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割って、プラモデルを

 司馬遼太郎著「割って、城を」は茶人であり大名の古田織部正の話である。古田は茶器の目利きで天下に並ぶものはなく、たいした武功もなしに出世をしたのである。古田が目利きをしたものは部屋の隅に転がっていたような茶碗であっても、それに価値があれば名器になるのだ。古田に誘われ仕えることになった主人公の善十はそれを間近にして「かような外法を人間が用いてよいものか」と評している。そして、古田は目利きのみではない。古田は天下の名椀を集めてはそれを「割る」。割ったものを金で継ぐ。古田いわく、一度壊し、金で継げば、そこに金とともに自分を注入することになり、自分の作品になるのだという。

 この話の主だったストーリーはここではなく上に書いたのはあくまでディティールの部分なのだが、この部分が好きで何回も読み直している。

 プラモデルは完成形がある程度見えている。箱には完成図が写真なんかでついているし、説明書はある一つの完成形に向かうように道を示している。しかし、モノが欲しいだけなら、完成品を買ってもいいわけで、自分で作るからには何か自分だけの作品にしたいと思うものだ。そこでそこに想定されている完成形を一度壊す。そこに自分を注入していき、自分のプラモデルを作るのだ。

 作品を作るとは表現をすることだと思う。私はプラモデルを作ることで何か表現をしていけたらと思っている。それは単にプラモデルの制作に限らず、こうしてプラモデルに関する文章を書いたりすることやプラモデルを写真に撮ったりすることを通じて表現をしていきたい。そして、誰かに少しでも影響を与えたいと思っている。もちろん、これは単なる趣味なので、自己満足に終始することもあるだろう。

 古田は貴重な名碗であっても惜しむことなく割り、自分の作品にしていく。私は未だその境地には至ってないので、高いプラモデルであるほど完成形から逸脱したモノを作るのは気がひけたりするし、名碗はそのまま味わいたいときもある。

 作中では古田のその作品作りは批判されたりもしている。名碗は遠い昔から伝わってきたものであり、そこには完全なるものの美があるというのである。それもそうだ。プラモデルも完成形をイメージして設計されており、そこには設計者の工夫がある。それをないがしろにするのはもったいないというような気もする。作中では驕りだと言われているが、そこまではプラモデルの作り方に思うわけではない。

 私はあの時代にいたら武士ではやっていけないだろうなと思う一方で、お話を最後まで読めば古田のように強かでもいられなかっただろうなとも思う。どういう結末なのかは是非ご覧になってみてください。

 

「割って、城を」は新潮文庫「人切り以蔵」の中の短編の一つとして掲載されているので、興味があればぜひどうぞ。

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