犬の力から抜け出すべし。映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」感想
め~め~。
アカデミー賞監督賞を受賞した「パワー・オブ・ザ・ドッグ」ですが、1925年のモンタナ州を舞台に、既に時代遅れとなっているカウボーイを描いた作品として、Netfliexにて配信されている作品となっています。
アメリカの西部劇を取り扱った作品というのは多いわけですが、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は、既に、車も普通に乗ることができる時代となっておりまして、時代がかわっていく中で、悩む男がベネディクト・カンバーバッチ演じる主人公となっています。
とはいえ、本作品は、複数人の主人公がいる映画でもありますので、ネタバレを後半にしつつ、本作品の魅力について語ってみたいと思います。
時代遅れのカウボーイ
ベネディクト・カンバーバッチ演じる主人公のフィルは、イェール大学出身の、実はインテリなカウボーイです。
弟と共に牧場を経営しており、既に、25年が経過しようとしているタイミングから物語が始まります。
本作品を見るにあたって気にするべきは、本作品は、西部劇ではもちろん無く、どちらかというと、時代が変わっていくことに対して、それぞれがどのような行動や考え方をもっているのか、そのすれ違いを含めて感じることができる作品となっています。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」をみるにあたって、なんとなく察しのついている方も多かったかと思いますが、ウィルは、同性愛的思考をもっています。
そのこと自体は何も問題はありませんが、時代と場所が異なれば、そのことを簡単に人に話すわけにはいかなくなります。
カウボーイというのは、まさに男の社会となっており、男らしくない男性がいたときには、色々な方法で攻撃を受けたりするような時代です。
カウボーイの同性愛をとりあつかった作品
話に入っていく前に、カウボーイと同性愛について語られた有名作品について紹介してみたいと思います。
避けて通れないのは、カウボーイ二人が、羊を移動させているうちに、愛をはぐくみ、家族含めて大変な目にあうことになる「ブロークバックマウンテン」は、外せないところでしょう。
女性のいない男社会の中におりますと、恋愛を含め、人間関係というのはいろいろな形で発生してしまうものです。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は、そんな時代の中で、うまくかみ合わない人たちを描くという中では、秀逸な作品といえます。
また、はっきりと同性愛をうちだしているわけではありませんし、カウボーイそのものではありませんが、アメリカン・ニューシネマを彩る中で欠かせない作品として「真夜中のカーボーイ」というのもあります。
いずれにしても、カウボーイという、特に男は男らしく、という社会の中で、自分の性質を隠しながら生きるというのは、大変にツライ時代だったりします。
過去にとらわれる男
そのような時代にあって、同性愛を告白しようものなら、いったいどういう風になってしまうのか。
ウィルという主人公は、ブロンコヘンリーという男に命を助けてもらい、牧場経営も教わりました。
そして、そのブロンコヘンリーとただならぬ関係にあったのは、作品をみていくにあたってすぐにわかることでもあります。
しかし、それを誰にも言うことはできませんし、理解してくれる人間もまわりにはいないのです。
だからこそ、彼は、ブロンコヘンリーと過ごした日々を仲間たちに語り、そして、過去のできごとを大切に守っていこうとします。
ですが、時代が変わっている世の中において、ウィルと、そして、最愛の弟ジョージとの考え方も、ずれてきてしまうことになります。
弟と同じベッドで寝たりしつつ、弟を大切にするウィルですが、弟は同性愛者でもなければ、兄に対して、特別な感情を抱いているわけでもありません。
どちらかというと、兄の支配に対して疑問をもっていたりします。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」の面白さは、ウィルという男の生きづらさではなく、それぞれの、パワー・オブ・ザ・ドッグ(犬の力)から抜け出すための物語となっているところに、脚本や演出、監督の見事さが現れるところとなっています。
タイトルの意味
そろそろ、ネタバレをしつつ感想を述べていこうと思いますので、気になる方は、ぜひ、本作品を見てから戻ってきていただければと思います。
実は、作品を見るまでは、ウィルが主人公で、時代遅れのカウボーイがどう生きていくのか、という話なのだと思って見始めていました。
しかし、実際のところ、内容と、タイトルから違うものであることが見えてきたところです。
まずは、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」というタイトルから話をしていきたいと思います。
旧約聖書の中からの引用となっておりまして、
”Deliver my soul from the sword, my darling from the power of the dog.”
