たんなる憶測とあやふやな証言と、予断にもとづく作為に満ちたものであったことが証明されるのだ。


彼は当時交際していたYにかなり助けられたと言っているが、結婚については次のように述べている。

私はK美を失ってから、まったく結婚する気はなかった。同居する両親に、Y子をみてもらい、私は何もかも忘れて仕事をしたかった。K美を亡くしてから、考えこむ辛さから逃れるように仕事をした。

Yと交際した時はK美さんが亡くなってから1年も経っていなかっただろうから、彼は常に何かと女性に世話してもらわないと気が済まない性格だったのだろうか。
しかし、彼はある日、叔母にこう言われたらしい。

昭和五十八年二月だったろうか。私は叔母に呼ばれて、某テレビ局の地下にあった特別応接室で、二時間にわたり、さとされた。
「子供には母親が必要なんだよ。二歳の今のY子なら、まだわからないんだから。四、五歳になってから結婚するくらいなら、明日にでもしなさい。自分のためじゃなくて、Y子や六、七十歳になるあんたの両親のことも考えなさい。一周忌も済まないうちに……なんていう人がいたら、私がいってあげるから。誰がY子の世話をしてくれたっていうんだい……」

名前は出していないが、この叔母は水の江瀧子さんと思われる。
昭和58年(1983年)はロス疑惑の報道が始まる年の前年で、彼が記述したことが本当だとすると、ロス疑惑の前から叔母との交流があったことになる。
この著書が書かれた当時はすでに彼の叔母が水の江さんであることが発覚していたから、このことについて軽々しく嘘はつけなかったにに違いない。
なぜなら彼がこの本を刊行した後、マスコミが水の江さんにこれが事実かどうかを確かめに行く可能性があったからである。
彼はこの叔母の言葉もあってYとの結婚を意識するようになるが、そんな中、C子さんの姉のS・M子さんが彼が新しく建てた家を訪ねてくる。

その後、高井戸に家を建てて移り住んだ。銀行から借りたローンだけで、毎月六〇万円以上の返済である。しかし、『フルハムロード』はその後も順調に成長し、私にとってけっして困難な額ではなかった。
その高井戸の家に、突然、S・M子さんが訪ねてきたのは、五十八年の九月か十月の日曜日だった。父を除く家族全員で富士急ハイランドへ出かけていたときのことだ。応待に出た父に、M子さんは、妹のC子さんの消息を調べているので私が帰ったら電話をしてほしい、と伝えて帰った。
あとで聞けば、「週刊文春」が"疑惑の銃弾"の取材を開始したころのことになる。私はM子さんに連絡し、
「C子さんは北海道に行っているのでしょう」
といっておいた。C子さんからはその後、なんの音沙汰もなかったし、私としては、アメリカで生活しているのだろうと考えていた。アメリカといわず、北海道と答えたのは、C子さんのことばを守ったからであった。ほかになんの意味があろう——。

彼の会社はロス疑惑が始まった年に廃業せざるを得なくなったという。
この章の最後にこう記している。

すでに『フルハムロード』は消えてしまっている。四月十日をもって最終的に業務停止にせざるをえない状況に追いこまれた。ベンツも売り、この高井戸の家も売りに出されている。
しかし、債権者だけに迷惑をかけることはできない。無一文になろうとも、責任はとる。いままで、苦しいとき、私たちを助け、『フルハムロード』を育ててくれた、下請けの社長さんたちの励ましや理解がなければ、今日まで会社はなかったろう。私どもが苦しいとき、ともにその苦しみを担ってくれた方々を、私は裏切ることはできない。水戸を出て以来、私はずっと筋を通し続けてきたつもりだし、これから先もそのつもりでいる。

マスコミに対する見解


著書の最後は「おわりに」という題名で、主にマスコミに対して意見を述べている。

この連載が始まるや否や、本来「人権」を強く標榜する新聞社、テレビ、週刊誌が、「三浦和義」という私個人に対して「報道」の名のもとに行ってきたことは、私の想像をはるかに超えるものでした。
実にその「報道」のほとんどは目茶苦茶であったとしか私にはいいようがありませんでした。
「三浦報道」「三浦フィーバー」といわれた洪水のような「報道」は、その大部分が予断をもってなされたものであり、「取材」とはいっても、各社の商業主義を第一にしたものであった。いかに発行部数を、視聴率を上げるかという現代マスコミの論理の前に、真実は、はるか彼方に押しやられてしまった。
彼らにとっては、「事実」も「真実」も問題ではなく、商品としてのみ私を俎上に乗せ、「報道」という美しい名のもとに、読者が、視聴者が喜ぶ物語を展開すればよかったのだろうとしか思えません。

そして、三浦は事件の動機と言われている金銭目的ということをきっぱり否定する。

私を犯人扱いする報道陣は、"動機"はなんだったんだろうか?保険金である、という。
私は会社設立以来、幸いにして、お金に困ったことはない。私の会社は年間、五割以上も、毎年、売上げを伸ばしてきた。とくにK美が凶弾に倒れた昭和五十六年度の決算期には、売上げが前年の二倍半にもなって、連日、大忙しのときだった。
このように述べると、こんどは、こんな売上げが伸びるのはおかしい、きっと麻薬や不法なものを扱っているのだろう、という人が現れる。相当の地位の人さえも平然とそう延べている、と報道にもあった。いったい、そのような麻薬とか、不法なものを税務署に報告する会社がどこにあるだろうか。また、赤字を計上して、あんなに給料がとれるはずはない——とも。
このような論には、反論する元気も出ない。
一億五千五百万円の保険金の半分近くをたしかに私は相続した。しかし、その相続以後、私の生活のなにが変わったか?
私には現実的に、そんな大金を必要とする理由はなにもなかった。

