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閾値について

閾値という言葉にひどく反応する。
いきち と読ませたり、しきいち と読ませたりする言葉だ。
動物的な知覚のようなものが、閾値という言葉に反応する。ひどく。

普段の会話ではほぼ使ったことがないと思う。常用外漢字だし、何処かの文章の中で見かけても、読み方も意味もうろ覚えで、その都度辞書で調べていたりする。ああ、いきち かと思い、読んでいた文章をすこし放っておいて、考えだしてしまう。

いきち しきいち しきい しきゐ 敷居 入り口 境界を越える値。感覚、反応、興奮を起こさせる最小の強度や刺激などの物量。変化を起こさせる最小のエネルギーの値。

境界を越える時に、放出され、測定された値。作用したとされるエネルギーの量、物量。

春になると、おおかた、花が咲く。道の端や田畑の脇に、すいすいと伸びた茎の上に、花がゆらゆらと咲いている。小さな花、中くらいの花、横に広がった花、花弁の形に特徴のある花、茎を伸ばしながら次々に咲く花。同じ種類の植物が群れているところでは、花がだいたい同じ高さに咲いている。これは当たり前なのかもしれないが、私はいつも驚いてしまう。花はどうして、その高さに気づくのだろう。茎の先で、さてそこで咲こう、と何故なるのだろう。

閾値 しきいち 敷居値

水蒸気の飽和状態と温度とほかの何かで、雲ができる。条件によって雲の形は違うし、空の高さの違う層にいたりする。刷毛で引いたような薄い雲の手前に、塊りになった雲が早い速度で移動していたりする。天井のような平らな底を持った雲をみると。ここから上は雲ですが、ここから下は見えない水蒸気に戻ってますよ、とか、雨になってますよ、とか、なにか、雲の都合が働いているのだろうと思う。

花は雲のようだと思う。空き地に咲いた野花の群生が、同じような高さで点在し、咲きながら風に揺れているのをぼんやり見ていて、閾値を思う。水と温度と何かの都合で一斉に花が咲いている。私たちの膝ぐらいの高さで、何万キロメートルの標高で起こっているのと同じ、水の閾値のものがたりが広げられているような感覚になる。私が巨人になったのか、大気の層がフラクタルに顕われているのか。不意の相似性に出会うと、無限と刹那が共に畳み込まれていくような鎮まった気配を感じる。そこでは、不断に生成されている、見えるか見えないではなく、或るものが生成されている。

詩の領域について、考えてみている。考えてみているのは、私が詩についてわからないからだ。詩情というもののは、確固とした手触りが無い。共有できるものとして、差し出せる型がない、と言ったほうがいいだろうか。もやもやと漠々としているのに、何かが確かには或る。


領域、ここからここまで、とか、言葉の選び方や、並べ方や、文章形式の違いや、自然を心で感じるとか、人間文化の表現や、表現を否定する表現とか、何やかやある。音楽的、韻律、定型、散文、なんでもありだが、表現すべてが詩ではなく、詩になる領域と詩にならない領域がある。不思議だった。詩の領域を表現するのは、言葉でなくてもいい。踊り、音楽、建築、演劇、生活や、場や時にもあると思う。

詩の生まれる閾値はどこなのだろう。

私が詩を書くときは、心に掛かることを忘れている、そして集中している。

私は私の意識から後退している。視線を眼球の中でひっくり返し身体の軸へ向ける。世界の風と水に向けて身体を澄ませる。そのときに、閾値へ至れば、詩の領域に居る状態になっているのだ、ろうか。

接点 接面 触れる場とは何か。

詩が生まれるしきゐは、何かの閾値である。

値があるだけで、面でも点でもない。

行為者は点と感じ、他者になりある集合を見れば面となるのか。

滅ぶと生ぶが同時に起こっていて、無限と刹那が顕れている。

私にとって閾値とはそう言ったものに感じる。

そして、詩の領域とは何か、については未だ言葉染みた答えを持っていない。

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