「剣と犬の力から、私の魂を開放したまえ」
という訳されかたをしています。
剣というのは、武力とかそういうものを指しているでしょうが、、犬の力にしても、野蛮な力、と言い換えてもいいかもしれません。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は、ウィルだけの話ではなく、ジョージの話でもあり、そのジョージの結婚相手ローズの子供であるピーターの物語となっているのがポイントです。
母を守る
特に、冒頭のナレーションが特徴的です。
「父が死んだ時、僕は母の幸せだけを願った。僕が、母を守らなければ、誰が守る?」
冒頭のシーンをいきなり聞くと、ウィルとジョージの話かと思いますが、二人の両親は普通に生きています。
物語のラストまでみるとわかりますが、本作品は、ピーターの物語で締めくくられています。
ピーターの母親であるローズは、女手一つでレストランを経営していました。
しかし、一人で生活することに限界を感じていたところに、ジョージがアプローチをかけていきます。
あっという間に二人は結婚してしまうのですが、ピーターからすると、これでめでたしめでたしではありません。
ベネディクト・カンバーバッチ演じるウィルは、同性愛者ではありますが、同時に、同族嫌悪のような感情ももっており、異質なものに対する反応は過剰です。
「J・エドガー」なんかは、同性愛者を弾圧していた人物が、実は同性愛者だったのではないか、という内容だったりします。
特に、弟を過剰に保護することによって、自分の同性愛的思考を誤魔化そうとしているきらいもあり、ローズに弟と取られたと思っているからこそ、弟は騙されている、と思い込もうとしているのです。
また、昔のドラマの小姑のように、ちょこちょこと嫌がらせめいたことをしていきます。
一つ一つはたいしたことをしているわけではありませんが、ピアノがうまくひけないのに弾けるフリをした彼女を、自分のバンジョーによる演奏で威嚇してみたり、こっそりお酒を飲んでいるところを目撃して、知っているぞと暗に脅したりします。
息子であるピーターも大学にいって離れてしまい、誰も周りに理解者がいなくなってしまったローズは、どんどん追い詰められて、酒におぼれてしまいます。
ピーターは、そんな母親を見て、犬の力から、母親を守らなければと思うのです。
小さなパワー・オブ・ザ・ドッグ
さて、もっと深い話に入る前に、ウィルの弟であるジョージもまた、犬の力から抜け出そうとする話になっている、というところもポイントとなっています。
ジョージは、物語の冒頭の方に、非常に言いづらそうにしています。
それはそれは重要なことを言うのかと思ったら、兄に対して、ちょっとした注意をするというだけです。
すっかり、ウィルは拗ねてしまうことになるのですが、弟もまた、兄の支配という、犬の力から抜け出そうとしています。
ジョージは、カウボーイたちの中で、馴染めていないのがわかります。
25年も牧場経営をしているはずなのに、浮いています。
彼にとって、犬の力から抜け出すための方法が、ローズとの結婚だったというところがわかります。
ジョージは、ローズとピクニックがてら出かけたところで、突然、ローズから離れて泣き始めます。
「いいもんだな。一人じゃないって」
このセリフで、やっぱり、ジョージは孤独を感じていたんだな、ということがわかります。
ヤンチャな人たちの中に、一人だけ大人しい感じの人が混じっていたら、そうなりますよね。
しかし、ウィルのほうが、それよりもっと深い孤独を感じていることを、本作品は語っています。
ご飯を食べているときに、「愛の力だ」と、おそらく、ラテン語か何かで言います。
それに対して、その場にいる誰も、その意味がわかりません。弟もまた、わかりません。
彼は、知能の面でも、性的な部分においても、孤独なのです。
そんなとき、ピーターが、彼の聖域に踏み込むことで、関係が変わります。
犬から母を救い出せ
ピーターは、男たちにからかわれます。
紙で花は作りますし、筋肉がなさそうなふわふわした歩き方をしています。
男社会のカウボーイたちから見れば、笑うことでしかコミュニケーションをとる方法がないぐらいです。
