まえがき
「ロス疑惑」は1981年にロサンゼルスで起こった銃撃事件が保険金殺人の疑いがあるとして三浦和義に嫌疑がかけられマスコミの報道が過熱した一連の疑惑であり、『不透明な時』はロス疑惑の報道が過熱していた1984年に三浦本人によって書かれた著書である。
僕は80年代前半はまだ小学生だったので、この疑惑について興味を持って見ていたわけではない。
銃撃事件の報道をリアルタイムで見た記憶はないが、一連の疑惑報道は幼くてあまり理解できないながらも見ていた記憶はある。
しかし、ロス疑惑に関する報道は僕が成人になっても度々テレビで報道され、事件について僕と同世代の人をはじめ多くの人が知ることとなった。
僕はこの本は今から十数年前に読んだのだが、この事件のことが忘れられず、今回改めて本を読み返し、記事にしようと思った次第である。
なお、三浦以外の一般人の氏名は念のために伏せてある。
三浦和義の経歴
三浦和義は山梨県で生まれ、北海道で幼少期を過ごした後、千葉県で育ったが、父の仕事の関係での転居だった(本人談)。
石原裕次郎などを育てた映画プロデューサーの水の江瀧子氏が父方の叔母であることが発覚し、水の江氏はこのスキャンダルのために芸能界を引退している。
中学時代は神奈川県で暮らしていたが、何度も家出したり教師と喧嘩したりする問題児だったという。
高校時代は生徒会長であるにもかかわらず停学処分を受けたり、強盗傷害、窃盗、日本刀不法所持などで逮捕され、少年鑑別所に収監されるが、脱走した経歴がある。
高校は退学になり、1966年に放火容疑で逮捕され、懲役10年の判決を受け水戸少年刑務所に収監されるが、刑期7年で仮出所した。
出所後は『土曜漫画』や『週刊漫画』の編集部で働いた後、「三浦ドレス」「三浦兄弟商会」「Mオフィス」といった会社を設立後(本人談)、雑貨輸入会社「フルハムロード」を設立した。
ロス疑惑の概要
ロス疑惑の概要は以下のようなものである。
1981年(昭和56年)8月31日、三浦が妻K美とロサンゼルスを旅行中、ホテルの部屋に女性が上がり込んできて、K美の頭部を鈍器で殴打し、K美は軽症を負った(K美さん殴打事件)。
同年11月18日、三浦夫妻がアメリカ渡航中にロサンゼルス市内の駐車場で銃撃事件に遭遇。
2人組の男に銃撃され、K美は頭を撃たれて意識不明の重体になり、三浦も足を撃たれ負傷した。
三浦は「犯人はグリーンの車に乗っていたラテン系の2人組」と主張した。
1982年(昭和57年)1月、三浦は「悲劇の夫」としてマスコミに取り上げられ、その後もたびたび報道されていた。
K美は日本に移送され、神奈川県の病院に入院したが、同年11月30日、意識が戻ることなく死亡した。
三浦は、保険会社3社から計1億5500万円の保険金を受け取った。
1984年(昭和59年)1月、『週刊文春』が「疑惑の銃弾」というタイトルで、この事件が「保険金殺人ではないか」とする内容の連載記事を掲載した。
それ以降、マスコミの報道が過熱化することになる。
三浦の自宅前に記者が列をなし、マスコミ関係者が自宅に不法侵入する事件も起きている。
1985年(昭和60年)、三浦の恋人であるYが殴打事件の犯行を新聞上で匿名で告白した。
その後、夕刊紙がYの実名を暴露し、それ以来実名報道となる。
同年9月11日、警視庁は三浦を殴打事件での殺人未遂容疑で逮捕し、同月12日、Yも同容疑で逮捕された。
三浦は1998年に釈放されるまで13年間を拘置所で過ごしている。
釈放後4ヶ月の後、殴打事件でYに懲役2年6ヶ月、三浦には懲役6年が確定し、宮城刑務所に収監されるが、三浦は未決勾留の期間を差し引かれ、2年2ヶ月で出所した。
三浦が一連の事件で収監されたのは通算16年であった。
銃撃事件の裁判で、東京地裁は三浦に無期懲役の判決を下したが、三浦は東京高裁に控訴した。
高裁では、実行犯が特定できていないことから証拠不十分で逆転無罪となるが、検察は最高裁に上告した。
2003年、上告が棄却され、銃撃事件の日本での三浦の無罪が確定した。
2008年、三浦はサイパン島で現地に出向いていたロサンゼルスの警察に殺人容疑で逮捕された。
捜査当局は、殺人罪において時効のないカリフォルニア州のロサンゼルスへの移送を目指していた。
三浦側は「一事不再理」の原則を主張して、ロサンゼルスへの身柄移送の中止と身柄の解放を訴えて、法廷で争った。
一事不再理とは、確定した判決がある場合には再度審理をすることは許さないとする原則のことである。
同年9月26日に裁判所は殺人罪の逮捕状は日本で判決が確定した一事不再理にあたり無効とした上で、殺人の共謀罪については日本で裁かれていないとして有効とした。
同年10月10日、サイパンからロサンゼルス市警に身柄移送された三浦は、同日にロサンゼルス市警内の留置所で首を吊っているのを発見された。
警察は調査により自殺と発表した。
しかし、三浦の弁護人は「遺体を検視した病理学者が自殺ではなく他殺であったと結論づけた」と主張している。
ジェイン・ドゥ・88事件の概要
三浦には「もう一つのロス疑惑」の嫌疑もかけられた。
1979年(昭和54年)、ロサンゼルス郊外で身元不明のミイラ化した女性の遺体が発見された。
当初、この遺体は「ジェイン・ドウ・88」と呼称されていた。
「身元不明の88人目の遺体」という意味で、アメリカでは身元不明の男性を「John Doe」、女性を「Jane Doe」と呼ぶ慣わしがあるためである。
1984年(昭和59年)、歯型から身元が確認され、1979年に行方不明になっていた日本人女性C子であり、彼女は結婚していたが当時三浦と交際していた。
1978年(昭和53年)2月、C子は三浦の経営する会社の取締役に就任している。
1979年、C子は夫と正式離婚したが、「北海道に行く」と言い残し行方不明になっていた。
同年3月29日、ロサンゼルスにC子の入国記録があり、三浦は3月27日にロサンゼルスに入り、4月6日に帰国している。
三浦は、彼女の口座に5月8日に振り込まれた前夫からの慰藉料である426万円を6月12日までに複数回に渡って引き出していた。
三浦はC子に金を貸しており、「アメリカから送られてきた彼女のキャッシュカードを使い、引き出した」と供述している。
この事件は日本では証拠不十分のため立件されなかった。
2009年1月、アメリカの捜査当局の元捜査官が三浦が自殺する直前にC子殺人容疑で訴追、再逮捕する方針を固めていたことを明らかにした。
C子の渡米理由が三浦に会いに行くこと以外に考えられないこと、被害者の銀行口座から金を引き出していたことなどの状況証拠に基づき三浦の単独犯行と断定、死刑求刑が可能な第1級殺人と窃盗容疑で近く逮捕状を請求する方針を固めており、捜査トップにも報告していたという。
同年1月14日、ロサンゼルス市警は記者会見し、三浦がC子を殺害した容疑者だったと結論づける捜査結果を公式に発表した。
著書のあらまし
この本は1984年に書かれている。
『週刊文春』の「疑惑の銃弾」の連載が始まったのはこの年の1月である。
翌1985年に三浦の愛人のYが殴打事件の犯行を告白、その年の9月に彼とYが逮捕され、彼はそれ以降の13年間勾留されることになる。
