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【配給会社ムヴィオラの映画1本語り】『春江水暖〜しゅんこうすいだん』⑦山水画の絵巻を映画にする、と簡単に言うけれど。

「ストーリーを通じて現代の町の変化をいかにとらえるかを考えるうちに、英題にもなっている『富春山居図(Dwelling in the Fuchun Mountains)』という絵巻物からヒントを得て、映画を絵巻物のように描くことを思いつきました」(グー・シャオガン監督/2019年11月24日 東京フィルメックスでの上映後Q&Aより)

フィルメックス

*フィルメックスでのQ&A 左は市山尚三さん、右は、今監督取材でもお世話になっている通訳の湯櫻さん。

映画を見た人なら、この監督の言葉を聞いてきっと「なるほど」と頷いたと思う。昨日の記事で触れた10分以上にもわたる超ロングテイクでも、カメラは人物に迫ったり、人物を追いかけたりするのではなく、孫娘グーシーとその恋人ジャンをロングで捉え、「僕は泳いで君は歩いてね」と二人が移動するのに従い、カメラは二人と距離を保ったまま横にスーッと移動していく。

この場面だけでなく、『春江水暖〜しゅんこうすいだん』ではカメラが緩やかに横に移動するシーンが要所要所で印象的に使われている。その理由が冒頭で紹介した監督の言葉にある「絵巻物にヒントを得た」と言うことなんだろう。

監督はこうも言っている。「山水画の絵巻を映画にしてみたいと思いました。伝統的な絵巻物は広げていくごとに、少しずつ更なるイメージやプロットが見えてきますよね。これって映画のようだと思いませんか」。確かに。それでも、ただ単に横移動のシーンを多用したからといって「山水絵巻のような映画」と見た人に感じさせるのは難しいと思うし、何よりも、何故に「山水絵巻のような映画」である必要があったのか、それが見た人に伝わらない限りには、感動も何もない。

しかし、この映画は山水画にさほど詳しくない私にも「ああ、きっと山水絵巻のようなんだろうな。なんて素晴らしいんだろう」と思わせた。そう感じた理由をちょっと考えてみた。

富春山居図

*富春山居図。元代の画家・黄公望(1269-1354)が、映画の舞台で監督の故郷でもある富陽を描いた。

権利元からもらった英語版のプレスに掲載された監督の説明によると「中国の伝統的な風景画は、宇宙的な感覚、時の永遠や空間の無限を記録するために時間と戯れることを試みます。その表現のために、中国絵画は時に現実的な光や影の表現といった他の要素をあえて排します。『富春山居図』を書いた画家、黄公望は常に絵画の焦点を変化させ、統一された完璧な視覚体験の中に様々な角度を取り入れているのです。鑑賞者は絵画の中を流れいき、立ち止まり、自分も空に浮かんで飛んでいるような気分になったり、大地を感じたり、森の中にいるような気持ちになったりします。それは絵画という二次元的なものから解き放れる経験です」。監督のキャラから言うと言葉が少々大仰だが、こう言う内容のことは話したのだろう。

確かにこの映画には、固定された視点があると言うよりも、それは時にゆらゆらと登場人物の中を漂ったり、すーっと天に上ったり、観客は「(映画)の中を流れいき、立ち止まり、自分も空に浮かんで飛んでいるような気分に」なる。例えば、こんな素晴らしいシーンだ。

ラオシャオのデート

*ラオシャオのデートをまず俯瞰で捉え…

映画の中でラオシャオ(老小=末っ子ちゃんの意味ですね)呼ばれている四男が見合いデートで女性と歩いている様子をカメラがロングで捉える、外から声が入ってくるがラオシャオたちのものではない、カメラが緩やかに動くと、その上の道を歩いている孫娘グーシーと恋人ジャンが画面に入ってきて先ほどの声は二人の会話とわかり、カットの主役は自然に彼女たちに変わるのだが、さらにカメラがすーっと動くと、二人の上に樹齢300年(と後で知らされる)クスノキの姿が画面の中心となり、「多くの事を見てきた樹だ」と言うセリフが重なる、すると今度はラオシャオとデート相手が画面に入ってきて二人はクスノキの下で足を止める。ここもかなり長いシーンだ。

右にクスノキ

*画面の中心がグーシーたちに変わり、やがて右側に見えるクスノキに…

見上げるクスノキ

*そして再びラオシャオたち。クスノキを眺める二人…

このシーンを見た時に、ああ、アジアらしい感覚だなぁと思った。自然と人が対立するのでなく、自然は大きな構えでそこに在って、そこに人が生きていると言う感覚。人がどんなに変わっても、変わらないものがある。人が自然さえも変えてしまおうと、それでも変わらぬものがある。

この映画は市井の人々の悲喜交交を描くけれど、全体を通して、人よりももっと大きなものの感覚を与える。それこそが「山水絵巻のような映画」であり、それこそが「テーマ」と呼んでも差し支えないようなものなんだと思う。カメラや編集のテクニックだけが斬新なのではないところが(それだけでも面白いのですけどね)、シャオガン監督の並々ならぬ才能だ。

これを「若いのに大したものだ」と言うべきか、それとも「若いからこそできた」と言うべきか。おばさんは悩んでしまう。締めは結局「いやぁ、映画って本当にいいもんですね!」(by 水野晴郎さん*二度目)なんですけど。

2021年1月17日 ムヴィオラ 武井みゆき

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