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世界の好きを集める。集めた好きを伝える。


写真を撮るということはなんなのか。常に考えている。と書こうとしたら、一つ前の記事でも似ていることを書いていた。毎日同じようなことを考えているのだろう。


小さな成長過程を楽しむ。転んだらその時に考える。


息子がじいじの真似をしてみかんの皮をティッシュに乗せていた
好きな光景が目の前に現れるまで待つ。

さいきん、noteを書き始めた頃の内容を見返して、言葉尻の修正を加えている。なるほど、書くときのテンションと読む時のテンションは全く別の盛り上がり方をみせるのだな。と1人で感心している。

何かを自分自身が発信する。ということは、
その送り手と受け取り手の両方の視点からものがたりを愉しめるという点にある。と感じている。

自分だったらこう書くな。こっちの表現が好きだな。この言い回しはないよね。というのを、自分の身からでた錆を使って永久機関のように体験できる。

無人島からコールを送って、無事にレスポンスがあれば生き延びることができて、無いなら無いでも死なずに愉しめるという面白さがある。

自分で書いたnoteを振り返ると、生活や仕事をする中で感じた出来事を起点に書き進めていくことが多い。7月に始めたnoteも気づけば143個の記事を書いていた。

今なら青臭い文章がまじまじと読めるので、ぜひ読んでほしい。
書きなおしたところでその青臭さは消えないのかもしれないけど。

人生の大半は、無駄なことばかりだけど、その無数の無駄なものの中から抽出された言葉や写真たちは、浅煎りにしても深煎りにしても味わいが出てくるのだと信じて、書いたり撮ったりしている。

今、コーヒーを飲みながら書いているからコーヒーに例えてみる。


いつも同じペーパーで抽出していたものが、麻でできたフィルターに交換しただけで、コーヒーの味は劇的に変わったりする。
この、紙なのか、麻なのか。ステンレスなのか、
という部分は例え話の一つで、
そのフィルターは人間でいう感性の部分、コーヒーは出てくる言葉や写真だと理解してくれればいい。豆のことを理解していなければ、そもそも文脈はよくわからないものになったりする。

そのフィルターの選択肢を広げるためにできることが言葉や写真を書いたり撮ったりすることで、その前段として、人に会ったり知らない場所や物語を知ろうとするのだと思う。

写真が好きだから、きょうも写真の話をするけれど、
人それぞれ、なんで撮っているのか。ということは、当然違う。

一方で、根っこの部分には、誰しもが好きなものに目を向けているはずで、
撮ることが嫌いになってしまった人も、少なくとも、初めのころは誰しもが楽しくて仕方なかったはずだ。

好きな光景を目でみて、カメラで撮る。その写真を誰かに伝えた時に受け手から得た言葉でさらに人生に深みが増していくような感覚をいままさに得ることができている。

世界の好きを集めて、集めた好きを伝える。

この時の世界というのは、何も大陸を駆け巡って集めなければならないわけではなく、その人自身がその2つくらいの眼でみた半径20m程度の世界をその人なりのフィルターを通して、集めるという楽しさが写真にはある。

書いているうちにコーヒーが冷めてしまったけれど、
美味いコーヒーは冷めても美味い。きっと豆のおかげだろう。



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