要するにこの本はロス疑惑の報道が加熱していた最中に書かれ、翌年に逮捕され勾留されるまでのつかの間の自由な身の時に書かれたと思われる。
もっとも自由と言っても、彼にとっては私生活での自由が事実上マスコミにかなり奪われていた可能性もあるが。
本の内容は主に自分自身の会社の事業のこと、C子さんやK美さんとの関係、そして、その他の人物との関わり合いで占められている。
全体的に自らの潔白を主張する内容になっているが、実際に伝票など数々の物的証拠を提示しつつも、自身の無罪を決定づけるような証拠は何も示されていない。
もっともそんな証拠があればとっくに警察に差し出していたであろうから当然のことと言える。
彼の性格は文章から察すると虚栄心の強い男という印象を受ける。
虚栄心の強い人間は自分を華美なもので飾って体裁を取り繕う傾向があるが、話す内容に関しても「自分がいかに異性にモテるか」ということを強調する傾向があるからである。
事件とは関係のない内容も少なくない印象だが、事件と関係ない被害者との会話のやりとりだって、被害者自身が事件に直接関わっている当事者である以上、全然関係がないとは言い切れないのである。
彼はこの著書によって一連の疑惑を晴らせるとは思っていなかっただろうから、僕にはほとんど興味本位に書かれた本に思えた。
マスコミの報道がもっとも加熱していた時期でもあっただろうから、本が売れることによって得られる印税を期待しての刊行だったという側面が大部分だったと思う。
彼がもし「クロ」であるなら、彼の犯した行為は言語道断の許されざる行為である。
彼を信頼していた何の罪もない女性を自らの金銭欲のために死に至らしめる行為は極悪非道と言わざるを得ない。
しかし、彼が「シロ」か「クロ」かを僕の憶測で述べても何の意味もない。
彼自身もうこの世にいないし、僕がどれだけ事件について詳しく調べて検証しようとも、この事件に対する世間の認識が覆る筈はないからである。
事件に関しては判決や捜査当局が公式に発表した内容を尊重する他ない。
ただ僕が興味を持ったのは、彼が会社を設立して事業を営んだ経緯、被害者の女性や周囲の人間との関係、事件前後やマスコミに疑惑が取り沙汰たれてからの彼の心境などである。
著書の最初の部分でこう述べている。
「悪魔の証明」とは、「ないこと」を証明するのは「あること」を証明するよりも非常に困難であるという意味の言葉である。
例えば、地球上にツチノコがいることを証明するには一匹捕まえればいいが、いないことを証明するには地球上をくまなく探さなければならない、というような意味である。
C子さんとの馴れ初めについて
著書は全体が「昭和○○年」というような章で区切られ、その年に起こった出来事などを実際の会話を交えて書かれている。
会話の部分に関して彼はこう述べている。
最初は「昭和五十一年——ニューヨーク」という章で始まる。
冒頭部分はC子さんと最初に交わした会話から始まるが、それに続いて会社設立に至った経緯について書かれている。
三浦はニューヨークでビジネスを通じて知り合ったS・M子さんという女性から、東京にいる妹に荷物を渡してほしいと頼まれ、引き受ける。
これがC子さんと出会う切っ掛けとなった。
C子さんと初めて会った時のことを次のように述べている。
彼もC子さんも結婚していたが、やがて肉体関係を含めた交際に至る。
しかし、彼はこの著書でC子さんとの関係は軽い交際だったことを強調し、同棲していたとする報道を否定している。
水戸少年刑務所でのこと
次の章は過去に戻り、「昭和四十三年〜四十九年——水戸少年刑務所」という題名である。
ここでは約7年間過ごした刑務所での生活やその当時の心境などが書かれている。
刑務所にいる間、父親が何かと世話してくれ、毎月面会に来て数十冊の本を差し入れてくれたと三浦は述べている。
彼は父親のことを誰よりも慕っているようなことを述べているが、彼の父親は相当立派な人間だったようである。
1日1冊読破したとして1年で365冊。
3,000冊読破するには10年近くかかる。
当時の刑務所の房にテレビが設置されていたかはわからないが、テレビなどの娯楽をそっちのけで読書のみに集中すれば1日1冊のペースで読破するのは可能かもしれない。
休日は数冊読破できなくはないと思うが、約7年間で2〜3,000冊というのは驚くべき数字である。
勿論、誇張が含まれている可能性はある。
実は僕自身この著書を初めて読んだのが受刑生活の時だったのである。
僕は受刑生活の間に出所してからの自分の仕事のことについて真剣に考えた末、会社を経営することを思いついた。
僕の思いついた会社は彼の会社と似ていた。
彼の会社は主にファッションや雑貨を取り扱っているが、僕が考えたのは中古オーディオ製品を販売する会社だった。
東京で中古オーディオ販売店を経営している人と受刑生活の間に知り合って話を聞いていたのである。
その人はオーディオ製品を盗品だと認識しつつも店で販売した罪で服役していた。
その人はあくまで国内で中古製品を仕入れていたが、僕は商品を海外で買い付けて輸入し、売る商売を考えていた。
しかし、実際、出所してからそんなに甘くないことを知った。
第一、そのような店を立ち上げるにしてもまとまった資金が必要である。
そういう訳で出所後その夢は半ば諦めた。
しかし、自分が起業しようと考えていたビジネスのスタイルと彼が営んでいるビジネスのスタイルが共通する面が多かったので、この本を興味深く読んだ記憶がある。
彼はニューヨークという街に特別な思い入れがあるように語っている。
1974年から1976年までのことについて
次の章は「昭和四十九年〜五十一年——飛翔への滑走」という題名である。
ここでは主に本格的に事業を営むまでの経緯について書かれている。
冒頭で次のように述べている。
「三浦兄弟商会」は株式会社だったらしい。
今の会社法では資本金1円から会社を設立できるが、当時の商法では株式会社であれば資本金1,000万円以上ないと設立できなかった。
三浦はその資金を用意できたことになる。
しかし、そのことに関する記述はない。
ただ、会社の株の60パーセントを所有していたと述べているので、弟と資金を出し合ったのかもしれない。
その会社の代表取締役を弟に譲ったと述べている。
この会社は浅見荘という木造アパートの一室で業務を行い、三浦夫妻も同じアパートの一室に住んでいた。
ここで妻M子さんと弟の仲がしっくりいかなかったことについて触れているが、夫妻はやがて転居することになる。
その経緯についてこう述べている。
団地に入居後、猫を飼ったことについて触れているが、ここでマスコミの報道の誤りを指摘している。
妻M子さんとは弟に対する彼女の暴言が原因で別居し、離婚に至ったと後に述べている。
彼は女性に対する気持ちを次のように述べている。
彼はここでも刑務所にいた当時のことについて触れている。
彼は受刑生活の間にノートに書き記したことを掲載しているが、その一部を転載する。
彼が受刑生活の間考えていた出所後の仕事は、本屋を開くということだったが、いざ出所してみるとその考えを変えざるを得なかったようである。
