先生の教え

私が今文章を書いているのは、先生のおかげです。先生は、私に言葉を、文字を与えてくださいました。

ここに、先生の教えを残します。


文章ってのは、書こうとして書くもんじゃねぇ。テメェの脳内を人様に見せる最短の手段として、文章があるんだ。
テメェでテメェの脳内を覗いてみろ。ソレは常に文字を孕んでいる。原稿用紙は、脳のクローンだ。

文字は時間を含まない。空間も含まない。紙面上のインクの集合体としてただそこに存在している。最短のメディアたる文章は、3次元やら4次元なんてものを超越して、存在すらも霞の中だ。
インクの集合の持つ「意味」は見えないようで、確かに在る。見ず、聞かず、感じる。その速度は光を越える。

人様の文章を読む時、テメェの肉体は消えている。透明になっている。いや何も、ホントに消えているわけじゃねぇ。
テメェはテメェを認識できなくなっているんだ。
自己に対する透明化。
主体、客体なんてものは消え失せて、眼前の文章だけが、いや、文章の持つ「意味」だけが浮かび上がって立ち現れる。
全てを読み終えた時、肉体は「意味」と重なるようにカタチを取り戻す。

脳内の複製たる文章を作るのは容易ではない。人間は、平気でテメェ自身に嘘をつく。カッコつけるし、カワイ子ぶる。インテリを気取ってはバカのふりをする。
文章を書くという行為は、テメェ自身の抑圧と、解放である。
全てを押さえつけ、全てを曝け出す。
気持ちいいんだ、これが。

テメェで書いた文章を人様に読まれた時、文章の「意味」の所在はテメェでは確認できない。脳のオリジナルはテメェで持ってるだろうが、その複製は、テメェの持ち物ではない。
いくら返して欲しくたって、2度とそのままのカタチでは戻ってこないと思え。

文章。どこまでも手段。

安易に脳を晒すなよ。恥をかく。

※先生はご存命です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?