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やさしくなりたい

わたしは心の弱っている人に好かれやすい。
昔からそうだった。
いじめられている子に求められて取りこまれ、一緒にいじめのターゲットになることもあったし、社会に出てからは会社で居場所のない人の相談役だった。
SNSを始めたら鬱を患っている人から懐かれるようになったのは、当然のことと言える。

直近では、鬱を患う年上の女性に大変に好かれていた。
好きです、ファンです、いつか会いたいです。そうした甘言に自分も調子に乗ってしまったところがあり、頻繁に来るTwitterのリプライやDMにもせっせとお返事した。
鬱のほかに複雑性PTSDを患うきっかけになったヘヴィーな経験を打ち明けられ、彼女の不遇に涙したりもした。

でも、気づけば自分の貴重な時間のほとんどが彼女との関わりに費やされていた。
彼女は無職であるようだけれど、わたしには家庭も仕事もあり、趣味も収益化できるようになってきたところで、率直に言えばとても忙しい。

特に急ぎでもない、タイムラインに流せないような情報を含むものでもない、とりとめない彼女の近況が時節の挨拶含めて長々と送られてくるたびに、作業を中断しなければならないことに疑問を感じ始めた。
リプライやDMやサイトのコメント等合わせて、お返事の必要なリアクションが1日最大5・6件ともなると、1日の何割かを彼女のことを考えて過ごさねばならないわけであった。
わたしが投稿している作品には彼女のコメントだけがずらりと並ぶようになり、以前からのフォロワーの方々が気後れしているのを感じるようになった。

ちょっと、密度が、濃すぎる。

息苦しさが日増しに顕著になり、夫にも相談してみた。
「その人、躁鬱なの? それだったら、もずくと話しているときだけ躁になっているのかもね」と言われてハッとした。
それは依存と何が違うのだろうか。わたしは精神科医でもカウンセラーでもセラピストでもない。
頼られすぎて何かあっても責任を持てない。重荷すぎる。

しかし彼女は心を病んでいる。
突然不自然に距離を置き、鬱が悪化したら一大事である。扱いを間違えてはいけない緊張感がわたしを悩ませた。
「ちょっと忙しくてしんどいです」「10分でも時間がほしい日々です」と彼女へのお返事に書いてみた。何も変わらなかった。人は好きな相手に「忙しい」などと言わないものだが、そうした機微は通じなかった。

とりいそぎ長文DMを連日送りつけることだけはやめてもらう必要があった。
でないと、自分の時間が削られるばかりか、彼女の闇に引きずり込まれてしまいそうな怖さを感じていた。
結局、直接的な言葉で伝えるしかなかった。
「火急のご用件でないかぎり、リプライでさくっとご連絡いただけるとお返事がしやすいです」「仕事中にお返事の必要なご連絡が来ると、うまく時間をやりくりできなくなってしまって……」
いたずらに刺激しないように、彼女を嫌いなわけじゃないことが伝わるように、ていねいに書き綴ったDMを送った。

どこまで伝わったのだろう。
今、彼女はまさに「適切な距離」をとってくれている。
DMは来なくなったし、以前はすべてにリアクションしていたわたしのつぶやきもほどほどにスルーしてくれる。それでいて、たまに話しかけてくれる。ごく短文で。

これでよかったのだろうかと、時折ふと思う。
結局のところ、わたしは彼女と友達になることを拒んでしまったのだ。
ちょっとtoo muchではあったけど、いい人には違いなかったのに。距離感さえ間違えないでくれたらよかっただけなのに。
無垢な対象を傷つけてしまった手触りは、思いのほか自分の心を濁らせている。

こんなことで悩まなくてもいいように、もっとやさしくなりたい。
もしかしたら今頃誰か他の人にとりついているかもしれない彼女の投稿に、わたしはそっと「いいね」を押す。

LAVAの解約をめぐって傷ついた心と疲弊した体を癒すため、有意義に使わせていただきます。