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「オクトパスの神秘 海の賢者は語る」鑑賞記録

もうすぐ2021年のアカデミー賞授賞式ですね。アカデミー賞と言うと、やはり作品賞とか脚本賞、監督賞、女優・男優賞とかが注目されがちですよね。今回私が取り上げたいのはドキュメンタリー賞にノミネートされた「オクトパスの神秘 海の賢者は語る」です!この作品をNETFLIXで見かけたのは恐らく去年の秋とかぐらいだったかな。その時からちょっと気になっていたのですが、ノミネートの話をきいて「何故まだ観てないんだ!」と急いで観てみました。案の定、傑作だったので感想に残します。

オクトパス、ということでタコについての映画であることはお分かりでしょう。ドキュメンタリー映画なので、基本的には語り部の実話と語り部が記録したタコの生態がメインとなる。でもこの映画、ただ単にタコのことについてお勉強できる映画には終わらない。

まず語り部の物語が実にドラマチックだ。実話ではあるが、彼の生き様がもはや映画になっている。彼の人生についての導入があり、どのようにタコと出会い、そしてタコとどのような関係を築き上げていくのか。そのプロセスは映画そのものでしかない。いや、待て、映画ってなんだったったけ。そういう映画とはなんぞ、という問いまで浮上してくるような感じがした。以前友達と話したことがある。その友達はドキュメンタリーが大好きで、私は映画が大好きで、映画とドキュメンタリーってどう違うのかな、という話になった。その子が言うには、映画には脚本があり、向かうべきゴールが存在していてそこに向かって全てのものが動く、と。でもドキュメンタリ―にゴールは無い。その時その時を記録し残しながらそのゴールは誰も知らない、それがドキュメンタリーなのではないかと。

それではドキュメンタリー映画とはなんなんだろうか。ゴールが無いドキュメンタリーとゴールがある映画が融合していて、矛盾を孕んだ創造物ではないか。でも考えてみればこの「オクトパスの神秘」ではゴールはあったのだろうか。勿論映画としての終わりは存在する。しかし、この終わりは語り部である彼にとっては一つの通過点でしかない。彼の人生は続いていく。ではここで終わりではない、ゴールはここでない、と主張する映画はもしかしてドキュメンタリーなのだろうか。なんだか色々と合点がいった。私はハッピーエンドにしろバッドエンドにしろ、ここで終わり、という映画がとても苦手なのだ。そんなわけないだろって、人間は生きる限り終わりはない、だからハッピーエンドなのかバッドエンドなのかなんてそれが終わらないと分からないだろう、と思う。ドキュメンタリーはそれを分かっている。そもそも生きた何かを写し取ろうとするわけなのだから、当たり前か。

映画的なもの、という表現がなんとなく的確な表現ではなくなりつつあるのは時代が変化していたり、映画が進化しているからなのだろうか。映画が生まれた頃、映画と現実は切り離されるべきものではなかったはずだ。現実を写し取り残していくものとしての役割を映画は担ってきたのではないか。でも、少しずつ映画は現実から飛び出すことが、技術的にも可能になった。これは素晴らしいことで、映画における表現が多様になった。

さてここで本作の話に少し戻る。こうした多様な表現が可能になった中で、在りし日の映画が人々に与えた感動を与える、という点で本作はずば抜けているのではないだろうか。視聴覚的にも、初めての体験ばかりであった。まるで科学映画のような、既知の生物の未知の生態を、画面越しではあるが感じた。このタコも生きているのだ、と私は心から思った。私が映画に対して感動するポイントの一つに、登場人物に対して「ああ生きている」と感じられるかどうかという点がある。語り部は勿論のこと、このタコもまた自分の生を全うし、生きている。

映画ほど、生きた芸術もなかなか無い。勿論舞台は一過性の芸術には負けるが、それでも映画は生きている。映画の中に登場する人やものが生きていればいるほど、映画は輝き、生き生きとする。私はそんな生命に溢れた映画に触れる度に自分もまた生きる力を得ているのかもしれない。たとえ苦しくても辛くても、生きることに満ち溢れた映画は心強い。その点で「ノマドランド」という映画もノミネートされていることが、私には偶然には思えない。この「オクトパスの神秘」と「ノマドランド」には何らかのつながりがあるし、そのつながりこそが、映画とは何か、という問いへの手がかりなのではないかと思う。

専門的な知識も学もないただ映画を愛してる一般ピーポーの自分が偉そうに語ってみたけれど、少しでも何かかすってたら嬉しいな。とりあえずもっと映画のこと知りたいし、学びたい。まだまだ生きるぞ。

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