見出し画像

最近のLGBT運動の高まりに対して、押し付けるのは違うよねという意見は違う

最近の日本のLGBTのネットの反応にはよく、LGBTがいいか悪いかは置いておいて、価値観を押し付けてくるのはやめてもらいたい、や気持ち悪いと思う言論の自由や個人の尊厳は守られるべきじゃない?という意見がよく見られる。
しかし、「押し付けるのは間違っているよね」と言う人は、個人的な信念を他人に押し付けるのではなく、意識を高め、平等を促進することが目的であることが多いLGBT活動の目的について誤解していると思う。むしろL GBTの方が今まで人間としての尊厳を抑圧されてきているのだし、それをいうならLBGTの尊厳をどう守ったらいいのか建設的な議論をしようじゃないかと反論するが、そんな論議は置いておいて、LGBTの議論によって、今まで普通だと思っていたものが機関銃で乱射されて攻撃されているように感じているのだろう。
今まで生きてきたものと矛盾する価値観について、躊躇や拒否反応や強い抵抗感が出るのは、人間の自然な心理的反応だ。しかし、性の多様性やフェミニズムや男女平等は、言論の自由や個人の尊厳と対立、敵対するものではない。むしろ、LGBTはそのために戦っており、むしろ彼らの価値観に賛同していて、同じ土俵に立っているのだ。
また、LGBTやフェミニズムは個人的な意見や信念ではない。社会構造に対する社会活動だ。だから、社会問題に対して、ツイフェミはブスでモテない女性、性転換手術をしても生物学的には男性などという全く意味のない言葉遊びをしても、現実の問題は解決しない。
固定観念や長年受けて育ってきたゲイや同性愛者への無意識にまで刷り込まれたステレオタイプを変えるのは大変なことだ。しかし、実際のゲイについて知れば、こんなイメージだと思ってたけど案外普通の人なのか、とステレオタイプを転換することができる。このステレオタイプへの分解を何度も繰り返していく経験に日常的にさらされることで、性の多様性を支持する人が増えていくと信じている。
私は、性の多様性に関連する議論について否定的反応を示している人は、実際にゲイの友人がいない、芸能人ではない一般のトランスジェンダーを見たことも直接話したこともないことが多いのではないかと思っている。LGBTの歴史や、彼らの自殺率とホームレス率の高さ、日常生活でどんな差別にあっているか、どんな気持ちで生きているのかについて全く知らないのではないか。しかし、相手について知らないのに、ステレオタイプを仮想敵にしていると気づかない人が案外多い。
私もBLを読んで10年以上になるが、男性同士の恋愛は空想上のファンタジーだった。ゲイという言葉は知っていたが、架空の存在感があった。海外でゲイやBLを読んでいない女性や男性から、BLはゲイ搾取、ゲイフェティシズムだと批判されていることに、腐女子が性差別の加害者であるという見方にショックを受け、受け入れるにはそれなりの時間がかかった。
BLには架空上だけでリアルは無理という人もいるし、リアルもありという人もいる。しかしそのどちらでも、BLが好きということは自然にゲイをサポートすることを意味しない。仮に腐女子がゲイを目の前にして、うわあ、本物のゲイだ!という興奮状態や、ゲイがキスしているところを見て好色反応を隠し切れないとしたら、それはゲイを擬物化しており、対等な人として見ていないということになる。
私はBLを好むことによって、BLの中にほとんど正しいゲイの日常生活や、恋愛や性行為が表現されていないことで、またBLにはほぼ性行為を含むものを占めることから、ゲイはセクシュアライズされ、ゲイへのフェティッシュなイメージが作られ、慈悲的な差別が起こるということに気づかなかった。女性が男性から性的な目線でばかり見られたら嫌なように、ゲイ男性も女性に性的な目線しか受けなかったら不愉快だということに、反対の相手の立場の意見を聞いてようやく気づけた。
そのプロセスには、でも女性だっていっぱい性的化されてるからBLという男女の物語の解放を書いて、自由な恋愛を描いてるのに!という押さえ難い被害者意識との戦いがあった。そこにはゲイ男性とシス女性とシス男性という交差的な被害者/加害者の力関係が存在するのだが、BLについてポジティブに捉えたい気持ちは一旦押さえなければならなかった。それは相手の立場に共感することへの言い訳と妨げなのだ。相手の視点をよく知れば、そのような気持ちは無くなった。
昨日はイギリスのLGBTパレードに参加した。今年のテーマはnever march alone もう一人で行進しないでという、近年トイレ問題などでヒートアップするトランスジェンダー差別を中心にしたものだった。trans rights are human rights トランスの権利は人間の権利。団体を表すプラカードの色や、フラッグを持ち歩く人は薄いピンクとブルーのトランスジェンダーのフラッグの色でパレードはひしめき合っていた。
多くのトランスジェンダーの人が綺麗な格好をして、愉快に行進する姿を見て、彼らがrepresent 表現されていることに感動した。私自身もBLへの自己批評を通じて、自分のノンバイナリーというジェンダーアイデンティティに気づけたのだが、こんなに自信を持って街を歩くことができたことはなかったと、涙が出てきた。今まで社会で表現されてこなかったのか。社会に存在しない、従属感が感じられない、話題にも上がらない、無視されている。トランスジェンダーの人々はそんな気持ちでずっと生きてきたのかも知れないと思った。
だから今もしあなたが、でもゲイって気持ち悪い、トランスジェンダーの人がトイレにいたら怖い、性の多様性とかでこれからポリコレ棒で殴られるの怖い、子供にジェンダー教育したら良くない、などと感じていたら、反論する前にまず相手の視点に立つことを試してはどうだろうか?
見える世界が変わってくるかも知れない



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?