昭和3,4年頃バレエ・スクール兼住居としては未完成であったが、約600坪の敷地に建つ約150坪の西洋館はかなり目を引いたに違いない。 江ノ電が走る北側からは2階建て、海側からは3階建て、ぐるりと広いバルコニーがある2階、一階の稽古場からは海辺に降り立つことが出来た。 上空からは屋根には小さなドームがあるのが見えた。 瀟洒な西洋館だが実際には現実的とは言えないような間取りだった。 上下水道が出来るのはずっと後だし、点灯も節約せざるをえなかったようだ。 当時は習い事を
日本のクラシックバレエの発祥地は鎌倉であることは、鎌倉市内の人にもあまり知られていません。 鎌倉が「鎌倉らしい」と言われるのは西洋文化と別荘文化の影響を受けているからでしょう。 日本のバレエの発展を願いつつ、そのルーツを大事にしたいと考えています。 日本最初のバレエスクールの跡地(七里ガ浜)には創立者エリアナ・パヴロバの顕彰碑が国道134沿いに建てられているのですが、渋滞でもしなければす通りされます。 カレーで人気のあるレストランの駐車場がスクールの跡地で、その西側
パヴロバ一家は、材木座にあったマネージャーの別荘を借家にしていたが、バレエスクール建築予定地の近くにあった洋館を借りることができた。 当時は未だバレエはお稽古事としてを習う人は限られていた。 一方で、西洋風の生活に馴染むためには社交ダンスを教養の一つとして子女に習わせる必要を感じていた階級社会もあった。 エリアナは鎌倉を根拠にして日本に居住するからにはクラシックバレエを広め、教えていくことを決めていた。 ナタリアはエリアナの貴族の娘としてプライドを保たせる交友関係を
パヴロバ一家は横浜での地震の後上海に避難していた。 被災した多くの外国人と同様にパヴロバ一家もアメリカかヨーロッパへ移住するつもりだった。 イタリア行きの船を予約したのだが、その便で帰国せざるを得ないイタリアの役人のために突然キャンセルとなった。 誇りを傷つけられたナタリアは、アメリカへ移住する決心をした。 上海で知り合った芸術家が次々とアメリカへ希望を持って渡っていったこともある。 一方日本からはエリアナに早く戻って欲しいと矢のような催促と同時に待ちきれずに上海
稽古場や客室、内弟子というレッスンの為に住み込みで家事を手伝う人が寝泊まりする部屋も必要だった。 昭和初期には未完成とはいえ瀟洒な西洋館を建てることが出来た。 一階の屋根をぐるりと巡る広いバルコニーや、一階と二階の沢山の大きな窓が特に目立っていた。 先の横浜大地震(1992年9月1日)で被災したパヴロバ家族は耐震のため知恵を絞った。 4ヶ所の通し柱は、電信柱用の丸太を三本束ねたもので、地面に一尋以上打ち込んだ。 一階の稽古場は柱が邪魔だったかもしれないが、二階の客間
「もし、別荘を建てるなら、こんな所がいいね」 母ナタリアのつぶやきに姉のエリアナと妹のナデジダは顔を見合わせた。 三人の目の前には、足元に打ち寄せる波、水平線上にかすかに見える大きな島影、右手に江の島と富士山、左手には切り立つ小さな岬が見える。 ナタリアは公演活動で多忙なエリアナと病弱なナデジダ、増加する一方の入門者を考えていた。 (エリアナの生誕地であるグルジアのチフリスには富士山によく似たカズベック山が聳えている。)