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『ねじまき鳥クロニクル』感想(ネタバレあり)

久しぶりに本を読みました。それもかなり短期間に、かなりの集中力でがーっと。こんなに面白い本を読むのは久しぶりです。なので感想の文字起こしをしておきます。ただ今の私はかなり興奮状態で見境なくネタバレしていくかもしれないので、これからこの作品を初めて読むと言う機会に恵まれた方はこの先を読まない方がいいかと思います。

さて物語について入る前に、私がこの本を読むことになったきっかけも書き残しておきましょう。

始まりは映画『ドライブ・マイ・カー』でした。職場の人とこの映画の話になり、映画の話から原作の話になり、村上春樹の話になりました。私は小中高ぐらいまでは割と本を読むのが好きで、村上春樹作品も一応読んではいました。『ノルウェイの森』『回転木馬のデッド・ヒート』『1Q84』『女のいない男たち』『色彩を持たない多崎つくるとその巡礼の年』とかはうっすらと読んだ記憶があります。でも、もうすっかり内容は忘れました。そして「よくわかんないなあ」という手ごたえのなさから村上春樹作品に対して少し苦手意識を持っていました。だから職場の人から「村上春樹のこれはめちゃくちゃ面白い」と『ねじまき鳥とクロニクル』を勧められた時も正直あまり期待していませんでした。大学時代になぜかふつりと本を読まなくなってしまって、今も月に1冊読むか読まないかぐらいまで読書から離れてしまったからこそ、今の私の新しい本との出会いはほぼほぼ人からのお勧めで成り立っています。自分で読むとなると、どうしても同じ作品を何度も読んでしまったり、好きな作家の作品という狭い範囲で動くことになってしまって…とにかく、これは勧められたのも何かのご縁だ、村上春樹、待ってろよ、と意気込んで読み始めたわけです。

しかしいざ文庫本を目の前にすると、読書の習慣を失いつつある自分にはなかなかの長編…これは時間がかかるぞ、と覚悟はしていました。何より村上春樹の文体が苦手な自分には、それをしっかり味わい理解しながら進もうと思えば、恐らく通常のスピードの3倍はかかるはず。とりあえず2週間か3週間ぐらいは見ておこう、と思ったら、この連休の木夜から読み始めて土夜に読み終わりました。なんてこった…

いや、もう面白すぎました。あんなに苦手だった文体が嘘みたいに私の中に沁み込んできて、きちんと味がするんですよ…なんで?

様々な話が入り組んできて複雑に絡み合いながら簡単にはすっきりとしないのも、登場人物の心情が痛いほどによく分かりここにいる私自身とリンクしていくような感覚も、そのどちらもが私を先へ先へと駆り立てました。続きが気になる、という物語への意識もありますが、それ以上に主人公岡田トオルの辿り着く場所が私には自分のことのように切実に、知りたかった。

主人公の岡田トオルは30代男性、妻のクミコと猫のワタヤ・ノボルと暮らしています。なんの変哲もない平和な生活が流れていたのですが、突然岡田のもとにかかってきた不思議な電話をきっかけに、猫が失踪し、妻も失踪し、その一方で風変わりな女性たちと出会います。岡田は必死に妻を取り戻そうと奮闘するわけです。

映画『ドライブ・マイ・カー』でも、妻の不在(死)を中心に物語は動いていきます。それと同じようにこの作品も、妻の不在(失踪)が岡田に様々な影響を与えていきます。

岡田は妻の突然の失踪によって、あれほど長く一緒にいて完全とは言えないものの分かりあうことができると思っていた人間に突然去られるということは、自分が今まで見てきたものはなんだったのか、人間はどのようにしても完全には分かりあえないのだろうか、という深い孤独を感じます。そして、一体彼女は何を思い、どうしてそうしたのかということの答えを追い求め始めます。ただ、彼女を深く見つめることは、自分自身を深く見つめることでもあったわけで…この辺のテーマなんかもかなり『ドライブ・マイ・カー』にも投影されてますよね。濱口監督はきっと『ねじまき鳥クロニクル』も読んでるんだろうなあ。

岡田は妻へ目を向けることを通して自分自身へ目を向けていくわけです。この自分自身への視線が、私にもかなり刺さってきたわけです。また加納クレタの話も興味深かったです。彼女は3度生まれ変わり、その度に前の名前を捨てました。3度目の生まれ変わりの際、彼女は岡田にも共に生まれ変わることを持ちかけます。クレタ島で新たな生活を始めようという彼女は岡田自身もそれまでの名前を捨て、新たな人間として生まれ変わろうと誘います。でも、岡田はそれを断るのです。岡田は自分が名前を捨て去り、逃げることを拒みました。逃げても無駄であると悟ったからです。

名前を捨てるということはかつての自分の全てを否定するということ。そしてそれは同時にその名前のとき共にいた人々も否定するということ。彼にはクミコを否定することができない、だから彼は岡田トオルとして生きてきた自分自身を捨て去ることはできない。

この「捨てる」という行為が自分に結構突き刺さり増した。私は知らず知らずのうちに色んなものを捨てているのではないだろうか、いやもしかしたら意識的にも捨ててしまっているのではないだろうか、と思ったからです。過去を切り捨て否定することは簡単で、新たな自分を作り出すことも簡単かもしれません、岡田のように自分を見つめることよりかは。でもそんなことを繰り返していれば、綿谷ノボルのような人間になってしまうのではないか。自分の中にうごめくものの正体を自分は自分で見つめなければならないのではないか。

この作品に関する記事をネットでいくつか読んでみたりはしたのですが、これは「善と悪」というテーマがあるようですね。しかし私にはそんな大層なものでもなくて、ただただ岡田トオルという人間の「自分探しの物語」のように思えてなりません…妻という鏡の存在に映し出される自分自身と対峙していく物語。でもたしかに、戦争の話や超能力の話など、私には読み解ききれていない話が沢山あるように思います。だから今の私にはこれは「自分探しの物語」なのですが、もしかしたら10年20年経つとまた違う物語が浮かび上がってくるのかもしれません。

村上春樹の作品はその抽象度の高さから人によって感じ取るものが違う、というような話を聴いたことがあります。これはもちろん他人と比較して、だけでなく色んな時点の自分と比較してもそうなのかもしれません。

とすれば若いうちから彼の作品に触れておいたことは私としてはとても面白い成長観察となりますね。映画でも同じことが言えるわけですが。若いうちから色んなものに触れておけ、というのは若いうちから色んなものを吸収し理解することも目的なのかもしれませんが、個人的にこの言葉を使うとすれば「君がいつか大人になったとき他の人には味わえない自分だけの楽しみ方が見つかるからだよ」という意味を込めたいですね。

『ねじまき鳥クロニクル』はまたいつか読み返すことにして、これを機に村上春樹作品どんどん読んでみようかという気持ちがにょきにょき芽生えてきました。やっぱり読書っていいですね。映画も大好きですが、文字を追うのも私は大好きだったんだなあということを思い出せました。少しずつ読書の習慣も取り戻していけたらと思います。

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