ピーターは、ウィルの秘密基地を偶然発見し、そこにある、男性ポルノすれすれのものを見つけるのです。
ウィルは自分自身の心のうちを誰にも話せないでいました。
しかし、ピーターに自分の性を感づかれたのではないかと思うことで、
「俺らは出会い方が悪かった。始めがまずくても、友達にはなれる」
といって、扱いが変わります。
本当であれば、ウィルは、母親であるローズに対する態度も変えられればよかったのでしょうが、そのあたりは変わらないまま、物語のラストにむかっていってしまうのです。
また、ブロンコヘンリーがそうであったように、インディアンへの差別もありますし、時代にそぐわないで、過去を守ってしまっていた結果、彼は死へと近づいていくことになります。
弱弱しくみえたピーターですが、物語が終盤に近付くにつれて、母親を元気づけるためにもってきたように思っていたウサギを平気で解剖してみせたりと、サイコパス的な雰囲気をだしていきます。
伏線のうまさ
本作品は物語のラストに向かう伏線がうまく張られているところも見どころだと思います。
カンバーバッチ演じるウィルは、何度も手に怪我をします。
お風呂にも入りませんし、残念ながら衛生的ではありません。
特に、怪我をしているときの処置は雑ですので、いつ感染症になってもおかしくない雰囲気を常にだしています。
また、ピーターは医学系の学校にいっていることもあり、ウサギを解剖しても、牛を解剖していても、勉強熱心なのかな、ぐらいしか思わなかったりします。
ピーターは、ウィルの同性愛をうまく利用し、最終的に、目的を達成します。
炭疽病という病気も、かなり恐ろしい病気となっているのですが、病気が危険なものであることも劇中でさらっとだしており、物語の構成が実にうまいのも本作品の面白さとなっています。
それぞれのパワー・オブ・ザ・ドッグ
ジョージにとっては、物語の冒頭40分くらいで彼の物語は終わっています。
犬の力の中から、一応、救い出されています。
最終的な結果は別として、ウィルもまた、ピーターとの出会いによって、実は、犬の力から救い出されていたりします。
彼が主人公だとすれば、それはバットエンドにみえるのですが、ずっと、自分を偽ってきた彼にとって、自分でつくったロープをピーターに渡す、ということは、彼自身の心が孤独ではなくなる、ということですので、非常に意義深いことになっています。
とはいえ、本作品は、冒頭のナレーションがピーターであるように、ピーターが、母親を救い出す物語となっています。
手段の良し悪しは別として、彼は母親を救ってみせるのです。
ここからは個人的な感想と考えを述べてみたいと思います。
後日談についてはまったくわからないところですが、本作品は、時代が変わっていく最中を描いています。
時代遅れのカウボーイ。
ジョージは、心優しい男だと思いますが、彼らの牧場経営は、間違いなくウィルの存在で成り立っていたはずです。
理由はどうあれ、ウィルがいなくなったあと、カウボーイたちがジョージにいつまでも付き従ってくれるとは思えません。
また、勝手に盛り上がってグランドピアノを、たいしてピアノがひけないローズに、相談もなしにプレゼントして、とびきりの舞台まで用意してしまうジョージですので、ローズがこれからも幸せであるかという保証は何もありません。
ピーターも、ジョージが、牧場経営を成功させているからこそ、大学に行かせてもらえているのであって、牧場経営がうまくいかなくなれば、大学に通い続けるというわけにもいかなくなるでしょう。
ウィルが生きていれば、ローズはアルコール中毒でどうにかなっていたかもしれませんが、母親に訪れる苦難を、取り除き続けるというのは、大変な難しさがあることでしょう。
しかしながら、本作品は、複数の主人公をうまく繋げつつ、自分たちの抱える問題から抜け出そうとする人たちを描いた作品となっており、アカデミー賞をとるのにふさわしい作品となっているおもしろさがあります。
以上、犬の力から抜け出すべし。映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」感想でした!
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