濫費・消尽
「バタイユは、論文「濫費の概念」(1933)の中で、近代社会について「物の生産・保存と人間生命の再生産〔生殖〕・維持という二つの主要な活動領域をもつ、功利的社会であると述べる(Bataille 1985:116)。消費は、このような特質に適合するためには、自己保存的でなければならず、過剰であってはならない。ところが、バタイユら消費の二つのカテゴリーを区別する。個人の生産的生活を継続するのに必要な最小限の消費と、「非生産的濫費」としての消費である。後者の例としては「奢侈、葬儀、戦争、宗教的儀式、豪華なモニュメントの建設、賭博、見世物、芸術、倒錯した〔生殖に奉仕しない〕性活動・・・」などがあげられる。バタイユは、これらの活動はすべて「それ自体を超える目的をもたない」と述べる(Bataille 1985:118)。」「・・・濫費と「非生産的活動」に関してここで説かれている思想は、弁証法のような全体化のシステムを受け付けない概念である。というのも、喪失をもたらす活動は思想と行動の厳格なシステムを受け付けない概念である。というのも、喪失をもたらす活動は思想と行動の厳格なシステム「内部」にとりこまれることは困難なのだ。結局最終的には、濫費は私たちを弁証法の限界へと連れて行く。」(リチャード2006:28-29)
〈コメント〉
非生産的濫費の例として挙げられる奢侈、葬儀、戦争、宗教的儀式、豪華なモニュメントの建設、賭博、見世物、芸術、倒錯した〔生殖に奉仕しない〕性活動といった行為は、心理的効果や人間・社会関係の円滑化などにとっては有用的であるように思う。この概念は全く無意味な行為というわけではなく、バタイユが冒頭でも述べているようにあくまでもマルクス主義の物質を中心とした財の生産や必要最低限の消費、人間生命の再生産のシステムからは、はみ出た行為を指している。ここでの「生産」の定義に注意する必要があるかもしれない。これらの行為は、非物質的な心理面や社会関係などにとってはある効果が期待できるし、そうした効果を期待した行為である側面がある。そうした非物質的な効果が人間社会の維持システムに組み込まれていることは間違いない。バタイユの運動は、近代社会の合理主義、経済重視の思想や歴史観、価値観を乗り越え、再構築しようするものであるように思う。
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