彼は刑務所にいた時、印刷工場で働かされたと述べているが、その経験が雑誌の編集部で働いたことに少なからず影響していたのかもしれない。
彼はこの当時、最初の結婚をしたが、その経緯についてこう述べている。
やがて彼が働いていた「土曜漫画」は倒産してしまう。
その後、彼は編集部で働いていた時に知り合ったH女史という人のマネージャーとして働き始め、彼女がオープンした赤坂にある「青い真珠」というナイトクラブでも働き始める。
しかし、この仕事も結局長続きしない。
辞めた経緯について次のように記しているが、それに続けて彼は自分の会社の債権者に対する責任を全うしたいとの意向を述べている。
彼の著書には刑務所で服役していた頃の話が度々出てくる。
受刑生活は彼のその後の人生に非常に大きな影響を与えたように推測される。
その後、彼は同じ編集部で働いていた時に知り合った別のY・M女史という人の下で働くことになる。
彼が出所後働いた仕事は堅気な商売とは言えないような仕事だったが、次の仕事もそのような仕事だったようである。
受刑生活が彼のその後の人生や価値観に大きな影響を与えたであろうことは想像できるが、僕の見解では、彼が出所後に働いたこのような仕事も彼のその後の人生や価値観にかなり影響していたと思われる。
この仕事は次の引用文にあるような理由で終わることになるが、この後、彼はファッション業界に初めて踏み入れることになる。
彼の叔母が水の江瀧子さんだということが発覚したのは「週刊文春」で記事が連載されてロス疑惑の報道が始まってからだと思う。
しかし、彼がここで言っていることが本当だとすれば、当時の名もない彼に週刊誌の記者がこう尋ねたという。
週刊誌の記者がたかが女性社長にこき使われている青年の親族まで調べるだろうか。
当時、彼はC子さんと知り合う前であり、ロス疑惑の事件など影も形もないのである。
僕はこの部分に関する記述はかなり疑わしいと思う。
1977年から1978年5月までのことについて
次は、1977年(昭和52年)から三浦がK美さんと知り合う前までの1978年(昭和53年)5月までの著書の内容について解説する。
「昭和五十二年——原宿」
「昭和五十三年五月——類焼」
「昭和五十三年五月——有栖川マンション」
以上の題名の章である。
「有栖川マンション」というのは当時C子さんが住んでいたマンションの名称である。
冒頭は次のように始まる。
三浦は最初の章で、1976年(昭和51年)6月に二度目の結婚をし、その数ヶ月前に最初にファッション業界で働いた「エイガールズ」を辞め、彼の最初の会社「三浦ドレス」を立ち上げたと述べている。
そして、この年の9月に「三浦兄弟商会」を設立し、翌年の1977年(昭和52年)1月に「Mオフィス」を立ち上げたということは、彼がファッション業界に入ってから「Mオフィス」設立までは1年足らずの期間ということになる。
飽くまで僕の憶測だが、彼はファッションの世界で儲かり、自分の会社がとんとん拍子に成長していくさまに酔っていた面はあったと思う。
そして、それが彼の金銭欲を目覚めさせ、もし彼が一連の事件の犯人だったなら、分別を失うほど金銭欲に心が支配されるようになっていったのではないか。
人間は怒り、憎しみ、性欲、金銭欲などに心が支配された時、過ちを犯す。
彼は最初の章の冒頭部分で、C子さんと初めて会話を交わしたのは1976年(昭和51年)の「秋から冬にかけてだったと思う」と述べているが、「三浦兄弟商会」の時と推測される。
そして、C子さんに「Mオフィス」の経理を手伝ってもらっていたらしい。
しかし、C子さんとの交際は遊びでしかなかったことをここでも強調している。
「Mオフィス」は渋谷区にある雑居ビルに事務所があり、当時の彼の住まいは別の場所にあった。
知り合いの女性に自宅ではなく会社の電話番号を教えていたのは、彼が結婚していたからだろうが、この部分に関してはかなり誇張が入っていると思われる。
例えば、「おびただしい数の女性」という表現である。
買い付けのために半月はアメリカ、半月は日本という生活だったと彼自身語っているので、それほど多くの女性と知り合う機会があったとは考え難い。
C子さんとはそれほど深い関係ではなかったことを強調する理由もわからない。
次の章の冒頭で彼はマスコミや自分の周囲の人間に対する不信感を露わにしている。
「フルハムロード」設立後、3ヶ月余り経ってからショールームとして使用していた浅見荘の一室が火事になる。
彼の談によれば1978年5月のことだったという。
この火災は隣の部屋の住人のタバコの不始末ということで収まっている。
しかし、当時のマスコミも同じように考えたのだろうが、僕もこれを読んで犯行の手口から三浦が関与していたのではないかという疑念を抱いた。
当時のマスコミが疑いの目を向けていたように、もしこの火災を引き起こしたのが彼で、C子さんやK美さんの事件の犯人も彼だと仮定した場合、次のような推理ができる。
この保険金目当ての放火は後のC子さんやK美さんの事件を引き起こす起点となった。
もし放火ならアパートであればその当時、現に人が住んでいただろうから「現住建造物等放火罪」にあたる。
現住建造物放火は死傷者が出ていなくても死刑になり得ると言われるほどの重罪で、殺人と同等かそれ以上に罪が重いと言われているほどの重罪である。
かつて放火で服役したことのある彼が放火罪の量刑に関して知識がなかったとは考えられない。
もしこれが彼の犯行だとすれば、大変なリスクを伴った行為である。
しかし、以上はあくまで仮定の話である。
アパートの火災に関する記述の後、二人目の妻であるM子さんとの離婚に至った経緯について書かれている。
彼の弟の妻の父親が亡くなった時、妻M子さんが「なんで私があんな人のお父さんのお通夜に行かなければならないの?」「あんな人のお父さん、死んであたりまえよ!いい気味だわ」と言ったらしく、それが離婚の原因になったらしい。
しかし、M子さんはロス疑惑の事件とは無関係なのだから、一連の疑惑とはあまり関係のない内容のように思える。
C子さんが正式離婚したのは彼女が行方不明になった1979年(昭和54年)のことだが、彼はその前年から彼女の離婚に向けての動きを認識していたと語っている。
彼はC子さんのキャッシュカードで金を引き出したのは、C子さんに金を貸していたからだと主張しているが、もしそれが虚偽だとするなら事実をでっち上げてまでもC子さんに金を貸したと主張する理由は十分ある。
当人はこの世にいないのだから確かめようがない。
アメリカの捜査当局は、彼がC子さんを殺害した容疑者だと結論づける捜査結果を公式に発表しているのである。
彼はC子さんが彼の会社の経理を担当しているIという人物と交際していることを知り、C子さんを責めたということを語っている。
会社と関わりのない人間との交際なら問題ないが、会社と関わりのある人間との交際は彼にとって問題があったらしい。
彼はIに会社の経理を辞めてもらい、C子さんはそれ以来会社に出社しなくなり行方をくらましたが、探した結果、睡眠薬を多量に飲んだ後、病院に運ばれ入院していたという。
しかし、彼はC子さんとの関係はそれほど深い関係ではなかったと突き放すような書き方をしているし、自分以外の男性とも不倫しているC子さんに対してあまり良い感情を抱いておらず、暴力を振るった可能性も十分考えられる。
