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【#創作大賞2024 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』6章

このまま立ち尽くしてしまうと、僕らは世界が終わる日までここで僕ら以外の誰かから差し伸べられる手を待ってしまいそうで、僕はうつむいたままのアジサイの手を握り、観覧車へ向かった。

園内にいる人々は、僕らと反対方向に向かっていく。そっちの方には入口兼出口があって、一向気に気の利かない雨に嫌気をさした人々が早い帰路についている。

人とすれ違っていく僕らはまるで、川を遡行する魚みたいだ。
サケだったかな。
日本の川で生まれ、川を下り、外洋をめぐる。1万6000キロの旅。
故郷の川で産卵をする。
僕もアジサイも最後の力を振り絞って、観覧車へ向かっている様だった。

「もう、帰ろうか?」

アジサイは一言も口をきかなかった。
先ほどとは打って変わって別人だ。
雨に濡れたまま、急ぐ様子もなく。
魂が抜けたように、ゆらゆらと。
僕が手を放してしまったら、この人はどこかに沈んで戻ってこないような不安があった。

でも僕の手も、アジサイの手も雨でぬれているから、うっかり滑ってしまいそうだ。
そうならないように、僅かに力を入れて握った。

人の手はこんなに冷たくなるのだな、と思った。

何度か「帰ろうか?」とか「大丈夫?」とか自分でもどうしたいのかよくわからない言葉が飛び出てくる。

ーー私、人を殺したの

どこか別な国の言語みたいに聞こえた。
僕の頭の中ではサイレンみたいにけたたましく、アジサイの言葉が自動反芻している。

きっと、僕も今正常ではない。
どうしてそれがわかるのかっていうと、妙に冷静な部分が残っているように感じて、僕は少し遠くからこの状況を眺めているように思えているからだ。

100ミリ秒以下。
痛みを感じるまでの時間。
痛みは遅れてやってくる。
それまでは100ミリ秒、僕らはなんてことないような気がしている。
針で刺してしまっても、銃で撃たれても、僕らには何も感じていない空白の時間がある。

それを冷静と呼べるのだろうか?
心の衝撃はいつだって、遅れてやってくる。
寂しさだって、孤独だって、痛みだって、喪失だって、いつも遅れてやってくる。
車から降りて、見送った、テールランプのなかに、僕らは寂しくなるし、孤独にもなるし、痛くもなる、失いもするのだ。

僕は更に力をいれてアジサイの手を握る。
痛いともなんとも言わない、握り返しても来ない人形の手。

数時間前の笑顔と今の虚ろな表情。
僕にはどうすることもできない。

僕の頭のなかは冷静な気もするが、ずっと一本の線が熱を帯びているような感覚。じーんと麻痺なのかもしれない。

言葉は麻酔にもなりえるのか。
僕はすっかり参ってしまっているのかも。

人を殺した?いつ、どこで、誰を、殺したというのか。
それでいて、なぜ今日笑っていられた。笑っていることが出来たのにどうして急に泣き出してしまった?

僕にはわからないことだらけだ。

観覧車の受け付けの人は、僕らを見ると慌てて煙草を消して、ゴンドラのなかに案内してくれた。
もう、誰も観覧車に乗っている人はいないようだったし、受付の人は距離をとるように僕らを警戒していた。

死んだような顔をして雨に濡れた二人が観覧車にのる。
きっと意味がわからないだろう。
大丈夫、僕にもさっぱりだ。

ただ、どこでもよかった。

対面に座り、僕は窓の外を。
アジサイは自分の膝の上で握った両手を見ている。
もう涙を流してはいなかった。

「ごめんね、怖いよね」
頂上に差し掛かったころ、アジサイは口を開いた。
何に対する謝罪なのか、僕には思い当たる事がなかった。
僕は未だに傍観者みたいな位置にいる。

現実をうまく処理できていないのか、僕の感覚や常識や倫理は鈍感なのか。
後者であるとも思う。

「いや、全然謝られるようなことはないよ」

「うまくできなかったなぁ」

「その話には触れない方がいい?」

「大丈夫だけど、ツリバリは大丈夫なの?」

「何が?」

「だって、今、人殺しと二人きりの空間だよ」

数秒考えてみたけれど、僕にはとりたてて思い当たる感情がなかった。

「正直、僕はそのことに対して、あまり思う事がないんだ」

「どうして?犯罪者だよ?」

「どうしてなんだろう、もしかしたら僕にはどうでもいいのかもしれない」

「どうでもいいの?」

「アジサイのことがっていうわけではなくてさ、僕はね、現実世界にそこそこ嫌気がさしているんだ、いっそのこと自分の手で幕を下ろしてやろうかとも何回も考えた」

「うん」

「そう思うにはそれだけのことがあったんだ、別に今詳しくは話さないけれどさ、命とか倫理とか、そんなことにかまけているような余裕は僕にはないんだよ、日々の絶望でおなかいっぱいなんだ、だから歪んでいるのかも、いや、自分でも知らないうちに歪まざるを得なかったのかも」

