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【最初の一杯】に手を付けない

アルコール依存症のななにいにです。
依存症の仲間の中ではいかに「最初の一杯」に手を付けないことが、依存症回復のかなめ石だと言われております。
なぜなら私たちは飲酒に対するコントロールを無くしてしまているので、一杯飲んだらそのあと大変なことになってしまうのです。
例えば、仕事終わりに一杯だけ赤ちょうちんで、焼き鳥でもつまみながら、一杯だけ生ビールをひっかけてから自宅に帰ろうと考えたとします。気づいたときには生ビールだけでなく焼酎や日本酒までも飲みだします。私の場合はその後キャバクラで散財する可能性も大いにあります。

繰り返しますが私たち依存症者は飲酒に対するコントロールを無くしています。言い換えればアルコールに対して「無力」なのです。
逆に、最初の一杯に手を付けなければ非常に充実した日常を送ることもできます。
たとえば昨日私は午前中妻子と電車で動物と触れ合える公園に遊びに行きました。その後、昼食をファミレスでとり、私は妻子を残して依存症の中間施設へ講義を受けに行き、夕方自宅に帰って、夜は近所の依存症自助グループに参加して早めに寝ることができました。その一日を過ごしている私はとても幸せで充実感を感じることができました。
たとえば、最初の一杯に囚われていた時はどうだったでしょうか。
動物と子供が触れ合っているのを見るだけでイライラしてきます。早くファミレスで酒を飲みたいからです。
ファミレスの開店時間が近づいても子供が遊具から離れないとイライラが募ります。早く酒を飲みたいからです。
公園からファミレスの道中はイライラして、せかせかして、妻子から10メートルくらい先を早足でちょこちょこ早く歩けと手招きして歩きます。早く酒を飲みたいからです。
さらに、ファミレスについてからも、酒に囚われているときに感情は穏やかではありません。
貧民にとっては高級品の生ビールをいかに妻を説得して注文するのかということに全集中力を払います。そこには倫理観も道徳心もありません。どんな嘘を使ってでも最初の一杯を注文する口実を考えまs。その点では国会の答弁を作成する官僚よりも、酒で脳みそが委縮しているアル中のほうが答弁の能力は高いかもしれません。
一杯の生ビールを注文してからも心は穏やかではありません。一杯飲んでしまうと「もっと飲みたい」という身体的アレルギー現象がアルコール依存症者には発生します。普通の人が持っている「この辺にしておこう」というブレーキが利かないのです。立てなくなるまでとことん飲んでしまいます。二敗目の注文を取ってもらえるようにあらゆる口実を考えることになります。「安い焼酎のボトルで飲む、そこそこ飲んだら持って帰るから」という言い訳は私はよく使っていました。二杯目、三杯目を注文させてくれなければイライラが爆発してファミレスでも大声で妻子を怒鳴りつけます。当然、メニューは子供向けメニューではなく自分が食べたいおつまみメニューをずっと検索していることなるでしょう。
念願のボトルをファミレスで妻子と飲んでいても心は穏やかではないでしょう。特に私は酒乱ですので酒を飲むと性格が変わってオオカミのように猛々しくなります。ちょっとしたことで怒鳴ります、テーブルをたたきます。妻子はおびえ、些細な抵抗をします。その態度に対して私はイライラして酒をさらに飲むのです。誰も幸せにはなれません。

私は断酒して四か月ですが、抗酒剤を飲んでおり、中間施設に通っているので酒を飲むことはできませんし、同時に酒を辞めようとしているので、妻子とファミレスにいって酒を飲もうという発想が一ミリもありませんでした。それは物理的に不可能だったからです。でもそれは大きな喜びでした。
「一杯の酒」に手をつけなければ、私にとっては感情が平安で、身体の調子も良く、周りに害を及ぼさないし、金も使わないということで良いことづくめとなります。

最後になりますが、依存症者にとって最初の一杯は命取りになります。手を付けてしまったら、最初の一杯を飲みたいという考えに囚われてしまったら、それは不幸への道を進むことになってしまいます。
そんなときにはさっさと自宅に帰って着替えてランニングするとか、へろへろになるまでサウナに入るとか(私はサウナ後のビールは苦手でコーヒー牛乳派です)、とにかく一杯の酒に手を付けない行動を取ることが大切です。
私たち依存症者は自己正当化のプロ集団ですので、あらゆることをkっ手に考えて自分を自分で騙して一杯の酒を飲ませようとします。私たちは自分で酒を飲んでいたことに変わりはないのですが、実際は自分によって「飲まされている」のです。

今日も飲まない一日を過ごせることだけを、断酒を継続している人たちの心に悪魔が取りつかないことを祈って一日を過ごしたいと思います。

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