K美さんとの馴れ初めについて
次の章は「昭和五十三年——チェリス氷川坂」という題名である。
C子さんは会社を自主退社し、歯科の受付として働き始めるが、三浦との交際は続いていたらしい。
昭和54年(1979年)3月31日はC子さんがアメリカへ立った直後で、彼もアメリカへ出張のために渡航し滞在中の日である。
この部分に関する記述もかなり疑わしい。
C子さんが役員として登録されていれば会社の定款に記さなければならないから、記録として残っているため、嘘はつけなかったはずである。
彼女が行方不明になるまで彼の会社に役員として関わっていたことを否定する理由はある。
C子さんが死亡した事件への関与を否定するためである。
彼が事件の犯人だったなら完全犯罪を目論んだであろうが、C子さんの役員としての登録を抹消するタイミングなどは浅薄である。
会社の役員の記録まで調べられないと思っていたのだろうか。
あるいは、そもそも事件が明るみになることはないだろうと踏んでいたのだろうか。
完全犯罪とは、警察の捜査が及んだとしても自分が罪に裁かれないように企てて実行することではないのか。
この章で初めてK美さんが登場するが、彼はK美さんと初めて出会った時のことを次のように書いている。
この後、彼が初めてK美さんと交わした会話を書いているが、それに続けてこう書いている。
彼のK美さんとの出会いはこのようにドラマチックに書かれていて、事実を美化して書いた可能性もある。
彼自身、会話の部分ははっきり覚えていないので推量で書いていると述べているし、人間は過去の思い出を美化して記憶する傾向があると言われているが、「死人に口なし」なのだからいくらでも話を作ることはできただろう。
彼は以前住んでいたマンションから新しいマンションへ引っ越す。
章の題名にある「チェリス氷川坂」というのは彼が引っ越した新しいマンションの名称である。
続いて、C子さんに対する気持ちとは対照的に、K美さんに対しての気持ちは真剣だったことを強調している。
K美さんは仕事をしていて川崎市に両親と同居しており、夜遅くまで出歩くようなタイプの女性ではなかっため、あまり頻繁に会えなかったらしい。
彼は自分が結婚した女性に対しては真剣だったと語っているが、僕の個人的な意見では、彼の結婚に対しての意識は一般人のそれに比べてかなり軽いと思う。
一方、C子さんに対しては愛情が冷めていったらしい。
やがて彼はK美さんと結婚するが、彼によれば最初に彼との結婚を言い出したのは彼女のほうだったという。
1978年から1979年までのことについて
次の章とその次の章では、1978年から1979年の初頭までことについて書かれている。
「昭和五十三年〜五十四年——ポラロイド写真」「昭和五十三年〜五十四年——往復書簡」
以上の題名の章である。
C子さんの住むマンションのドアを叩いて「出てこい」と脅す人間がおり、そのためにC子さんはマンションを出たいと言い出したという。
彼女の持っている写真が離婚調停の際の彼女側の証拠になるためにそれを狙っているのだという。
彼はそれを預かり、写真は封をされた封筒に入っていたが、ずっとあとになって見たら、C子さんの夫が裸でスワッピングのプレイをしている写真だったらしい。
彼はこの写真は切り刻んで捨てたが、マスコミの報道で出てきたようである。
C子さんが同じ写真を別の人間にも渡していたかは定かではないが、その写真に三浦とC子さんの夫であるK氏が一緒に写っていた。
そのことについて彼はこう述べている。
彼はこう述べているが、当時のマスコミとはいえこの写真の人物が三浦とK氏であることの裏付けが取れた上で公表したものと思われる。
もしこれが事実なら三浦とK氏が面識があった可能性は高い。
なぜなら同じ女性の夫と愛人がスワッピング・パーティーに偶然居合わせる確率は極めて低いからである。
もし三浦とK氏が知り合いだったとしたらいろいろな可能性が考えられる。
・三浦とC子さんとの交際をK氏は知らなかった。
・三浦とC子さんとの交際をK氏は知っていた。
・C子さんは三浦と夫が面識があることを知らなかった。
・C子さんは三浦と夫が面識があることを知っていた。
しかし、当時、K氏はご存命であっただろうから、どれが真実だったかはK氏に聞けばわかったはずである。
しかし、三浦がこの著書でK氏とは面識はなかったときっぱりと否定しているということは、K氏も否定していたからであろうか。
または真実を話さなかったからだろうか。
本当に偶然居合わせたのだろうか。
この部分に関しては謎が多いが、いずれにしてもロス疑惑の事件の本質にはあまり関係のないことのように思われる。
1978年(昭和53年)11月頃からK美さんとの手紙のやりとりが始まったらしい。彼女からの手紙は彼がアメリカへ主張中に泊まっていた宿宛に送られてきたという。
彼はこの手紙の内容を掲載しているが、それを読むと彼女が彼に対して特に疑いもなく、真剣な気持ちで愛していたのだとわかる。
夢の部分に関する記述は後の彼女の運命を考えると意味深に思えなくもない。
彼はこの2通の手紙の間に妻M子さんと正式に離婚する。
離婚は話し合いで簡単に終わったという。
彼はK美さんに結婚していることを告白したが、彼女はそれ以来彼の過去の女性のことを気にするようになったという。
また仮定に基づいての話になるが、K美さんを殺害した黒幕が彼だとするならば、これほどひたむきに彼のことを信頼し、愛していた女性を殺めるなどということはもってのほかで、僕には到底考えられない。
人を殺めるという行為は勿論一般論として許される行為ではないが、仮にそれを除いて考えたとしても、敵でもない慕ってくる相手に対して酷い仕打ちをするというのは僕にとってこの事件のもっとも憤りを覚える点である。
自分に酷いことをした相手に対して仕返しをしたというのなら、例え犯した行為が社会的・法的に許されないことであっても、まだそこにはかろうじて正義も正当性も残る。
そこには「人間を信じられるか」という問題に対するかすかな救いがあるだろう。
弱い立場の女性に残酷な仕打ちをする、ましてや殺めるなどということは男として断じて許容することはできない。
保険金殺人が死刑に値する犯罪なのは当然である。
C子さんが行方不明になる直前について
次の章は「昭和五十四年三月某日——渋谷・東急イン」という題名である。
ここでは1979年3月にC子さんが行方不明になる直前のことが書かれているが、この著書で三浦はC子さんがアメリカへ行くつもりであることは知っていても、アメリカに向けて発った日にちは知らないことになっている。
マスコミはC子さんが正式に離婚した日は昭和54年3月20日と報じているらしく、彼はこの電話があったのはその前々日か前日だっただろうと述べている。
そして、彼はその日のうちに彼女のいるホテルへ行ったと述べているが、その時のことを次のように記している。
M子さんというのはC子さんの姉であり、最初に彼にC子さんを紹介した人である。
あくまで僕の個人的な見解であるが、この部分の記述に関してはほとんど彼の作り話である可能性が高い。
