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不完全な『線』と『美』

普段、美術を楽しもうと思うと、私の場合、絵画や彫刻、インスレーションの展示会へいくことが多い。しかし密かに最近はまっているのが、伝統工芸だ。テレビで見た日本工芸展のドキュメンタリーをみてぶち抜かれてしまった。福岡に巡回しているとのことだったので、先日福岡三越ギャラリーで開催されていた日本工芸展を見に行った。その時に感じた日本工芸の『美』について今回はぶちかましたい。

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会場は撮影禁止なので、中の様子はお伝えすることはできないのだが、入場料無料で全国の珠玉の作品をみることができるなんてこんなチャンスはそうそうない。脳みそハッピータイムである。どんな状態かという雪がちらつく寒い日に露天風呂に浸かる、あの一瞬だ。「うはぁー」=脳みそハッピータイム。

日本工芸が放つ妖艶さ

話を先に進めよう、日本工芸の何が感動するかというと、私が感じたのは『線』の美しさだった。壺、漆器、ガラスから削り出される曲線美が見惚れるほど美しい。見てるだけで脳汁が垂れているのを実感できる。

でも、果たして美しい『線』とは一体なんだろうか?美しい線と言えば、工業製品の方が美しく正確な『線』のはずである。しっかりと計算されているため、曲線はもちろん正確だろう。例えば「便器」。以前の記事でデュシャンの便器をとりあげたので、便器を例にとるが、日本の便器は素晴らしい。この前ベトナムに行ってわかったことだが、日本の便器は水を流すだけでしっかりと汚れが取れる構造になっている。そんなの当たり前だろと思うかもしれない。ベトナムの便器はそうではなかった。毎回汚れが残るのだ。その度に横に設置してある洗浄用のシャワーで汚れを落とした。汚い話で申し訳ないが、これは構造上の問題である。きっとわかってくれる人はいるはずだ。日本の便器はこれまでの企業努力で究極的に汚れが落ちやすい構造になっているのだ。日本のトイレがいかにやばいかは直接会った人に力説したい。日本のトレイのヤバさはウォシュレットじゃないんだ、便器なのだ。

話は戻るが、『線』について言えば、工業製品の『線』の方が正確であり、美しいはず。しかしながら工芸展の『線』は工業製品の『線』とはまさしく一線を画しているのだ。たかが『線』、されど『線』。

その時に思い出したのが、ディック・ブルーナーの『線』だった。ディック・ブルーナーと言ってもわかる人は少ないかもしれない。ディック・ブルーナー はミッフィーちゃんの生みの親である。世界中で愛されるキャラクターで知られるミッフィーちゃん。彼の個展を見に言った時に見た『線』はまさに見惚れるほど美しい『線』だったのだ。

ミッフィーちゃんが魅力的な理由はいくつかある。計算尽くされたデザイン、色彩を限定し、余白をたっぷり使うことで、引き算の美を演出したり、とてもミニマルで、見ていて心地いい。日本代表するクリエイティブディレクターの佐藤可士和もディックブルーナー の影響を受けた公言しているほどだ。

そして彼はこんな言葉を残している。

”わたしの線は、いつもすこし震えています。まるで心臓の鼓動のように。震える線はわたしの個性なのです。”

動画を見るとわかるが、一つの『線』を小さいストロークで丁寧に描いている。彼は1枚の絵を完成させるの実に100枚以上書き直すという。あのスピードで丁寧に描いているにも関わらず、それを100回ほど繰り返してようやく一枚の絵が出来上がるのだ。途方もない。恐らく一枚の絵を完成させるのに100時間くらい掛けているだろう。。。

そして震え。この震えが『線』に命を吹き込む。キャラクターが生きている。とても愛らしい。遠くから見ると正確な線だが、近くで見ると僅かに震えている。

美しい『線』の正体は不完全を内包した完全な『線』だった。

これはクリエイティブの世界によく登場する。音楽でもあえてノイズを入れたり、香水でもあえて臭い匂いを入れたり、完成度を高めるためにあえて不完全さをアクセントとして残す。

話を日本工芸に戻すと、作品一つ一つに人間の鼓動を感じる。その曲線は、遠くから見ると正確な曲線なのだが、近寄ってよーく見てみると、線に微かに揺らぎを感じる、見えるというより、感じるという表現の方が感覚をよく捉えている。見えてる線は正確に近いが、なんとなく揺れて感じる。脳みそは微細な揺れをキャッチしている。その微細な揺れ、つまり工芸品は、工業製品に比べて『線』が圧倒的に多いのだ。『線』の多さは、情報量の多さに繋がる。

