世界製造機としての身体①


時空を0から0に向かって感じよう


常識的時空概念


常識と言うのは常に行為とセットであるため、ルールかどうかは怪しいし、定義や証明もない。ただある者たちの生活上の振る舞いがある程度落ち着く行動様式やそれに関する諸々の経験則やそこから予測されるパターンや因果関係などをなんとなくグチャッとまとめたものだ。

その中でも、「時空」は特別だ。我々はほぼ無意識のうちにこれをベースに考えているし解釈の差はあれど多くの人はその存在を疑わない。カレンダーや時計が無くてもやっぱり割れた皿は元に戻らないし、時間の流れは不可逆で空間は時間によって常に変化しているのだなと考える。いやいや、逆に空間の変化から時間と言う概念を考えたんじゃないの?と思ったあなたはぜひそんなこと考えたくないと言っている人を敬い、できれば手をつないでほしい。なぜかは読み進めればわかっていただけるだろうし、そうなるようになるだけ工夫します。

非常識な時空たち


さて、ドラえもんや魔法少女まどか☆マギカ、Back to the future,サマータイムレンダを初めとしたSFなどで見る時間停止能力やタイムスリップ、物体の縮小・拡大、パラレルワールドなどは日常生活における私たちの時空とはいささか常識が異なっている。通常時間は早送りしたり、元に戻したりすることはできないし、瞬間移動もできない。真実はコナンくんよろしくいつも一つである。

ドラえもんキャラはみんなで集団幻覚を見ているのか


小さくなってボールに入るヤツらは転送可能だしホログラムなのか。それとも量子テレポーテーションなのか。縮小時に失われた質量は何処へ?


 
かなりSF好きの方なら相対性理論や量子力学の話を持ち出してきて「慣性系同士の相対速度が光の速さに近づくと、不変な光速度との採算を合わせるために時間がゆっくり流れる、GPS衛星にも応用されてる」とか、「量子もつれの応用でテレポーテーションがどうこう」とか言うかもしれない。宇宙の一部である私たちはもれなくその宇宙物理法則に支配されており、私たちの知らないところで宇宙のルールが書き換わっても私たちはそれを知ることができないと言う。直観に反する現象を予測してしまう純粋理性を、私たちは無上のものとして崇拝してしまう。ではその法則を発明した私たちの方こそ神なのか?とか、いや従わなければならないのならただ神を発見しただけだ、私たちは法則に従う宇宙の現実をどうすることもできないとか、しまいには科学は間違っている、スピリチュアルや宗教のほうが正しいとかわけのわからないことを言い出して現実逃避し、心の安住地と自尊心を脅かさないようなユートピアを夢見てどこかへ消えてしまう。


宇宙がこんなにたくさん!本当はどうなの?


それとも宇宙は絶大な魔力を持つ魔法少女なのか。
彼女は今や物理学的概念世界の存在なのか?



経験を超出したがる私たちと原点Oの穴から見える風景

↑原点Oと言う字を見て座標軸を想像し、座軸(の交点である尻の穴を想像したキミはすばらしい!!!

便座標軸の原点Oの穴から地球の重力中心を覗こう!我々も天体だ!


 さて、私たちの脳は他の動物に比べ非常に非状況依存的な事柄について考え、思いをはせてしまう。遠い未来や過去、遠い国や宇宙で起こる出来事。これらは経験から想像されるものもあれば、経験の一部を切り出してつなげていくことで一面を垣間見るという形のものもある。しかしそのような優れた能力は、時に私たちの愚直な現存感覚よりも不当に高い位置に置かれた崇拝され、立場が逆転してしまい、しまいにその二つはほぼ完全に分断されてしまう。経験から抽出した概念を組み合わせて歩みを進めることは、ある視点においては経験的現実を超えた何かを直観よりも正しく予測したり、誤謬や錯覚を取り除いてくれる。しかしその塵の取り除かれた「正しさ」の置かれる背景についてはどうだろうか。生きる上での「正しさ」とは状況によって常に目まぐるしく変化する。私たちはそれを生活の中では非常に普通の事として認識しているのに、科学の話になるとなぜかそれを切り離してしまう。クマに襲われたとき、もたもたしている暇はない。ソフィストのようなハッタリ的論破も通じない。通常はゆっくり後ろに下がるのが正しいとされるが、運悪く追いかけてこられたら?「クマの習性は~」とは「中国人は~」と同様にあくまで経験則から導かれた統計的傾向である。経験したサンプルが偏っていたら、もっと科学的根拠に基づいた可能性予測のほうが妥当なのでは?それはそうだ。でなくては何のために地道に様々な計測や実験をするのか分からない。静かな場所で、落ち着いて、姿勢を正して練習するからこそ直観の精度が上がる。

「じゃあ結局科学も直観も正しくないの?運命は神様が決めるの?私たちは善と真実を積み重ねるしかないの?」


↑嘘はよくないよ!


嘘だよ!


そんなこと私が知ったこっちゃないし、例え上手くいかなくても知識を提供した専門家を責めるべきではない。あなたがクマに一発入れたことが正しくなるのはあなたとあなたの近親者が助かってよかったと思うときだ。カキにあたって死ぬのが怖いか、多少リスクが上がってもうまいカキを食べたいか。カキは嫌いだから食べたくないか、当たって死なないように注意して食べたいか。現実の生きた世界の正しさは、感情や感覚が取り除かれていないし、判断のための情報が平等に与えられてもいない。実験を繰り返して正しさを確かめられないことだってある。原初、私たちはそんな世界でより確からしいことを積み重ね、より遠くへ飛ぼうと世界の計量を繰り返してきた。ピアノ弾きである私の手は、私の指示なしに鍵盤の位置を把握してくれるし、調子の良いときは音を正確に確認しなくても音をよく聴くだけで情緒の中心をとらえて耳と指が連動して動いてくれる。そこに座標軸を設定するまでもなく、時間軸に沿って流れる音と、空間を占める指は原点Oの穴から見える無限の心の世界を覗いている。ミキサーにかけるまでは「時空に沿って」ではなく、軸の無い「ただの世界」が生成されている。

↓彼らの暮らしを見ると、時空を基底にした頭ををすこしほぐせるかもしれない。ぜひ読んでみてほしい。

https://honz.jp/articles/-/9951

↑シジュウカラやオウムのような鳴禽類(鳥類の一人為分類群)を初め、ベルベットモンキーやチンパンジー、ボノボ、鯨類なども音声コミュニケーションをするようだ。

↑ダンスと言語と身体と音楽。世界の分節と現実の超越。他の生き物を観察することで魔法少女は魔女にならなくて済むかも?



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