それまであまりアメリカに縁がなかったであろうC子さんが急にアメリカへ行くと言い出すのは不自然だし、そのためにわざわざ彼に400万円以上の借金を頼んで彼が簡単に了承したというのはあまりに出来過ぎた話ではないか。
C子さんは実際にアメリカへ行ったが、彼がC子さんに何らかの指図をしてそうさせた可能性がある。
彼が犯人なら、わざわざアメリカで決行したのは、日本よりアメリカのほうがいろいろな意味で事件が発覚する可能性が低いと計算しての行動であっただろう。
実話の場合、その話が信憑性が高いかどうかは具体性を持ったその状況に特有の何かがあることが重要なのだがそれも見受けられない。
彼がC子さんとのこの経緯を創作しなければならない理由は十分ある。
彼は報道されている否定しようのない事柄に関しては事実だと認める一方、C子さんとの関係など第三者が事実かどうか確認しようのない事柄に関しては平気で嘘を言い、巧みに話を作って無理矢理つじつまを合わせているような印象を受ける。
もちろん僕個人の感想であるが。
彼がこの部分を作り話にする理由は十分ある。
C子さんが日本を発ってアメリカに入国した日付は記録で明らかになってはいるものの、彼女がいつ死亡したかについては明らかになっていない。
検死の結果、推定でおおよその死亡した時期はわかっていたとしてもである。
彼女の遺体の身元が確認されたのは行方不明からおよそ5年後の週刊紙の連載が始まった年で、ロス疑惑の報道が過熱していたと思われる時期である。
だから、その後ニューヨークのM子さんのところにも記者は取材に行ったであろうから、M子さんから当時の事を聞いた時、彼女はC子さんは自分の所に来なかったし、連絡もしてこなかったと答えたのだと思う。
しかし、1984年にロス疑惑が報道されていた時点でC子さんの遺体の身元が特定され、いつ頃死亡したかの見当はついているから、C子さんがM子さんの所に行けなかったのも連絡できなかったのも当然である。
それではなぜ彼がこの話をでっち上げる必要があったのかというと、仮にC子さんと姉のM子さんが絶縁状態になっていて、C子さんが行方不明になっているにも関わらずM子さんが4年以上C子さんの消息を突き止めようとしなかったのが彼の言うように事実だとしても、彼とC子さんの関係を知っていた人間から彼のところにC子さんの消息を聞きに来た人間が少なからずいたはずである。
だから、彼がC子さんの消息についてM子さんをはじめC子さんの知人に尋ねたという事実がなかったとしたら不自然である。
だから、彼がC子さんの消息を関係者に尋ねようとしなかった理由として、C子さんとM子さんが絶縁状態だったことを利用したのではないか。
三浦はC子さんに現金を渡したのはホテルで会った日の翌日だった気がするが、どこで現金を渡したのかははっきり覚えていないと話す。
百歩譲って仮に彼の話が本当だとしても、相当不自然である。
マスコミはC子さんが正式に離婚した日付は3月20日と公表していて、彼はC子さんから電話がかかってきてホテルへ行き借金を頼まれたのはその前日の19日か同日の20日だっだと話している。
そして、C子さんの口座に慰謝料が振り込まれた日は約1ヶ月半後の5月8日である。
彼女は慰謝料がいつ振り込まれるのかははっきりわかっていなかったかもしれないが、近いうちに振り込まれることは彼にも話していたらしいし、それほど近いうちに現金が手元に手に入る人間が400万円余りの借金を軽々しく人に頼むのも不自然だし、貸した額についてとぼけた事を言っているのも、C子さんの口座に振り込まれた慰謝料と彼が貸した借金の額がほぼ同額であるとの指摘に対する彼の苦し紛れの言い訳のように思われる。
彼がC子さんに最後に会ったのはC子さんに現金を渡したこの時らしいが、その後の彼女のことは知らないと言い、彼女がいつアメリカに発ったのかも知らなかったと言っている。
この引用の冒頭の預かり金とは彼の会社の預かり金のことである。
次の章で彼はC子さんとアメリカで接触していたとされる疑惑について反論している。
1979年3月27日から4月5日までの行動について
C子さんがアメリカに入国したのは1979年3月29日のことである。
そして、三浦が出張でアメリカに入国したのは同年3月27日で日本に帰国したのは4月6日である。
次の章は「昭和五十四年三月二十七日〜四月六日——LA→NY→LA」という題名で、さらに小さな章に分かれ、それぞれ次のようになっている。
「三月二十七日——シティー・センター・モテル」
「三月二十八日——サンタ・バーバラ」
「三月二十九日——サンタ・アナ」
「三月三十日——ダウンタウン」
「三月三十一日〜四月二日——ニューヨーク」
「四月四日〜四月五日——ロスアンジェルス」
要するに、これらの章で彼はC子さんとロサンゼルスで接触していたとされる疑惑を晴らすべく、その当時の自分の行動について保管してあった伝票などの写真を掲載しながら詳細に説明している。
この著書のおよそ8割と思われるが、大部分はC子さんの事件に関係する記述で占められており、意外にもK美さんの事件に関係する記述は少ない。
あくまで僕の推測だが、それはK美さんの事件にはあまり謎の部分が少なく、主な論点といえば彼が「シロ」か「クロ」かしかなかったのに対して、C子さんの事件に関してはまだ究明すべき謎が多く残っていたことと、遺体の身元がC子さんであると確認されたばかりで新しい嫌疑が彼にかけられ、世間の人々にとっても新鮮なネタだったという側面があったのかもしれない。
彼はその世間の人々の関心に合わせるようにこの著書を書いた面もあったのではないか。
彼は度々マスコミに対する愚痴とも取れる発言をしている。
そして、彼はその出張の間の行動について語っていくのだが、それはほとんど彼が普段アメリカに買い付けに行った時の行動を書いているだけで、それと同じような行動をしていたと主張し、そう書くことでC子さんの事件とは無関係だったことを強調している。
そして、一つのエピソードを次のように書いている。
この寿司屋の店員が語っている「部屋に呼びつけてなにやら物騒なことを依頼した」のが殺人などの犯罪だったのかはわからない。
彼はこの店員が記者に語ったという「完全犯罪」のことを話したことは否定していないが、軽い世間話だったと主張している。
この店員が発言していることは証拠がある訳ではないし確かめようがないが、すべて否定しなかったのはあまりに何もかも否定していてはかえって怪しまれるという計算からなのだろうか。
彼はミステリー小説好きと自ら語っているが、もし彼が一連の事件を決行したとするなら、刑務所で読んだであろうそれらの小説の内容が彼が行った犯罪の手口に多かれ少なかれ影響したと考えられる。
しかし、彼は「物騒な依頼」に関しては否定している。
口で言っただけの事は証拠が残るわけではないため、後になっていくらでも言い訳が効くものである。
彼がロサンゼルスにたくさんガールフレンドがいたと語っているのは、M子さんと結婚していた時なのかK美さんと結婚していた時なのか、あるいはその両方なのかはわからないが、彼の女性に対する不誠実さはこの著書の至るところに現れており、普通の結婚生活を送っている方々には見せられないような内容である。