さぁ、ここでまた山口周を召喚させるとしよう。先日山口周のセミナーに参加した際に、彼は東京は情報が少ないと言っていた。うーん、東京は情報が一番多い場所だと思っていたが、ここでいう情報は既視感を踏まえての情報量のことを言っているのだと思う。その対比として情報量が多いものに『自然』を挙げていた。確かに自然は一つとして同じものはない。コピペでは無いのだ。東京には情報が少ないというのは、人工物の模倣性に起因しているのかもしれない。

日本工芸展の作品はずっと見ていても飽きなかった。むしろ見とれてずっとみていたくなるような感覚になっていた。情報量が多いので、ずっと見ていても細かい違いに引き寄せられ、長く見ていられるのかもしれない。長い時間をかけて完璧な線に近づけようとする線が孕んでいる不完全な美。多層的で深みがある『線』。もちろん工業製品を美しいと思うことも十分にある。十分にあるのだが、工芸品が放つ妖艶な『線』は私を虜にした。

中でも私を虜にしたのは、木竹工ゾーンだ。

楓造盛器(かえでづくりもりき)河野行宏

写真だとなかなか伝わりづらいのだが、直接みてみると職人の手が作り出した曲線美、その微妙な線の揺れと木目の年輪の模様が折り重なって、人の温もりと木のもつ柔らかさがこのうえなく気持ちいい。職人の芸も素材の木も共に長い時間を経て存在している。その濃密な時間が作る佇まいにどこか崇高さを感じる。

”かつてピカソがファンの少女から紙に絵を描いてと頼まれて、30秒ほどで絵を描いた。そこでピカソはその絵を渡した時に「この絵は、100万ドルだよ」と伝えた。少女はたった「30秒しか描いてないのに?」と言うと、ピカソは「30年と30秒だよ」と返した。”

日本工芸展の来場者の平均年齢が高いのはなぜ?

もうひとつ気になることがある、日本工芸展に来ている方の年齢層は比較的高い。私の主観だが、平均年齢はおそらく50歳以上だろう。美術館、植物園も同じことが言える。年齢層は高い。なんとなく会場を想像をしてみて欲しい。三越の9Fで行われる日本工芸展の会場を。若いキャピキャピしたインスタグラマーには縁がない場所であることが想像に難くないはずだ。

美意識は、年齢によって変わっていく経験的な技術であるとうことは感性の記事で紹介した通りだが、美意識が高いからこそわかると同時に、伝統工芸品は彼らの既視感フィルターをぶち破る情報量を持っているのかもしれない。

私たちは生きていく中で、様々なものをみて、感じて、経験して記憶を蓄積していく。知っているものは既視感フィルターを通って知覚されなくなっていく。現実に存在しているが、我々の意識世界の中には存在しない。情報としての価値が相対的に低くなっていくのだ。私たちが『何か』を認識するのは、現実と記憶にズレがあった時にはじめて『何か』を認識する。違和感のようなものかもしれない。いつも見ていた風景に何か違うものがある、生活の中に何か違うものが紛れ込んでいる、そのような事態に初めて『何か』を認識する。違和感は危険を回避するのに役立つ。全ての情報を知覚することは私たちには不可能であるからして、私たちの脳みそは普段、情報を省いて機能している。工業製品は見慣れているので、情報量が少ない、そのため引っ掛かりがないのだ。

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今回見た工芸の『美』の要素は他にもたくさんあるだろう。形状・材質・色彩、作品が持っている雰囲気は様々な要素が相まって生まれる。中でも今回は『線』に注目して『美』を紐解いてみた。

物作りの孤独と恐怖

どの作品も作家の人生が滲み出ている。作品を通してそのエネルギーひしひしと伝わってくる。きっとそれは孤独な戦いの連続なのかもしれない。自分の人生を物作りに捧げることの怖さ、自分の美意識への評価、作品に費やす時間がもしかしたらどこへも繋がらないかもしれない。孤独を耐え忍びながら作品に対峙するその時間に想いを馳せると、自分にはそんなことができるだろうかと考えたり、逆にその姿勢に対して尊敬の念が湧いてくる。伝統工芸には多くの美の要素が詰まっている。

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