善悪とか、倫理とか、常識っていうのは、そうであるかないかのどちらかに立てる者が選べる弱者に対する無理解と独善なんだ。

「そうなんだ、それって逆に私もどうしたらいいのかわからないかも」

「え、どうして?」

「人を殺したことを言うつもりもなかったけどね、言ってしまったとき、多分私はツリバリが引いたり、逃げたり、離れていくことを望んでいたと思うの」

「でも、そうじゃなかった」

「うん、とっても変な人」

「聞いてもいいかな?」

「うん、ごめんね、何でも聞いて、明日私自首するから」

「アジサイは誰を殺してしまったの」

アジサイはようやく自分の両手から視線を上げると、頂上からの景色に視線をやった。

「父を」

「そうなんだ、どうして?」

「父は人間じゃなかったの、多分殺さなかったら、いつか私が殺されていた」

アジサイは制服の下から白いお腹を出した。
見たこともないような痣があった。
僕はすべてを理解した。

「お母さんは?」

「私が7歳のときに病気で亡くなって、それから父と二人」

ゴンドラが一番下まで降りてきた。
係員が扉をあけてくれる。
僕はもう一回乗ってもいいですか?と尋ねた。
係員は頷いて何も言わずに扉を閉めてくれた。
追加でお金を払おうとしたけれど、係員は首を横に振った。

僕らが乗っていようといまいと、観覧車は回り続けるし、僕が観覧車の代金を払おうと彼の収入に直結しないから、関心がないのかもしれない。
案山子みたいな人だった。

「どうやって殺してしまったの?」

「ツリバリは優しいね」

「そうかな?」

「殺したのじゃなくて、殺してしまったのって、まだ何も聞いてないのに」

「確かにそうかもなんでそう感じたんだろう、アジサイは殺したの?」

「事故」
アジサイは力なく微笑んだ。

ーー父に殴られて、怖くなって、家の階段を下りる父の背中を押したら、転げ落ちて、そんな高さじゃないのに、動かなくなって、首に触れたら脈が弱くて……

アジサイの話は止まらなかった。当たり前だけれど、誰にも言えなかったのだ。

救急車を呼ばなかったこと、それが自分を助ける唯一の方法だと思ってしまったこと、アジサイのお父さんが亡くなったことに対して、アジサイは一種の救いを感じていること、後悔していないこと、死体が匂い始めてそれを隠すために一人で庭に咲いている紫陽花の下に死体を埋めたこと。月がとても綺麗だったこと。それでも腐敗臭が強くなってきたこと、それでもう隠せないと思ったこと。

「それでね、私って頭おかしいのかもしれないんだけど、なんだか最後の思い出みたいなのが欲しくなってしまって、ほら今日より先の明日からはさ、もうこれまでの私が築いてきた日常が一ミリも残っていない、繋がっていない明日の世界なんだよ、だからね最後に、普通の思い出がほしかったの」

私、学校に友達いないし、と困ったように顔をしかめる。

「遊園地にきてメリーゴーランドと観覧車しか乗っていないのは普通?」

「うん、普通普通」

「もう一回くらいメリーゴーランド乗ろうか?」

「ううん、いい、なんだかまた泣いちゃう気がするから」

「泣いてはいけない?」

「そんなことないけど、今日だけはだめ、今日だけは普通にしたかったから、どうせこれから嫌でも私に自由なんてなくなるんだもん」

アジサイの口ぶりから、彼女は本当に自分の父親を殺したことに対して罪悪感など感じてはいないのだろうと僕は思う。

僕も何度か父親に殴られたことがある。
鮮明に思い出せる。
小学2年生くらいのころに、何かに怒り散らかした父が、僕に馬乗りになって僕を殴った。

僕はその時から家族というものは誰かが作った幻想なのだ、と思ったし、父親のことを家族というよりは、通りすがりの人のようにしか思えなくなった。

今思えば、僕はなぜ、父を殺さなかったのか?
僕だって死んでいてもおかしくなかったのかもしれないのに。

「明日、本当に自首するの?」

アジサイは、頬杖をついて、僕の方を見ずに「うん」と答えた。
「私の人生はおしまい、短かったなぁ」

沈黙。
アジサイの視線の先。
手を繋いだ家族連れ。
灯のないゴンドラは、アジサイを閉じ込めておく檻みたいで、少しだけ息苦しくなった。
アジサイの人生は終息に向かっているのだろうか?
僕はどうなんだ?僕の人生とやらは、この先に希望や期待に満ちた、温水プールのようなところにでも繋がっているのだろうか。