僕が引用した以外にも女性との関係についてたくさん書かれているが、彼の個人的なそういう女性との関係はあまり事件や疑惑の本質とは関係ないため、必要以上に触れないようにしている。
続いて彼はこの出張当時に取引先から送付されてきたビジネス・レターという証拠を提示しながら、買い付けのために取っていた行動を長々と説明している。
彼が言いたい事は、要するに、マスコミの報道ではC子さんがロサンゼルスに入った3月29日にロサンゼルスの空港で待ち合わせたのではないかとされているが、その日、彼はロサンゼルスから遠いサンタ・アナという街まで買い付けに行っており、もしその日にC子さんとロサンゼルスで待ち合わせていたなら、わざわざサンタ・アナまで行くはずがないということである。
C子さんの遺体はロサンゼルス郊外でビニール袋に入れられた状態で発見された。
彼がこの事件の犯人だとするなら、C子さんを殺害する機会はC子さんがロサンゼルスに到着した3月29日か翌日の30日のニューヨークへ発つ前までしかなかったことになる。
彼が3月31日にニューヨークへ行った事実を認めているのは、ロサンゼルスからニューヨーク行きの便に搭乗した記録が彼の買った航空券の情報などから残っているためと思われる。
それに彼にはニューヨークへ行ったことを否定する理由もない。
彼はロサンゼルスからサンタ・アナまでレンタカーで移動したと言っているが、彼自身サンタ・アナからニューヨークまではレンタカーでその日のうちに戻れる距離だと言っているので、彼がその日サンタ・アナまで行ったのが事実だとしても、それが重要な意味があるとは思えない。
C子さんと接触するのは翌日の30日にも可能だったのだから。
断っておくが、僕はこの事件に関する情報を詳しく調べた訳でもなく、多少のネットの情報とこの著書に書かれている記述を頼りにこの記事を書いているので、僕の書いている内容におかしな点があるとすれば申し訳ない。
間違っている点などがあれば是非ご指摘いただきたい。
次に彼はある人物の証言に対して反論している。
彼はこう述べてこの会社の領収証のコピーの写真を2枚掲載しているが、それは3月30日以降の領収証なので、そこに重要な意味があるとは思えない。
重要なのは、彼がこの会社で3月30日に初めて航空券を買い、従業員が「当日になってあわただしく国内航空券を買い求めたのが印象的だった」と証言しているのが不審だという点である。
また、彼はこの3月30日に買ったアメリカの国内線の航空券のコピーの写真を載せている。
この航空券は、ロサンゼルス→ニューヨーク→モントリオール→ロサンゼルスというルーティングの航空券らしいが、僕にはこの著書に書かれていない不審な点を一つ指摘できる。
彼がこの航空券でカナダのモントリオールへ行こうとしていたということである。
彼はわざわさこんな事を言っている。
航空券をあわてて買ったのもモントリオールへ行こうとしたのも、一つの仮説が立てられる。
もし彼がこの時すでにC子さんに手をかけた後だと仮定するなら、犯罪者の心理として現場から遠い場所へ逃げたいという衝動が働くはずである。
もしC子さんの遺体がすでに発見されていたら、警察は犯人を探し回っている。
カナダならアメリカの警察の管轄外だから追って来ないのではないか。
そう考えて彼はニューヨークからモントリオールへ飛ぼうとした。
しかし、カナダに入国する際に入管に警察から事件に関する情報がすでに入っていて逮捕される可能性がある。
日本に帰国するにしても同じである。
警察がC子さんと関係のある人物の出入国記録を調べ、C子さんが入国した直前直後にアメリカを出入国した関係者がいれば当然怪しまれる。
そう考えた彼は、モントリオールまでの航空券を持っているにも関わらず、モントリオールへは行かないことにし、ニューヨークからそのままロサンゼルスへ戻ったのではないか。
しかし、彼は3月30日に航空券を買った時点ではそこまで頭が回らなかった。
事件を起こしたばかりで多少パニックになっていた面もあったかもしれない。
ここまで書いたことは、あくまで僕の推理である。
キャッシュカードでの現金の引き出しについて
次の章は「昭和五十四年五月——三菱銀行渋谷支店」という題名である。
5月8日にC子さんの口座に慰謝料が振り込まれた銀行が題名の銀行である。
この章の冒頭で三浦はC子さんからキャッシュカードを受け取った経緯について書いている。
C子さんがこのキャッシュカードをわざわざアメリカから送ってきたと言わなければならない理由は次のように推察される。
C子さんはアメリカへ行っていて、彼は5月8日に口座から現金を引き出している。
彼女が彼にキャッシュカードを渡したとするなら、渡した日は彼女がホテルで借金を頼んだ3月19日または20日から彼が口座から現金を引き出した5月18日までのいずれの日しかない。
彼女がまだ日本にいた時に渡せるタイミングはあった。
しかし、彼女がもし事件に巻き込まれないとするならば、彼女が彼にキャッシュカードを渡すタイミングはいくらでもあるはずである。
彼女がアメリカにずっと留まるのだとしたら、アメリカから送ることも、彼がアメリカへ行った時にも渡すこともできた。
彼女が日本に戻ってくるなら、なおさらいつでも渡すことができた。
だから、彼女がアメリカへ発つ前にあえて彼にキャッシュカードを手渡しておく必要はない。
しかし、真実は彼がキャッシュカードを手にしたのは彼女とアメリカで接触した時だった。
しかし、C子さんが死亡したのはアメリカへ渡った直後だということが検死の結果わかっているから、それ以降に彼にキャッシュカードを渡すのは不可能である。
だから、彼はわざわざ彼女がアメリカにいるタイミングでアメリカから送ってきたと言う必要があったと思われる。
彼はこの著書で先の出張から日本に帰国した直後には彼女からキャッシュカードの入った封筒が届いていたと述べている。
彼が最初に口座で金を下ろしのは、この後のアメリカ出張から帰ってきた日の翌日の5月18日である。
慰謝料が振り込まれた5月8日には彼はアメリカにいた。
彼はこのように書いていて、これがいつだったかについては記述がないが、素直に考えるなら5月18日のことであろう。
キャッシュカードの件に関しての彼の弁明は苦しさが目立つ。
彼はキャッシュカードが入っていた封筒に何かのロゴが印刷されていたという事実を書いているが、著書の記述から推測すると、キャッシュカードは彼の会社に送られてきたために彼の社員がその封筒を目撃していて、その封筒にロゴが印刷されていたと証言していたと思われる。
しかし、三浦がキャッシュカードを自分の会社宛てに送っていないとすれば社員が目撃することはない。
この点に関しては、彼は犯罪の重要な物的証拠であるキャッシュカードをアメリカ出国時に所持しているのは危険だと判断して、自分でアメリカから会社に送り、社員がその封筒を目撃し、証言していた可能性がある。
あるいは、社員がキャッシュカードが入った封筒ではない無関係の封筒を例のキャッシュカードが入った封筒だと思い込んで警察やマスコミに証言したが、三浦にとってそれが都合が良かったために、彼がその情報に合わせて嘘を言った可能性も考えられる。
しかし、著書から推測できることはそのぐらいである。
