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どうりで見つからないと思ったよ。:眺める時間

今年の8月に撮った写真が現像所から返ってきた。経った3ヶ月しか経っていなのに子は小さく、大人は何も変わらないようにみえる。そんな記憶の振り返り。

寝ているふたりを撮っているつもりだったけれど、娘は起きていた。この時から3ヶ月が過ぎた今、こんなにも小さなかったのかと感じる。いまでは首が座り、脚の力もついてきた。息子は全く人見知りせず、大人にも同世代にも物怖じしない。グイグイ仲良くなろうとしている。

甥っ子たちと海にいった。妻の実家からクルマを10分走らせれば白い砂浜の海がある。海から遠い場所で育った私は、子を羨ましく思う。わが家から1時間半走っていることは何の問題にもならないね。

この時はまだ寄せる波に足をつけるのも怖がっていた。父ちゃんは膝までつけられるぞ。というマウントをとってみる。

遊んでいるのを横目に遠くの景色を眺めていると、釣りをしている男性がいた。ベタ凪に釣り糸を垂らして何を釣っているんだろう。釣れなくても気分がよさそうだ。

必死になると、この口になるんだよなぁ。

砂まみれになった手足を水で流す。与えられたものは、用途を限定しないことが大事。これは幼いからこそできることだなぁ。

さて、実家で過ごすといえば、ばぁばとのかくれんぼである。

どうりでみつからないと思ったよ。

子をみる妻の顔が好きだ。いつもいい顔している。この辺で褒めておくと、きっといいことがあるはずだ。

別な日、普段からちょっと遠めのところで撮っているからなのか、息子は何でも自分でやりたがる。その調子で自己重要感を養ってほしい。

ここは帰るたんびに撮っている場所。

窓際にあるベビーベットで寝かしていると、いい光が入ってきた。
首の傾き遺伝子は、ふたりとも私のを受け継いでいる。これが落ち着くんだよなぁ。

ちょうどリフォームをしていたので息子もそれを手伝っていた。

祖父の墓参りにきた。

墓地内は彼らにとってダンジョンになる。

息子は甥といるとたちまち次男になる。何をするにしても彼のあとを付いていき、彼の真似をしている。

多少、あぶないことでも手の届く範囲なら距離をとる。怖いとか、危ないとか、そういうスイッチは自分で押せるようになっておいたほうがいい。手が出そうになるギリギリまで待って、どうしようもない時は手を後ろにくむ。

枝豆を見つければ一目散にそこへいく。お構いなしな姿勢に少し憧れる。

子がみんな裸足であることとか。

そうめんの溜まり場に手を突っ込んでいるだとか。

どこかこう、険しい表情をしている時であっても。

喚き散らかして制するよりも大事なことがあるように思う。彼らが大人になってみないとわからないことだけれど、親もまた大人になりきれていないし、なりたくない。子から学ぶことは星の数より多い。

無重力に妻に身を預ける物体がこうも愛おしいものだとは。

釣り堀へいった。よく釣りに行く兄が輝いてみえたけれど、写真にしても輝いてた。

風景に貼り付けたような妻。

釣り堀の中を泳ぐヤマメを撮りたいと思った。

そうか、釣りあげて撮ればいいのか。と思った。

釣り堀の脇を降りていくと、心地よい場所がここにもあった。キンキンに冷えた沢に足を付けて満足だった。

あなたには、どんな世界がみえているんだろう。

私にはこういう光景が美しいと思う眼がふたつほど付いている。

そしてこういう光景は何より大事にしたいものである。

妻方の家族でも、”義理”のという装飾語は付けないことにしている。なんとなく、距離感ができるのが嫌なんだよね。なんとなくね。

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松田佳之
山のため、子のため、写真のために使わせていただきます。いつかお会いできれば嬉しいです。

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