彼はさらにマスコミに対する不信感を書き連ねる。

あるテレビ会社のように、お金の話ばかりして私を番組に出演させようとすることにも、深い疑問を持たざるをえない。
同局のあるディレクターなどは終始、
「一千万から二千万出すから、出演してほしい」
といってばかりいた。おそらく、私にそういう交渉をするのだから、他の関係する出演者に相応の金額が出されていると想像するのは容易なことである。そのような"お金で創られた番組"が「特別報道番組」などという名で報道される。その番組制作過程で、私どもの家への乱入事件まで引き起こしている。
視聴率のためにはなにをしても良い、と考えているのだろうか。
私としては、明治の若き政府が、明治八年に公布した言論規制法令「讒謗律」を現代にマッチした形で復活するか、「著作・報道等による名誉毀損に関わる規制法」の制定をぜひとも、お願いしたいと思っている。
二、三の社のジャーナリストとは私は積極的に会った。"ニュートラルで予断を持たない"という報道姿勢を、よく理解できたからである。

僕はテレビ業界については詳しくないが、1,000万円から2,000万円の出演料を打診されたということが本当だとすれば、大物芸能人よりはるかに高い額なのではないだろうか。

彼はここで著作や報道による名誉毀損に関しての法改正を訴えている。
ネットの情報によると、彼は一連の報道に関してマスコミに対する476件の名誉毀損訴訟を起こし、その8割で勝訴したと主張しているようである。
現在の報道では逮捕や連行の際に容疑者の人権に配慮して警察がシートを被せたり、報道機関が放送する場合、手錠にモザイクをかける処置が施される。
これは1985年9月に三浦が逮捕された際、手錠と腰縄をつけた姿を報道陣に撮影された彼が「判決が確定していない容疑者を晒し者にする人権侵害だ」として提訴し、勝訴したことがきっかけとなったという。
彼が社会に貢献したものがあったとするなら、このことだったのではないだろうか。
彼はマスコミの取材姿勢をすべて否定しているわけではなく、一部に対しては評価しているようである。


あとがき

僕がロス疑惑の一連の事件やこの著書について興味を持ったのは四つの要素があったからであった。
一つは、三浦の経営者としての側面である。
彼自身が謙遜して「零細企業」と言っているように確かに大きな事業を営んでいたわけではないが、経営者としての彼の人物像は僕にとっては憧れを抱くようなものだった。
僕自身も一時彼のような事業を営むことを夢見ていたこともあって、当時この著書から自分にとってプラスになる材料を少しでも吸収しようとしていたのかもしれない。
もう一つは、彼の女性との関係である。
彼が疑惑をかけられた女性とどのように交際し、どのような心境の変化があったのかなどを著書から汲み取ろうとしていた。
彼は自分の恋人や妻に対してどのような気持ちを抱いていたのか。
事件とは別の次元での男女の関係である。
もう一つは、犯罪者の心理である。
彼が事件を起こしたのなら、そこに至るまでの過程で何がどのように彼の心理に影響を与えたのかなどである。
そして、もう一つは、「謎解き」である。
被害者のいる事件に関してこう言うのは不謹慎かもしれないが、それを承知であえて言うなら、人間は解決された事件に関しては「面白くない」と思って興味を示さないが、未解決の事件に関してはあたかも自分が刑事や探偵の一人になったように推理し、解決することに自己満足のような感情を抱く傾向がある。
この四つの要素は多くの小説や映画などのテーマにもなっているもので、下世話な言い方をすれば、これらを扱えば「売れる」とされる要素とも言える。
彼が嫌疑をかけられた一連の事件は、そうした小説や映画の物語を地でいくような要素があった。
ロス疑惑がこれほどマスコミに大きく取り上げられ報道された理由は、それが大きかったと思う。

彼が受刑生活の間に書いたノートから察すると、当時は心から反省して社会に出たらまっとうな人生を送ろうと決心していたように思う。
過去に過ちを犯した人間でも、後に立派な人間になる例は珍しくないのである。
少年時代に犯した罪を考慮したとしても、彼が出所後、事件を起こさずにまっとうに会社を経営して成功していたなら、僕は彼のことを尊敬できたかもしれない。
彼には立派な人間になるだけの素質が備わっていたと思うだけに残念なのである。
そういう意味で、僕にとって三浦和義という人間は良い反面教師になった。
バカな考えを起こして、自分の人生を棒に振ることのないように生きていこうと思った。

断っておくが、僕は事件に関しては裁判の結果や捜査当局の公式の発表を事実として採用するというスタンスでこの記事を書いた。
有罪が確定していない事件に関しては、「彼がもし犯人ならば」という仮定に基づいた書き方はしているが、彼を犯人だと断定した書き方はしていないつもりである。

事件で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。










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