K美さん殴打事件について
次の章は「昭和五十五年八月——LA・ホテル・ニューオータニ」という題名である。
ここまでくると、三浦が一連の疑惑を少しでも晴らす狙いで書いたと思われるこの著書でさえ、相当きなくさい臭いがしてくる。
彼がこの章でK美さん殴打事件について触れているということは、この事件に関しても彼に疑いがかけられていたということである。
しかし、この著書は彼が殴打事件の容疑者として逮捕され、拘置所に収監される年の前の年に書かれたものである。
彼の恋人Yがまだ新聞上で彼の犯行を匿名で告白する前であり、まだYという人物がマスコミの報道に登場していなかった可能性がある。
しかし、彼はYに関してはこの著書の後半で実名で触れているので、マスコミもこの著書が切っ掛けで知るようになったのかもしれない。
あるいは、マスコミが三浦の当時の恋人がYであることを知っていた可能性もある。
いずれにせよ、彼はこの著書を書いている時点でYが事件について告白するなどとは考えていなかっただろう。
続いて、彼は自分が加入した保険のことについて触れている。
彼は保険に関する情報はマスコミに握られているために触れなければかえって怪しまれるような気がしたのか、それとも開き直ってこのように堂々と書いているのか知らないが、何か隠し事がある人間が饒舌になる心理に似たものがあるような気がした。
彼とK美さんは1980年(昭和55年)12月から翌年1981年(昭和56年)1月までアメリカに正月旅行に出かける。
これがK美さんにとって初めてのアメリカ旅行だった。
彼はここでマスコミが彼とK美さんが夫婦仲がうまくいってなかったとしている報道を、K美さんから当時送られてきた手紙や自分が彼女に書いた手紙を転載して反論している。
しかし、手紙は写真を掲載しているわけではないため、内容についての真偽は定かではない。
やがて夫妻の間に子供が生まれる。
ここでも彼は保険のことに触れている。
彼が自分たちが加入した保険のことについて触れるのは、考えてみれば当時のマスコミの報道で彼が入った保険の情報について多く報道されていたに違いないから、このようにさらっとでも触れておいて、保険に加入した理由を簡単にでも述べておかないと返って疑いが強まるとでも考えたのかもしれないが、この期に及んでは彼の疑惑という焼け石に水のような気がする。
彼はK美さんとこの年1981年(昭和56年)の8月12日、再度ロサンゼルスへ出張を兼ねた旅行へ行き、K美さんが事件に遭う。
K美さんは自分でブティックを開きたいという夢を持っていて、その夢を実現させるための準備として彼女の勉強も兼ねた旅行であったという。
中国系の女がしきりに彼にチャイナドレスを売り込んできたが、その女に自分の泊まっている宿のカードに名前と部屋番号を書いて渡して別れたが、その女から何度も部屋に電話がかかってきたと語る。
K美さんはシンガポールへ行った際、チャイナドレスを見て自分も作りたいと思っていたという。
それで彼は中国系の女とK美さんをホテルの部屋で会ってもらうことにする。
相手が男性であれば自分の妻と部屋に二人だけにしないと思っていたが、相手が女性だったので二人だけで会うことに安心していたという。
彼がK美さんと泊まっているリトル東京のホテルニューオータニの1階のカフェで仕事仲間と話をしている時にK美さんから電話がかかってくる。
彼は事件の一部始終をこのように書いている。
その場にいたビジネス関係の知人や医療関係者などは警察やマスコミに事情を話している人間もいただろうから、彼がそれに関して書いていることは事実に近い可能性は高いが、あとは創作の部分が大半に違いない。
彼はこの事件で実際に殺人未遂を首謀したとして逮捕され、有罪判決を受け服役しているのである。
この著書では彼は事件に関与していないという設定になっているので、彼と中国系の女が面識がなかったなど、根本的なところから事実と違っている。
しかし、彼は厚顔無恥も甚だしく、事件への関与をはっきり否定している。
そして、事件があった直後に撮ったK美さんの写真を掲載し、こう述べている。
銃撃事件について
次の章は「昭和五十六年十一月十六日——LA・ダウンタウン」という題名である。
三浦はこの章で疑惑が発覚する切っ掛けとなった、1981年(昭和56年)11月18日に遭遇したとされるロサンゼルスでの銃撃事件について述べている。
彼はこの章の前半部分でも保険のことについて触れている。
おそらくこの保険に関しても、ロサンゼルスへ渡航する前日に加入していることや保険の種類が「旅行者障害保険」だったことも不審な点としてマスコミに取り沙汰されていたのだろう。
生命保険に加入するには健康であることなど条件があるが、K美さんが死亡したのは不慮の事件に巻き込まれてのことである。
保険会社は顧客の病気には神経質でも事故や事件に関しては不審に思わないのだろうか。
不審に思ったとしても調査する権限がないから仕方ないのであろうか。
警察はこの保険金加入に関して知らなかったのか、または知っていても不審に思わず、あるいは不審に思ったとしても彼を容疑者とする十分な証拠がなかったからそれ以上捜査しなかったのだろうか。
警察がこの事件に関して本格的に動いたのは週刊誌に疑惑が取り沙汰されてからである。
事件がアメリカで起こったために捜査が難航したと言われている。
第一、捜査するにも警察関係者が現地に飛ばなければならないし、アメリカの警察関係者と意思疎通するにも英語を理解し話せる人間が必要である。
僕には警察がこの事件に関して疑いを持っていたとしても、当初、捜査に消極的だったように思えてならない。
しかし、週刊誌で疑惑が取り沙汰されてからマスコミで報道され、世間の人々の関心が高まってからやむを得ず重い腰を上げざるを得なかったように思える。
日本の警察にとっては、当初、この事件の容疑者を躍起になって探さなければならない理由などなかったのである。
しかし、週刊誌の出版社にしてみれば雑誌が売れることで利益がもたらされる。
だから、記者が現地に飛んだり、様々な人間から証言を得たり、証拠を集めたりという泥臭い作業もできた。
いっそのこと警察の捜査を週刊誌の出版社に任せたほうがいいのではないかと思えるほどである。
彼はTシャツのデザインとして使用する素材としてパームツリーを被写体として写真を撮るため、彼の車に同乗するK美さんに写真を撮ってもらっていたらしい。
そして、例の事件現場の駐車場の側に立っているパームツリーを撮影するため、そこに車を停める。
彼は現場での出来事についてこう書いているが、犯人だと疑われている立場の彼が書いた記述でも惨たらしさに目を背けたくなるような当時の状況が頭に浮かんできて、文章を書き写しながらも嫌な気分になった。
この後、K美さんが運ばれた先の病院での様子についての記述があるが、それをあえてこの記事に書く意味もあまりないと思われるため、触れないでおく。
K美さんは米軍のヘリコプターで日本の横田基地へ運ばれ、そこからまたヘリコプターで神奈川県にある東海大病院へ運ばれる。
彼はこの出発の当日にも不審極まりない行動をしている。
