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玉水物語を現代”百合”語訳してみた

  
 恋ということばを高貴なお人は知らない。
 愛するということや、恋におちるということは、平凡な者の特権なのだと姫は云う。

「玉水、あなたには約束した人がいるのでしょう」

 姫はときどき、どこか遠くをみつめてそうのたまわう。卑しい狐の肺腑はそのたびにぎゅっと縮みあがり、次のお言葉を待つのみになる。
 その夜は望月だった。寝間は戸を開け切り、それゆえに庭木の向こうに月がみえていた。桜の花は散りぎわになって美しさを増すと云う。月もまったく同じような様子だった。椀からこぼれそうになるほどに黄金色を湛えた光が、宵の星々の中心で白い暈を負っていた。

「玉水、こちらへ」

 姫の初雪のように白い指先が私をそばへ誘う。私は云われたとおりに、その寝具の端に身を寄せる。自然、背筋を伸ばして座ってしまう。初夏を控えた夜気はやや重たかった。

「あなたの髪は、いつみても艶やかですね」
「そんな、私など……姫の御髪とはくらべものになりません」
「触れていいですか」
「え……姫、いけません」

 そっと指先がこめかみのあたりに伸びてきて、とっさに顔を引いてしまった。顔が熱を持っている。恥ずかしさと、命じられたことを退けてしまった、という後悔の念が湧き上がる。
姫は眉根を寄せて小さく呟く。

「どうしてあなたは、いつも、触れさせてくれないのですか」
「……私は、汚いのです」
「汚い? 約束をした人とは、まだ顔を合わせてはいないのでしょう」
「そうではございません。私なんぞは、その、仕える身分ゆえ……」

 言いよどむと、姫はきっと唇をきつく結び、泣きそうなほどに目を細める。
 そして私のことをまっすぐに見据える。

「あなたが仕えるのは、この高柳の家ですか。それとも、私ですか」

 私にはなにも返すことができない。答えは決まっているのに、口にしていいことではないと自身で断じてしまう。この気持ちを音にすることは、神仏に誓って許されない。

「最近、私は無常ばかり感じます」
「……姫」
「信じられるものをひとつも持っていないのではないかと思います」

 そのころ、姫はまだ齢十四、五の時分だった。きっと戸惑うことも多くあるのだろう。

「玉水、あなたは美しい」

 美しい。
 そのことばに胸が痛む。喜びとも、自責ともつかない思いがひしひしとこみあげてくる。

「あなたは恋を知っているのでしょう」

 姫の指が、今度こそ私の髪に触れた。西瓜でも抱くように、姫はそのかほそい腕で私の頭を胸に抱く。寝着の深くから……姫の柔肌から、朝露を浴びたつつじの花のような香りが発されていた。瑞々しい桃李の香りかもしれない。高貴なひとの臭いとは自然と掛け離れた臭いがするのだと思っていたから、私は驚いてしまった。それから、私自身の獣の臭いはしないだろうかと心が焦った。

「……こうしていると、どうしてか私は、いつかみた狐のことを思い出します」

 姫の胸はゆっくりとふくらみ、またゆっくりと縮んだ。

「花園でみかけた狐は、仏の使いのように美しかった。いつかまたみたいと思ううちに、こうして季節が過ぎてしまいました……あの毛並みはまだ幼いものだったのでしょう」

 それは私です……などと云うこともできず、黙することしかできない。姫の髪の先が鼻先でゆれてくすぐったい。あたたかい肌の感触をずっとこうして味わっていたいと、欲深く思ってしまう。

「私はあの狐になりたかった」

 はっと息を呑んだ。それは悟られないほどに小さいものだったと思う。

「草花のなかを駆け巡り、落葉のころは兄弟たちと寝ている虫を捕まえ、厳しい冬には身を寄せ合って暮らす……そして、私は恋をしたい」
「できませんか、恋は」
「できません」
「どうして」
「私が人だからでしょう……卑しくも」

 姫の腕がより強く私を抱える。その香りが少し、湿ったものになる。私は姫の衣の裾をつまむ。泣きたい、と思ったのはたぶんこれが初めてではなかっただろう。恋を知らない、恋をしたいと云う姫に、なんとことばを掛ければよいのだろう。屋敷の外は夜に閉ざされ、月ばかりが白く煌々と昇っていく。この月の有様を孤独というのだろうか。そう思うと、ひとりこの屋敷で生きる姫を重ねて思い、私の目はじゅくじゅくと涙を流し始めてしまった。

「泣いているのですか」
「申し訳ありません」
「こちらへ」

 寝具のなかへ私を誘うと、姫はぬくもりのこもった手のひらで私を抱き、ゆっくりと背を撫でてくれた。卑しくも狐である私は……せめて月が雲に隠れるまでと云った。姫はなにも云わずに、子守りでもするように、いつまでもそうしてくれていた。

「あなたは美しい」

 瞼の下りる間際。
 姫か……卑しくも私か。
 どちらかの唇がそう告げた。

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