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田山花袋「蒲団」1-6

 前回1-5では、「1人称のような3人称」とは、実は時雄の滑稽さや醜さ、恥部を際立たせるために必要な視点だったということがわかりました。

 今回は、参加者のお互いの意見を聞いた感想や、それを踏まえた作品への感想などをまとめ、私たちの読書会「もっ読」の雰囲気を感じていただけたらと思います。

<人間ほどはかないものはないという、男の悲哀>

 前回、あえてIさんの意見を長めに引用したのは、この、私小説を愛するIさんの意見を聞いて、他の参加者の中に、作品が違った角度から見えてきたというか、もう1度読み直してみようという機運が生まれてきたからです。まさに情熱は人を動かす、ですね。

 たとえば最後の感想でAさんは、「最初読む時に、面白い目線で読んでしまったので、今(Iさんの)お話を聞いてて、確かに言われてみれば、面白く、楽しく読める工夫がされてるんだなというのが気づきでした」といい、「すぐに面白くなって、そんなわけないでしょ、とつっこみを入れたくなるので、それをセーブしながら、次は面白さに負けないように、そういう点も考えながらもう1回読んでみたい」と満足そうに話してくれました。

 これを受けて再びIさんは、「僕もいろいろ笑いながら読んだんですけど、リボンの匂いも嗅ぐんかいとか」と笑いつつ、「この話の核心は、老いの悲しみじゃないけど、人間ほどはかないものはないというか、男の悲哀というのが文学的テーマとして、僕はすごく共感できるし、今読むとよくわかる」とまとめてくれました。これはNさんの意見にも近いですよね。今回、アプローチは異なるものの、男性の参加者がこの小説に同じようなテーマを読み取り、共感を感じていたことがとても興味深いことだなと思いました。Iさんも大学生の時に読んだ時はピンとこなかったといわれていましたので、もしかするとこの小説はある程度の年齢に達した男性の琴線(寂しさとか悲哀とか)に触れる普遍性があるのかもしれませんね。

<虚構と現実の境目、「私小説」の位置づけ>

 一方、最後まで時雄に辛口だったのはSさんで、Sさんは最後に、「時雄は、激しい恋に余りにも憧れすぎているというか、とりつかれている」といい、「いろんな小説を読んできて、文学者といわれているのに感情に負けてしまっているというか、まるで自分が小説の主人公(主人公ではあるんですけど)であるかのように没入してしまっているという気がして、小説を読みすぎて、女性に没入してしまったために、没入しすぎて身を亡ぼすという小説があると思うんですけど、それと同じなのではないか」と鋭い指摘をしてくれました。

 なるほど。本人は意識していないけど、ドン・キホーテ的というか、そんな感じですかね。小説が多く出てくるのも、小説の読みすぎで、小説と現実の境目がわからなくなっているとも取れますよね。確かにそういう側面はあるように思います。

 最後にKさんは、Aさん同様、Iさんの話を聞いて、「もう1度ちゃんと読まなくてはと思った」といい、「世界的に見て、私小説というのがどういう位置づけなのか」ということを考えたといいます。

 小説というのは、近代にできた文学形式ですが、その日本的な変種ともいえる私小説というのは、訳すときにとても難しくて、英語で論文を書く時には、私小説のことをあえてそのまま「Shishosetsu」と書いたり、そうでなければ「I-novel」と書いたりするようです。つまり、外国には、これにぴったりあてはまる文学形式がないんですね。もちろん一人称の小説がないということではないんですが。


 以上、1-1から1-6まで、今回のまとめでした。今回は、他の人の意見を聞くことで、自分の読みを省みたり、深めたりしていくという、読書会の醍醐味を実感させるような流れとなりました。実は次回もこうした流れがさらに加速していくことになりました。お楽しみに。

 最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

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