ロサンゼルスへ発った1981年(昭和57年)11月17日に夫妻の娘であるY子さんの住民票を彼の実家のある相模原市へ移していたのである。
要するに、当初は渡航中だけ娘Y子さんを彼の実家に預かってもらう予定だったが、彼が事件に遭遇して負傷してしまったために当分の間預かってもらうことにした。
彼の父親がY子さんの住民票を移したのは、地元の保育園に入園させるために住民票を移す必要があった。
父親は翌年1982年(昭和57年)1月に転居届けを出しに行ったが、区役所の職員にY子さんがいつから住み始めたのかと問われ、1981年(昭和56年)11月17日と答えたところ、住民票においてはその日から住んでいることになったという。
娘Y子さんの住民票を移したのは保険金の相続の関係のことであろうが、もしこれが嘘だとするなら、僕などはよくこんな上手い作り話をでっち上げられるものだなと感心してしまう。
しかし、当時の彼にとっては嘘をつくことは生きることでもあったわけである。
嘘は勿論良くないことだが、彼の嘘をつく才能は見事だと思わず認めざるを得ない。
この才能を他の何かに活かせなかったのかと思ってしまう。
K美さんは1982年(昭和57年)11月30日に亡くなるが、彼女に対する同情のほうが大きく、彼が悲しんで泣いたことに関する記述なども全然頭に入ってこない。
悲しいのはK美さん自身であり、彼女の親族や友人のはずなのだから。
K美さんの死後について
次の章は「昭和五十九年二月——東京」という題名で、最後の章である。
ここではK美さんが亡くなった後から疑惑が始まった年までのことが書かれている。
題名にある昭和59年(1984年)という年は週刊文春の「疑惑の銃弾」の連載が始まった年であり、この著書が執筆された年である。
この章の冒頭はこう始まる。
しかし、三浦は恋人Yのおかげで自殺を思いとどまり、疑惑の渦中、Yと行動を共にするようになったと語る。
彼は当時交際していたYにかなり助けられたと言っているが、結婚については次のように述べている。
Yと交際した時はK美さんが亡くなってから1年も経っていなかっただろうから、彼は常に何かと女性に世話してもらわないと気が済まない性格だったのだろうか。
しかし、彼はある日、叔母にこう言われたらしい。
名前は出していないが、この叔母は水の江瀧子さんと思われる。
昭和58年(1983年)はロス疑惑の報道が始まる年の前年で、彼が記述したことが本当だとすると、ロス疑惑の前から叔母との交流があったことになる。
この著書が書かれた当時はすでに彼の叔母が水の江さんであることが発覚していたから、このことについて軽々しく嘘はつけなかったにに違いない。
なぜなら彼がこの本を刊行した後、マスコミが水の江さんにこれが事実かどうかを確かめに行く可能性があったからである。
彼はこの叔母の言葉もあってYとの結婚を意識するようになるが、そんな中、C子さんの姉のS・M子さんが彼が新しく建てた家を訪ねてくる。
彼の会社はロス疑惑が始まった年に廃業せざるを得なくなったという。
この章の最後にこう記している。
マスコミに対する見解
著書の最後は「おわりに」という題名で、主にマスコミに対して意見を述べている。
そして、三浦は事件の動機と言われている金銭目的ということをきっぱり否定する。
彼はさらにマスコミに対する不信感を書き連ねる。
僕はテレビ業界については詳しくないが、1,000万円から2,000万円の出演料を打診されたということが本当だとすれば、大物芸能人よりはるかに高い額なのではないだろうか。
彼はここで著作や報道による名誉毀損に関しての法改正を訴えている。
ネットの情報によると、彼は一連の報道に関してマスコミに対する476件の名誉毀損訴訟を起こし、その8割で勝訴したと主張しているようである。
現在の報道では逮捕や連行の際に容疑者の人権に配慮して警察がシートを被せたり、報道機関が放送する場合、手錠にモザイクをかける処置が施される。
これは1985年9月に三浦が逮捕された際、手錠と腰縄をつけた姿を報道陣に撮影された彼が「判決が確定していない容疑者を晒し者にする人権侵害だ」として提訴し、勝訴したことがきっかけとなったという。
彼が社会に貢献したものがあったとするなら、このことだったのではないだろうか。
彼はマスコミの取材姿勢をすべて否定しているわけではなく、一部に対しては評価しているようである。
あとがき
僕がロス疑惑の一連の事件やこの著書について興味を持ったのは四つの要素があったからであった。
一つは、三浦の経営者としての側面である。
彼自身が謙遜して「零細企業」と言っているように確かに大きな事業を営んでいたわけではないが、経営者としての彼の人物像は僕にとっては憧れを抱くようなものだった。
僕自身も一時彼のような事業を営むことを夢見ていたこともあって、当時この著書から自分にとってプラスになる材料を少しでも吸収しようとしていたのかもしれない。
もう一つは、彼の女性との関係である。
彼が疑惑をかけられた女性とどのように交際し、どのような心境の変化があったのかなどを著書から汲み取ろうとしていた。
彼は自分の恋人や妻に対してどのような気持ちを抱いていたのか。
事件とは別の次元での男女の関係である。
もう一つは、犯罪者の心理である。
彼が事件を起こしたのなら、そこに至るまでの過程で何がどのように彼の心理に影響を与えたのかなどである。
そして、もう一つは、「謎解き」である。
被害者のいる事件に関してこう言うのは不謹慎かもしれないが、それを承知であえて言うなら、人間は解決された事件に関しては「面白くない」と思って興味を示さないが、未解決の事件に関してはあたかも自分が刑事や探偵の一人になったように推理し、解決することに自己満足のような感情を抱く傾向がある。
この四つの要素は多くの小説や映画などのテーマにもなっているもので、下世話な言い方をすれば、これらを扱えば「売れる」とされる要素とも言える。
彼が嫌疑をかけられた一連の事件は、そうした小説や映画の物語を地でいくような要素があった。
ロス疑惑がこれほどマスコミに大きく取り上げられ報道された理由は、それが大きかったと思う。
彼が受刑生活の間に書いたノートから察すると、当時は心から反省して社会に出たらまっとうな人生を送ろうと決心していたように思う。
過去に過ちを犯した人間でも、後に立派な人間になる例は珍しくないのである。
少年時代に犯した罪を考慮したとしても、彼が出所後、事件を起こさずにまっとうに会社を経営して成功していたなら、僕は彼のことを尊敬できたかもしれない。
彼には立派な人間になるだけの素質が備わっていたと思うだけに残念なのである。
そういう意味で、僕にとって三浦和義という人間は良い反面教師になった。
バカな考えを起こして、自分の人生を棒に振ることのないように生きていこうと思った。
断っておくが、僕は事件に関しては裁判の結果や捜査当局の公式の発表を事実として採用するというスタンスでこの記事を書いた。
有罪が確定していない事件に関しては、「彼がもし犯人ならば」という仮定に基づいた書き方はしているが、彼を犯人だと断定した書き方はしていないつもりである。
事件で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。