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複雑怪奇な幕末の政治情勢を、少しでも分かり易くするための方法。

幕末の社会は、いろいろな主体がそれぞれの思惑を持ちながら複雑に展開され、しかもそれぞれの主体すら意思統一が出来ていないという、まさに混沌状態であるがここでは単純化するために次の図を用いてみたい。

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①に属していたのは主に、水戸学に影響された志士達である。水戸学は尊王攘夷を唱え、天皇と幕府が対立すれば天皇を優先することを説いた。幕末に、朝廷と幕府で鎖国か開国か意見が対立した際に、強引に開国へと突き進んだ際には猛反発し、京都を中心に天誅と叫び暗殺行為を繰り返した。志士たちは各藩においても影響力を持ち、特に長州では、藩政の主導権を握った。

②に属していたのは、外国の力を知った薩長であり、後の明治政府である。薩摩や長州はもともとこの位置にいたわけではない。外国との戦争を経て、このポジションを取るようになった。

③に属していたのは、孝明天皇とその取り巻きである。孝明天皇は、自らの代で開国をすることを極度に嫌っていた。それは外国への警戒感から生まれたものであるが、その姿勢が①の志士たちを勢いづけたのは間違いない。しかし、天皇はあくまでも政治は幕府に委任するという、当時主流だった大政委任論の枠組みは継続してほしいと願っていた。しかし、孝明天皇の死によって若い明治天皇が即位すると、力を盛った薩長が幕府を圧倒した。

④に属していたのは、幕府である。何かと批判を受ける幕末の幕府であるが、彼らは現実的に物事を判断し、鎖国を継続することは不可能と考え開国路線を取った。幕府の権威が低下していたこともあり、朝廷と協力して開国していこうと、普段必要としていない勅許を朝廷に求めたところ、強硬な攘夷論者の孝明天皇からまさかの拒否されたことから事態は悪い方向へ流れていく。①の志士たちが勢いづき、ますます幕府の権威が低下していった。そして、最終的には大政奉還せざるを得ない状況に陥ってしまうのだ。

このように、分類してみるとある程度分かり易いのではないだろうか。

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