見出し画像

「医師アタマ」に翻弄される患者

午前中往診先で状態の悪い在宅患者さんを病院へ救急搬送した後、診療所に戻って休憩していた私に1本の電話が入った。
先ほど病院へ搬送したばかりの80代のLさんの娘、Mさんからだった。
Mさんは泣きじゃくっている。
どうやら救急搬送先の病院でA医師から検査結果の説明を受けている途中にパニックになり、「信頼できる医師と話がしたい」と言って私に電話してきたようだった。

Lさんは長年難病を患い、Mさんは仕事をしながら献身的に介護してきた。
Mさんは母の病や老いをなかなか受け止められず、在宅で関わる専門職チームともたびたび衝突したが、私は往診の度に時間をかけて彼女と話し合ってきた。
付き合いは10年近くになる。
Lさんは痩せて寝たきりに近い状態ながら、休日はMさんが外に連れ出したり好きなものを一緒に食べたりと、母娘で楽しく時間を過ごしていた。
MさんにとってLさんは大切な母であり、たった一人の家族。
入院にあたり、Mさんは今後もできるだけ長くLさんと自宅で一緒に暮らしたいと熱望していた。
そのためにLさんの積極的治療を希望していたし、私もその希望を病院へ伝えていた。

私はMさんにA医師に電話を替わるようお願いし、A医師から病状を聞いた。
Lさんはいわゆる誤嚥性肺炎を起こしており、肺炎が悪化すれば人工呼吸器を使用しないと救命できない可能性がある。
話を聞く限り、A医師の考えは間違ってはいない。
ところが、初対面で彼女達の背景を何も知らないA医師は、やせ細ったLさんの見た目と検査結果から「Lさんはこれだけ全身状態が悪いから、人工呼吸器などで積極的治療する意味が無い」とMさんに淡々と説明したようだった。
救急外来の外の廊下で、腕組みをしながらどストレートに。
理解に多少時間のかかるMさんはA医師の説明をどう判断して良いかわからず、治療をしてもらえないのかと不安になり、私に助けを求めてきたのだった。

一般的に「積極的治療」には「人工呼吸器管理」が含まれる。
肺炎の治療に際し「人工呼吸器を希望する・しない」は必ず確認する項目だ。
衰弱した高齢者にとって人工呼吸管理は体の負担が大きく、人工呼吸器は希望しない人が多いし、Lさんもしない方が良いことは私も理解できる。
ただ、救急外来での初対面の印象でさっさと見切りをつけて、治療を始める前から全ての治療を放棄するかのような説明をしたA医師に私はモヤモヤした。
Lさんは前日までご飯を食べていたし、会話もしていた。
そんな家族の治療を「そうですか」と簡単にあきらめられる人なんていない。
私は電話しながら、正直「A医師が、ちゃんと家族とコミュニケーションを取ってくれよ」と思ったが、たまたま時間が空いていたので徒歩5分程の病院に行き、一緒に話しましょうかと提案し、雨の中急いで病院の救急外来へ向かった。

救急外来でまずA医師に会い、検査データを見せてもらいながら見立てを共有する。
抗生剤等の点滴で回復する可能性が十分あること。
肺炎が悪化し人工呼吸器を使用した場合、呼吸する筋力が落ちて呼吸器を外すことができずに寝たきりとなるであろうこと。
肺炎が回復した後は食事を全量口から食べるのは難しく、長く生きるためには胃ろうを作った方が良いこと。
私からA医師へは、Lさん達の家族背景等を説明し、MさんはLさんの回復を心から願い治療を希望されていることを伝えた。
ただ、万が一人工呼吸器が付いたまま自宅に帰ってくるとなると、介護のためにMさんが仕事を辞めなければならない。仕事を辞められないMさんにとって、自宅退院の希望とはそぐわない結果になるであろう懸念も伝えた。
Mさんへは、私から改めて病状を説明することにした。

