繊細が何だ。HSPの中身。

子供の頃から、まだ新しめの小さな身体に対して錆びたような心を持っていたように思う。どうしてそんなに楽しいんだろう?それが何だっていうんだろう?仲間に入っていけない。
いわゆる無邪気とは疎遠だった。それじゃあ友達も出来難いだろう。

ぬいぐるみに心はあるし、風は起こせるし、星がついてくるのは自分の味方だから。空気にだって話しかければ届いているような気がする。

でも大人が笑ってくれないといけない。私が笑わせないとだめだ。自分を犠牲にしてでも他人を笑わせてあげられるような人になろう。
そして知らずのうちに顔色を伺っている。

気がつくと現実と夢を行き来するような思考でずっと生きてきた。
妙に現実的で自分ですら温度を感じないような気持ちのときもあれば、未だ捨てられないぬいぐるみに心のどこかで寄り添っている。

他人がそんな気持ちで生きていないことも知っているし、わたしの考え方はいつも何故自分が他人の下敷きにならなくてはいけないのか。
私という感情は他人の前で無であっていいのか。たくさんの自分の心と話し、成人になってやっと答えを見つけた。もともと人の顔色を読めるぐらい演技力は確かだった。だからこの演技力で繊細で暗い部分をカバーしよう。
そうやってずっと生きてきたら、熟練度があがり段々と図々しくなったように思う。
小さなことを気にしがちな、ひとりのファンタジーな子供の心が「それでは社会で生きていけない」と演技力で作った防具を纏っていたら、どっちが本当の自分かわからなくなってきて、どっちも自分になってしまった。
思春期には自分が2人いる…と思い悩んだのが嘘のように今すんなりと全ての感情は自分と言い切れるところまで来た。
繊細さは大人になるにつれてやや消える。
いつかは繊細さって何だっけ、ってところまで行ける。
世のおばちゃん達を見ていると、そんな気がする。デリカシーとは一体。
でもそんなのも嫌いであり嫌いじゃなかったり。
ある時を境に強くなるのか忘れてしまうのか。
だんだんとなのか。
人間は忘れて行く生き物だから成せる技。
恥ずかしさは過ぎてしまえば今更なのだ。
あれは少し冷めたホットミルクみたいな、ぬるま湯のように思う。
なんだっけ、あったなあそういうの的柔い思い出になって思い出すのを繰り返しては薄れて無くなっていくんだろう、自分。
薄れていくのをいつ感じて気づいていくのか
心と身体が動くうちは見つめていたい。

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