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破壊と再生(『Girl Queen』自評) 

ガールクイーン  こうして壊されたきみの抒情のかけらを集め始める


0.

C.O.S.Aの往年の名曲『Girl Queen』にあるのは強い男の中で揺れる抒情の塊だった。畳みかけるようなマフィアネタのなかには、力強さが溢れ、ラッパーとしての、そして、男としての秩序すら感じる。ではなぜ、そんな強い男がひとりの少女に対して、弱々しくなくてはならないのかわたしにはわからなかった。弱さを見せる強さをわたしは知らなかった。

ただの少女が<あなた>だとして、わたしは<あなた>の抒情のかけらを集める。そのかけらが30個集まり、今回の連作、『Girl Queen』は名曲の名をそのまま冠し、形作られた。本作の見出し絵にバンクシーを選んだのもそのためだ。世界各地にある抒情のかけらを形にして回っている彼はだれかにとっては救世主で、だれかにとっては破壊者だ。わたしはだれかにとっての、たったひとりだけの救世主になりたいし、たったひとりだけの破壊者にもなりたい。ただ、バンクシーとわたしの違いはその矛先が本当に<あなた>だけを指していることだろう。

どこかへ行ったものをひとつへ還元する。しかし、それはそう遠くにないし、本当の意味でひとつになることはないんだと思う。<あなた>の周りに散らばっているかけらをわたしが拾うことに意味がある。わたしの短歌はいつでもそのためにある。


1.

クレヨンで描いた そばで横たわっているきみの光を (その構成を)

イントロで知っている曲だとわかった 遠くで血の味がしたから

光は見ることができないし、触ることができないのにわたしたちは光の色を知っている気がする。それは誰かに教えられたわけじゃなく目に飛び込んでくる光を認識したまでに過ぎない。だが、わたしたちがいくら視認したところで光が実体を持つことはない。光は言葉として存在することによって、実体が明らかにされることを望んでおり、それがきみの光ならわたしが描かなければならない。そして、一番の必然性はこの光を生々しく描写するのがクレヨンであることだろう。

ないところからあるものを創るだけが創作ではなくて、あるものを繋げることも創作であると考える。五感が過敏に働き、それぞれの働きが繋がる時があったならいいと何度も思った。聴覚過敏で苦しんだ幼少時代を思い出し、聴こえてしまうことの苦しさを言葉にしてしまった。さいごに、わたしがわたしのかけらを拾う。そうしても、いいのだと自分に言い聞かせながら。


2.

パターン化されたエモつまらない、いま、わたしのブーケも、溶け出している

シティポップが流行っているこの街で ぼくらだけの会話を (早口で)

現代に対するアンチテーゼを掲げることによってポエジーを呼ぶ方法は独裁のようで好きではなかった。しかし、現代のシティポップ全盛、エモ全盛のサブカルを壊さなければならないと思うことがあったのは事実だ。00年代~10年代のロックや、HIPHOP、ファッション、映画、そして短歌。それらがエモとして、シティポップの土台として消費されることはどうしても許せなかった。いつか死ぬ潮流に飲み込まれ、ともに死んでいくだろうかつてのメインカルチャーを見放すことはできなかった。

だからこそ、わたしは<あなた>に届け続けることを選んだ。はっきり言って、カルチャーを壊すことは短歌にはできない。だが、カルチャーの波に逆らう誰かに手を差し伸べることはできる。マイノリティはいつだって弱々しい。そして、わたしたちがダサい逆張りサブカルかぶれと揶揄される世界だからこそ、わたしは短歌を詠み続けられる。


3.

きみの夏うたプレイリストを唄うボーカロイドが萌え声だったら

Vtuberにスパチャを投げた時みたいに (つまり、幻想みたいに) 消えたい

ポストモダン的なモチーフを用いることでエモが発生するようになればそれは20年代のサブカルの完成と言えるだろう。しかし、ボーカロイドは00年代から存在するカルチャーであり、それを青春として過ごしてきた世代が今の10代、20代である。つまり、現代短歌が孕むエモとしては最も新しい類のエモであり、言い換えるならば、最も新しい既視感である。

一方で、Vtuberは20年代に台頭し始め、あっという間にネット上で新たな風を吹かすことに成功した。「バチャ豚」、「スパチャ」、といった多くの関連ミームを携え、ヲタク文化のメインストリームを担おうとしている。そこで、わたしはこの文化の終わり、果てはその先にある抒情のかけらを集めようとした。時を越えて、エモというひとつの抒情が未来の<あなた>のものとして産み落とされることを予期する。そうすることで、ずっとカルチャーの中を潜る歌として残り続ける。そして、「幻想みたいに消えたい」という表現の普遍さに、後に燃え盛るだろうポエジーへの期待を込めた。わたしはいたるところにある抒情のかけらをひとつの結晶として完成させるまで歌作をやめるわけにはいかない。わたしとどこかにいる<あなた>のために。


4.

またひとつ、またひとつと形を成していく抒情に対して、私はこれでいいのかと思うことがある。顔も知らないかもしれない誰かに対して、言葉を届けようともがくことの弱さは自分が一番理解しているし、自らに詩の才能があると思ったことは一度もない。しかし、わたしはこれを選んだ。弱さを誇ることの強さを知った。弱さは美しいことだと知った。短歌はわたし自身のメタファーであり、<あなた>のメタファーでもある。

救世主であり、破壊者。抒情を組み立て、また壊す。それだけでいいのかもしれない。感情が生きている限りは、ループし続ける。本連作でこの<円環構造>を俯瞰し、そう強く思った。




※引用はすべて、古川蓮 『Girl Queen』より

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