現れたMさんは泣きじゃくり、A医師に怯えている。
私から彼女に分かりやすいように検査結果を伝え、治療の選択肢と起こりうるリスクとを、時間をかけて説明した。
人工呼吸器が付いた状態で自宅に帰ってきた場合のことも説明したところ、Mさんは「それじゃあ自宅で看るのは無理だ。経済的に仕事はやめられない。」と落ち着きを取り戻した。
話し合いの結果、Lさんが抗生剤の点滴で回復することに希望をかけ、人工呼吸器は付けずに可能な範囲で治療をすること、回復したら胃瘻を作ることを選択した。
私からMさんへは「治療の甲斐なく亡くなる可能性がゼロではない。覚悟はしておいてほしい。」と伝え、A医師へ治療を改めてお願いし病院を後にした。

皆さんは「医師アタマ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
医師である尾藤誠司氏が、医師の思考のクセを「石頭」とかけて名付けたものだ。

医師アタマ,それは「世界は正しいことと間違ったことで成り立っている」という前提,そして「あなたにとっても,私にとっても正しいことは正しい」という前提で医療があることの不自然さ,また,その不自然さに対してわれわれ医師はイマジネーションを閉ざしがちなのではないか,ということについてのイメージを指しています。“患者と医師の間には深くて大きな河が流れている”と言われていますが,患者と医師に起こるディスコミュニケーションは,河というよりもむしろ医師という一定の文脈を持った集団が「医師アタマ」という堀を造っていることにその原因があるのではないか,ということです。

医師の頭はイシアタマ?(尾藤誠司,名郷直樹) | 2007年 | 記事一覧 | 医学界新聞 | 医学書院 (igaku-shoin.co.jp)

「医師アタマ」は医師の間では不評だったのかあまり流行らなかったが、私は「なるほど、私もそういうところがある」と感じた。
医師は命を扱うため、失敗が許されない世界で生きている。
救命のために精進してきた自分の判断や、医療的なエビデンスが「正しい」と信じ、それは「看護師などの医療従事者、患者、家族にとっても正しいはず」と考える傾向がある。

エビデンスや経験に基づいて治療を行う彼らは間違ってはいない。
でも、良くなってほしいという家族の想いや、良くなりたいという本人の気持ちを置き去りにしがちだ。
「医師アタマ」は、自分が正しいと思うことが拒絶されると「ややこしい患者」「変わった患者」と相手を否定する。
自分の提案がなぜ受け入れられなかったのか。
どのような提案・説明なら受け入れてもらえるのか。
医療以外の世界では当たり前の配慮だが、忙しい救急現場では後回しになる。

体力の無い高齢者の治療は、死と隣り合わせだ。
治療しても寝たきりになりこの世を去る高齢者をたくさん診てきたA医師は、自身の経験に基づき「もともと寝たきりに近い患者を治療する意味があるのか」と考え、自分の考えが正しいと疑わなかったのだろう。
その個人的判断をそのまま「Lさんに対して積極的に治療しないことが家族にとっても正しい」とあてはめようとした。
典型的な「医師アタマ」だ。
治療を受けたくて病院に来た人々に、到底受け入れてもらえるものではない。
家族は「医師アタマ」から生まれる説明に翻弄される。

同じ「病気」でも、一人として同じ人はいない。
それぞれ異なる人生を歩んでいる。
長く生きることを望む家族の存在や、本人の生きる意欲の有無によって希望する治療も異なる。
たとえ助からないとしても、「最大限努力してみます」と力と尽くし、患者に寄り添う姿勢が必要なのではないか。

治療を考えるうえで、その人の人生や家族関係を紐解いていくことが「面倒」と、ガイドラインなどを作成して治療適応をシンプルに判断しようとする傾向が医療現場にある。
私はそんな最近の傾向が危険だと感じている。
ガイドラインに示された治療が、本当にその人にとって有益なのか。
患者はその治療に納得しているか。

病院医師は忙しいし、診療所の医師より死に近い現場で頑張ってくれている。
診療所の医師は病院の医師をサポートすべく、患者一人一人に伴走しながら患者と病院との間を取り持つ役割があると私は考えている。

晴天の空に、神宮外苑の桜の蕾が膨らんでいました

先ほどのLさんは人工呼吸器を使用することなく回復し、胃瘻を作った後にMさんとの在宅生活を再スタートできることになった。
私自身も持つ「医師アタマ」。
自分の思考のクセを忘れず、「患者・家族の目線」を忘れてはいけないと思った出来事だった。


この記事が参加している募集

仕事について話そう