「○」との邂逅
洗面所の床に「○」がいる。
「○」は何かのメタファーや象徴ではなくて、本当に「○」なのである。
「○」がそのまま、白い床に、ポンと存在しているのである。
きっと皆さんは遭遇したことがないと思う。
黒い線で描かれた「○」は、直径3㎝にも満たないだろうか。
よく見ると「○」は一筆書きで幾重にか描かれているように見える。しかし、絵ではない。ぐるぐるととぐろを巻くようになっているが、それにしても綺麗に「○」を描いている。結果「○」の円周は太くなっている。
つまり、正確には「〇」である。
noteのボールド体機能もこんな形で活用されるとは露にも思わなかっただろう。ただ、PCでの「○」はボールド体に対応しておらず、少し横広の「〇」でしか表現できないのは残念なところである。より正確を期して本文中では「○」に統一したいが、読者のみなさまは脳内で「○」を「〇」の太さに補完していただければ幸いである。
さて、もう何回「○」を用いたかわからないし、鍵括弧を含めた何か新しいオブジェクトが見えてきそうになっているので、そろそろ正体を記す。
私は、くせっ毛だ。
それに加えてそこそこに太い剛毛で、毛量も凄い。
そして厄介なのが私のくせは顔回りにしかない。
頭頂部から後頭部、側面部はほぼくせがないただの剛毛なのである。
何とも統一感のない頭髪である。
そして、そこそこの長さがある。
「くせが出るなら短くすればいいじゃない」という輩(母)にそそのかされて短くしたが、切り落としたところでくせは変わらないのだ。金太郎飴と同じ原理である。
切り込んでも切り込んでも、そこはくせ
なのであって、種田山頭火もきっと同意してくれると思う。
話が逸れたので、ここで整理すると、
これが「○」の正体なのであった。
なので、もし読者の皆さんが我が家にやってきて床に「○」を発見しても驚かず、私の掃除の至らなさを笑ってやってほしい。
◆◆◆
本当にこの髪には悩まされた。
小さいころ、駆けっこが速い子が持て囃されるように、思春期になるにつれ外見の市場価値は高騰していく。中でも頭髪はかなり重要な部位であるのは明白で、大体のアニメや漫画における美形キャラクターは風にサラサラとなびく、繊細で、真っすぐな髪の毛なのである。現実世界においてもそれはほぼ等価で、綺麗な髪の持ち主は概してヒエラルキーの上位に位置しているのだ(多分の偏見と僻みがあります)。
それから、当時は前髪を伸ばすことが流行であった。イケてる人は前髪を伸ばしていた。キムタクはフッと目にかかった前髪に息を吹きかけて髪を整えていて、それが時代の最先端なのであった。
当然、私の髪は風にはなびかなかった。思春期のホルモン生成は著しく、私のくせは人生最高潮を迎えていたため、前髪を伸ばしたところで、私の髪はニュートンの重力法則を無視し、まるでフランス革命の民衆がごとく、めいめいが思い思いの方向へと突き進む有様なのであって、そこではキムタクの吐息ごときに屈する前髪ではなかったのである。
ありとあらゆる手を尽くしたが、まるで先の絵の民衆たちの足元に転がっている屍のように、悲しみと絶望に染まってしまっていた私だったが、往生際は悪かった。
近所の床屋から駅前の美容院へと大人の階段を登り出した当時の私は、こんな言葉を知った。
「縮毛矯正」
これだ。
これがこの戦いに終止符を打つのだ。
誰もがそう思っていた。
確かに、髪は真っすぐになった。しかし、問題点も浮き彫りになった。
まず第一に、絶望的に直毛顔ではなかった。まぁこれは好みなので仕方ない。重要なのは二点目である。
伸ばしても、伸ばしても、根本はくせ
種田山頭火から学ばなかった私は、数日後痛い目を見ることになる。
髪が伸びるのも当然早い私は、次第に違和感に気付く。そう、髪が伸びてきているのである。そして伸びてきた髪はあの忌々しいくせっ毛なのである。
すると何が起こるか。地獄の始まりである。
異様に真っすぐな毛先と、重力を無視し暴徒化した生え際を持った私の髪型がどうなったか、皆さんは想像できるだろうか。
賢明なくせっ毛読者はこのシングルデザイン研究の結果を無駄にしないでほしい。これ以上悲しみが広がらないことを心から祈っている。
◇◇◇
とまぁ散々に書いてきた訳が、最近は「○」のことも好きになってきた。
私の思春期のホルモンと暴徒たちも、段々と聞き分けが良くなってきた。『年を取ったら丸くなる』とはよく言ったものだなぁと思う。いやまぁ、私の髪は「○」なんだけれども。そういうことじゃなくて。
何もしていないと「相変わらず凄いっすねー」と担当の美容師さんから言われるものの、きちんと扱えば後ろに緩くカールして流れてくれるようになったし、美容院で髪を乾かしてくれる新人アシスタントさんたちは「ここ、いいくせですねー!パーマかけてるんですか?」と口を揃えて言ってくれるので嬉しい限りである。
何が言いたいかと言うと、年を取って自分を認められるようになったのは成長なのかなと思うことである。『認められる』というほど美しくもないから、『諦められる』という方がいいのだろうか。
結局躍起になったところで本質的な部分を変えることは難しいし、スヌーピーも言っているように、配られたカードで勝負するしかないのだ。
隣の芝はいつだって青いし、
いつだって、ないものを探してねだってしまう。
でもね。
元々持ってたイマイチなものも、大切にしたり、ちゃんと向き合ってみたら、意外と悪くないのかもしれないよって。
時間はかかるかもしれないけど、その時間も、色んな思いも、経験も含めて、きっとそれは大事なものだって思える日が来るよって。
そんなことを思いながら…
床に落ちた「○」をいそいそと掃除機で吸い込むのであった。やれやれ。
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