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「楽しかった」という完結方法



街中で聞こえてくる「かわいい」と、「楽しかった」という感情はどちらの方がより軽率なものなのだろうか。

もしかするとどちらもそうではないのかもしれない。

無意識のうちに、

素直に口から溢れでた、

温かいままの感情なのかもしれない。


「楽しかったらそれでいい」なんて言葉はとても便利であって、肯定文にだって言い訳にだって使えてしまうのだ。


「楽しい」という感情は割と手の届きやすいところにある。

「幸せ」だとか「好き」だとか、それ以前の、特別な感情の形成過程に在るものだ。

何度「楽しかったね」と交わすと、その関係に名前がつくのだろうかと疑問に思ったことがある。


楽しくないより、楽しい方が良くて、

だから「楽しい」その瞬間を求めるのに、

きっと誰しもが「楽しかった」その先の未来を想像しているのだろうと思った。


だから、

その未来の相違について言及された時は、

少し前の過去に戻って、「楽しかった」ままでいようとするのだ。


だから、

「楽しかったらそれでいい」

なんて言葉があるのだろう。


そこでプツリと途切れてしまったストーリーは、

一体、ハッピーエンドとバッドエンドのどちらに属するのだろう。


大切なものを頭の中に並べたとき、

私はきっと「楽しかったらそれでいい」なんてことは言えないのだと思う。


それは、これから先の自分が生きるであろう未来でも

存在していてほしいと願うからで、

人間の場合であるならば、

「楽しかったね」から派生する細かいモノを知りたいと思うからだ。



「かわいい」も「たのしい」も

軽くて、

重い。



それでいい、


それだけでいい、


そう思うのはそこでストーリーを終わらせる為か、

自分を守る為か。



「人による」なんて言葉も、同じ性質を持った言葉である。

好きも、

嫌いも、


それこそ、かわいいも、楽しいも、

「人による」と言い切ってしまうことができるのだ。


「人による」の中から選抜された人たちには、どうやって言葉を使い分けるのだろう。軽くて重いあれらを乱用すると、何処が、どういうふうに、どうして、とその中身を求められるようになるだろう。


そんな時も、

「君だから」だと、

理由を全て相手の存在に載せて発言すればうまく完結できるのだろうか。




そうやって

器用に生きてみたいと、

思った回数は数え切れない。




















文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.