親に捨てられたとき、いつのまにか数百万の借金を背負わされたとき、高校の頃友人に彼女を取られたとき、何も悪いことをしていないのに当たり屋に絡まれてお金をとられたとき、祖母に連れられて大人たちに囲まれた真冬の教会のプールで洗礼を受け、頭まで水に浸けられて息が出来なかったとき、僕はずっと思っていた。

『大人になったら』

きっと大人になったら、何もかもがよくなる。
これまでの不幸や不遇はリセットされて、僕は窮屈な蛹を飛び出して、月明かりのもとまた羽化するのだ、と僕は思い込んでいた。
そのために、今が辛いのだ。

『大人になったら』

違う。
大人になっても過去はついてまわる。
大人になって年を重ねて周りを見ればわかる。

恵まれているものは恵まれ続けている。
恵まれていないものは損ない続けている。

不平等な連続体に社会は目を反らしながら、自己責任を唱える。
自己責任社会には救済がなくて当然なんだ。

傷は齢を重ねるごとに深くなって、その人を離さなくなる。

僕が悪いのか?アジサイが悪いのか?
もううんざりだ。

アジサイの頬に当てられた手を掴んだ。
短く驚いた声。

「アジサイ」

「え、はい」

「逃げよう!」

「逃げ……何?」

「だから、僕と一緒に逃げよう」

「え、あ、うん」

「いいの?」

「えと、どこへ?」

「それは今から考える、アジサイはどうしたい?逃げたい?それとも自首する?」

「ツリバリ、急にどうしたの?」

「ずっと僕は逃げたかったんだよ、僕はもううんざり、アジサイは?」

「いや、私もそりゃ色んな意味で逃げたかったよ、でも……逃げた後でどうなるの?逃げ切るつもりなの?」

「後先のことは考えてないよ、ただの無責任な自暴自棄だから、でもそうだな逃げて逃げて花火でも見ようか、ほら、今年見れなかったこと、アジサイが今までできなかったことをしよう」

「ツリバリだって、そしたら犯罪者にならない?私罪を犯したし」

「そんなことどうでもいい、ルールがある社会に助けられたことなんてないよ、むしろ、僕はルールに則って生きてきたはずなのに、そのルールの隙間からずっとナイフで刺されてたんだ、今さら守ったところで僕は絶対に報われない」

社会への信頼なんてとっくに捨てていた。

「同情から私のために言ってくれてるなら、ちょっと冷静になってほしいかも」

「恥ずかしながら、僕はそんなに優しい人間じゃない、ずっとずっとあらゆることに怒っている人間なんだ、だから逃げるのは僕のためだ、ついでにアジサイ、君を誘っている、それに僕は君をきっかけに逃げようとしている卑怯者だよ、アジサイはどうしたい」

俯いたアジサイがぽつりと、まるで降り出した雨のひとしずくのように「花火」と言った。

「花火も見たいし、おいしいご飯も食べたいし、映画館で映画を見てみたいし、旅行だってしたいし、足湯温泉だって行ってみたい、普通に生きてみたい」

ずっと僕もそう思っていた。
誰かと花火も見たかったし、美味しいご飯を食べてみたかったし、映画館で映画を見てみたかったし、小さな子供の手を引く家族連れを見て羨ましくて苦しくならない人生がよかった。


アジサイは最後に呟いた。
「逃げたい」

アジサイの嗚咽が困ったように笑っている。
「なんで、ツリバリが泣いているの?」

いつぶりだろう。

涙なんて。

あの時にも、
あの時にも、
あの時にも、泣いて、とっくに枯れてしまっているものだと思っていた。

だから厄介なんだ。
人間は永遠に悲しくなれる生き物なんだって、証明されているみたいで。

そしてどうして、僕は泣いているんだろう?

「アジサイ」

「うん」

「逃げよう」



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