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田山花袋「蒲団」2-2

 2-1は、作品を読むのに、おもしろそうなモデル・伝記的な視点の話でした。
 今回は「女学生」というシンボルと作品の視点についての話です。

<作品の注目点「女学生」というシンボルの変化>

 「蒲団」の同時代的な文脈で考えた時に印象的なのが、「女学生」というシンボルがうまく使われているということです。

 たとえば、ヒロインの芳子は上京してきた女学生です。
 当時の富裕層のインテリ女子、新しい女性の典型として、そのトレードマークの庇髪やリボン、海老茶袴といったファッションが強調されて、繰返し描かれています。
 これと対比する形で、主人公・時雄の妻は丸髷に結った、旧日本式、旧世代の女性の典型のように描かれていて、時雄は新世代の側、すなわち芳子にシンパシーを感じている。

 しかし、芳子に恋人ができてから、言い換えると、自分の都合に合わなくなってからは、庇髪から「高い二百三高地巻」へと変化した芳子の最新流行の髪形について、時雄はかなり冷ややかに見ていて、〈堕落女学生〉という言葉に代表される、女学生を批判する教育家の側に立っている。
 というより、いつの間にか時雄自身も旧世代としてとり残されている側になっていることがわかる。
 
このように、時雄の気持ちの変化に、女学生というシンボルが実にうまく使われているんですね。

<登場人物の視点の問題>

 次に、語りや視点の問題についてですが、前回のもっ読でも話が出たように、『蒲団』=私小説の元祖という文学史の常識に反し、この小説は三人称で書かれていて、作者が単一の視点からの告白体だけで書こうとしているわけではないのは確かです。
 実際大半の場面は時雄の視点で語られているものの、時雄以外の視点で語られている場面もいくつか出てきます。ただ、そのつもりであらためて読み返してみて気になったのは、主人公以外の視点で語られている部分でも時に、ついつい主人公に望ましいことを語らせてしまっているように思えるということです。

 たとえば、芳子の視点から彼女の心理が語られる場面がいくつかありますが、そういう場面では、師匠の時雄に心酔する彼女の、師に対するゆるぎない絶対的な信頼が繰り返し語られていて、時にそれは、小説の展開からは無理があるように見える芳子の心情、あるいは時雄が望む芳子のあり方のようにさえ思えることがあります。
 恋人とのことを反対されている場面でも、時雄に対する反発はまったくないように語られていますし、それどころか、時雄による文学の講義の場面では、本当は時雄と恋に落ちるはずだったのに、一通の葉書から心ならずもというか、成り行きで田中と恋に落ちてしまったというようなことが、芳子の心理として語られてもいるんですね。
 まるで芳子の視点を借りて、時雄の声を口パクで代弁しているかのような印象を受けます。

 また、作品の後半、芳子の父が上京する場面では、芳子がその父親の方に母親以上のシンパシーを抱いていることが語られています。
 しかし、それまでの場面では芳子は旧思想の父に対して一貫して批判的だったのに、ここで一転して父へのシンパシーが語られるのはいかにも唐突です。
 実は、田中と芳子との仲を裂いてくれる父親にこの時シンパシーを感じているのは、むしろ時雄の方なんです。ここでも芳子の心理が時雄の口パクみたいに感じられるんですね。

 ほかにも時雄の妻や芳子の父の視点で語られる場面もわずかながらあるのですが、そこでもやはり時雄が知り得ないような情報は出てきません。

 作者がいろいろな人物の視点から書こうとしていたのは確かに感じられるのですが、ただその意図に反して、いずれの人物の心理も主人公の時雄にとって都合のいい、彼の心理の反映になっているように思えるんですね。

 この、時雄以外の登場人物の視点と語りについて、参加者の皆さんに意見を聞いてみました。

 前回から参加のSさん(女性)は、確かに「芳子はそう思った」というところも、本当かと思うことがとても多かった、第3者の視点のように書かれているが、時雄に都合のいいように語られている気がして、特に芳子の気持ちは「違うだろう」と感じたといいます。
 また、芳子は当時では最高の教育を受けているはずで、性格的にも従順ではないように書かれている。
 それを考えると、最初は、師に出会った当初、熱烈なファンレターを書いたりしているところなどは「渇仰」があると思うけど、実際に東京へ来て一緒に暮らしてみると、時雄は小説を書かずに、地理書を書くという全然違う仕事をしていて、本人はくすぶっている。
 それで尚且つ、自分の作品じゃなくて、翻訳文学、西洋の文学を持ち出してきて、さもすばらしいかのように語るけど、その講義の内容は、というと、小説のテクニック的な所ではなくて、ただ物語を読んで聞かせて、登場人物の心情について「悲しいね、つらいね」みたいな感じの話しかしてないような印象を受ける。
 そういう講義を受けていると、少しは文学を志す、最高の教育を受けた者としては「何だよ」って思うと思いますけどね。それって「指導」じゃなくて、ただ自分の好きな若い女の子に、ちょっと偉そうに西洋のすごい作品を持ってきて、自分の心情をその小説をダシにして、(その女の子と)どうかなっちゃったら嬉しいな・・みたいな。とSさんは、時雄の彼女への講義・指導の内容と芳子の彼への「渇仰」とのギャップに違和感をもったと言います。

 その上で、芳子に対する描写がすごく細かい点に着目し、「髪がどうで、においがどうで」というような描写もあるっていうことはつまり、芳子に対して凝視しているわけですよね。その視線は弟子に対するものじゃなくて性的対象としての視線をずっと芳子に眼差していたわけなので、気持ち悪かっただろうなと思って。そういうことしか思えないですね」と、真剣に文学を志して上京してきた若い女性の視点に立って語ってくれました。

 確かにSさんのいうとおり、ここまで心酔するかな、最初はわかるとしても、あとのほうで恋人ができてそれを反対されて、反発も感じずにここまでずっと信頼しきれるかなというのは、ちょっと違和感が、少なくとも今の目から見ると、あるという気がしますね。

<まとめ>

 「女学生」というシンボルの変化が、すなわち時雄の心情の変化である、という描き方はおもしろいですね。
 ただ、複数の登場人物の視点が、それぞれ描き切れているのか、という問題は残りますし、時雄の視点は、師匠と弟子という関係をはみ出し、その一方的な視点が芳子にすり替わっているような印象はあります。

 そもそも田山花袋はなぜ、このような作品を書こうと思ったのか、という作品世界にかかわる部分、また描き切れていないとすれば、それはどういうことなのか、など、興味は尽きません。
 次回は参加者の感想も交えながら、野田の作品解説が深まっていきます。

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