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”特別支援”教育について、特別支援学級教員が考えてみた。

こんにちは。私事ですが、今日が誕生日です。
それを伝えると、子どもたちからバースデーカードが何通か届きました。
この幸せは特権だな。と思います。
祝ってくれた家族をはじめ、支えてくれる多くの人たちに感謝です。
今日は、”特別支援”教育について、特別支援学級13年目のMr.チキンが考えてみたことについて書きます。
現行の特別支援教育の限界を、特別ニーズ教育の観点から再考したいと思います。

子どものために行ってきた支援は、本当に子どものためになっていたのだろうか

今回、”特別支援”教育について考えるきっかけとなったのは、以下の記事でした。

通常学級で教鞭をとっていた教員が、特別支援学校へ転勤し、価値観が変わっていくという、とても興味深い記事です。その記事の中で、

そんなやりがいとともに、これまで自分が通常級で行ってきた実践に多くの疑問が湧いてきました。自分が当たり前のように努力を強いてきたことは、本当に正しいことだったのだろうか?子どものために行ってきた支援は、本当に子どものためになっていたのだろうか?と。

この一文は、特別支援に携わったことのある方ならではの実感だなと感じました。

Mr.チキンの支援を振り返る

私のある日の支援を振り返ってみましょう。

ずっと椅子に座ることのできていなかった一年生が、ようやく一時間授業を受けることができた。

という日がありました。これは私にとってはとても大きな一歩でした。「いやだよ!」と大声を上げる子ども。そしてものすごい勢いで教室を飛び出してしまう。そんな子が45分間座ることができたのです。ただ、家に帰ってから次のようなことを考えました。

あの子が教室の中にいられた45分間は、果たしてあの子にとって価値のある45分間だったのだろうか?

という問いです。
確かに、視覚支援が有効だったし、強化子となるご褒美カードも効果的でした。
でも、一方で、

その支援はその子のためだったのだろうか?それとも、授業者としての私にとっての都合良さだったのだろうか?

という問いが残ったのです。その点で、この記事の

子どものために行ってきた支援は、本当に子どものためになっていたのだろうか?と。

という文章にはかなり共感を覚えました。

”特別支援”教育は「何を教える」べきか

一方で、特別支援教育に対して感じる違和感は、ペースを落として通常級の学びを追いかけさせようとしているものが多くあること。人より後れていると認識させられながら2倍、3倍の努力で追いつけるように強いられるのは誰だってつらいはずです。優劣やスピードではなく、すべての人が学びを楽しめる環境をつくれないのか

先ほどの記事の中で、”通常学級の教育をメインストリームとすることへの疑問”が書かれていました。
つまり”何を教えるか”ということについて、特別支援教育は考える時期になっているということでしょう。
この点について、ユネスコの「学習権宣言」と「国際障害者年行動計画」を読み解いてみましょう。

学習権とは読み書きできる権利であり、疑問をもち、じっくりと考える権利であり、想像し、創造する権利であり、個人および集団の技能を発達させる権利である。

ユネスコ「学習権宣言」(1985年)より抜粋

この宣言から考えられることは、

  • 現行の通常学級のカリキュラムが、学習権を保証するに足りているのかという疑問

です。通常学級のカリキュラムは一斉指導を基に考えられています。系統だった指導は効率的に集団を指導することに適していますが、個のニーズをくみ取り、きめ細やかな学習権の保証を行うことには適していないのかもしれません。
さらに、国際障害者年行動計画では、以下のことが述べられています。

障害者は、その社会の他の異なったニーズを持つ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的ニーズを満たすのに特別の困難を持つふつうの市民と考えられるべきなのである。

国際障害者年行動計画(1980年)より抜粋

特別支援教育を充実させるということは、人間的ニーズを満たすための方策に幅をもたせるということになるのです。

特別支援教育と呼んでいるのは日本くらい?

文科省は、特別支援教育が始まった当初は英訳を”Special Support Education”としていました。現在では”Special Needs Education”としています。多くの国では、”Special Needs Education”を採用しています。現行の特別支援教育は”支援”が先行しるため、個のニーズを汲み取るという過程が疎かになっているのかもしれません。
自戒の意味を込めて、気を付けなければいけないところです。
では、またね~!

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