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欲求と無関係な時間の進み

先週から身体の重い日が続く。1日のオフを挟んでもコンディションが完全に戻らない自分をみつめて、つくづく回復スピードが遅くなったと感じる。一方、日々の練習は通常通り行われ、仕事も決まった通りの時間に労働力を提供する日々が続く。今この瞬間の己の欲求とは異なるペースで続く日々、少々生活スピードを落としたいところだと思うときもある。ま、叶わない希望だね。今の状態は、将来望む姿から逆算して自分の行動に制約をかけているから生じている。原因は未来で結果が現在。そういえば、短い針と長い針から成るような時計は、物理的に過去から未来に向けて時間が流れるように見えるので、原因は過去で結果が未来という風に誤認しやすい。いや、世間一般的には原因は過去で結果が未来、と当然のごとく捉えられているのかな。これは人間の意志を軽視した価値観だと思う。過去の出来事が現在の自分を規定するのではない。自分が望む将来の姿が、すなわち現在における己の意志が、現在の状態を決めるのである。このように考えた方が、人間の可能性を信じることになるだろう。ま、人それぞれの価値観だからね。どちらを信じるのかは個人の自由だ。したがって、自分がこのような価値観を有していることは、異なる価値観を否定していることにはならない。他人の生活を脅かさない範囲で、個々人が生きやすいように各自思想を形成するべきだ。話しが逸れたけれど、自分が必要だと認めたスキームに沿って生活を組み立てているのだから、一時的な疲労は気合で乗り越えるしかない。こういう時は、将来望む自分の姿を想像することにより、今この瞬間の己の意志を固定しにいくアプローチをとる。ブレないように。必ずリターンが待っているはずだ。


自らの行動パターンを縛ることで得られるリターンというのは確かに存在する。自分でいえば、食事においてグルテンを99%カットすることによってクリアな頭と安定したメンタルを手に入れられた。行動に制約をかけることでリターンを得られたわけだ。このように書くと、じゃあ将来のために現在を我慢すればよいってこと?という論点をよく耳にする。この考えは、将来の時間より現在の時間の方が相対的に価値が高い、という観点を忘れていると思う。将来は不確実性が混ざり込んでいる分だけ価値を割り引かれて測られる。一方で現在は可能性が実現した状態の連続であるのだから、不確実性はない。将来は現在と比べて不確実性の分だけ価値が下がるという理屈だ。「いつ死ぬか分からないのだから今を精一杯生きよう」というセリフは実にど真ん中を捉えた表現だと思う。将来のために現在を我慢すると考えるならば、将来のために現在を我慢する前に、そもそも目指すに値する将来なのかをよく考えた方が良いと思う。目指すに値する将来であるならば、我慢という発想は浮かばないはずだよな、と考える。

いつものように自分勝手な主張を書いてきたけど、もっと成果を出してから言えよ、という批判は真摯に受け入れる。全くもってその通りだね。いや、全くもって正しいご意見だと思う。

写真はイスタンブール。コロナ禍で外を歩けなかったので、色々と落ち着いたらゆっくりと行きたいな。



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