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元ぎゃるお先生、現る~第7話~

だいぶ投稿が遅れてしまいましたが
読者の皆様,あけましておめでとうございます(笑)

この連載もついにメンタリズム編に突入ですね。
ここからは全4回に分けて掲載していきます(それで終了です。)。
試験勉強に活きる部分もあると思いますが,それにとどまらず,「生きる」上での一人の人間の考え方をご自身の考え方と照らし合わせながら読んでいただけますと面白くなるかもしれません。

ギャル男式メンタリズム,以下,ご笑覧ください。

5.最強のギャル男メンタル

■「できない」は「やらない」だけ

 できないできないできないできない。

 ……やらないだけだろ、と、そのような言葉を聞くたびに、私はいつも思います。

 彼氏彼女ができない。

 出会いがない。

 痩せられない。

 稼げない。

 ないないないない言ってる人って、周りにいませんか。

 でも、どうでしょう。水曜日のダウンタウン的に言わせてもらいますと、

 「ないないないない言ってる人って、行動せずに言ってる説~」

 私はこの説は割と正しいのではないかと思っています。

 出会いなんてそこら辺に転がってるじゃないですか。本当に出会いたいのなら銀座のコリドー街や恵比寿横丁に行けばいいでしょう。最近ではSNSを利用したマッチングアプリだってたくさん存在します。マッチングアプリで出会った人と付き合った、結婚したなんて話はよく聞きます。痩せられないなら糖質制限、運動してみればいいじゃないですか。痩せられないと言ってる人の大半はそもそもダイエットを継続して行っていない人だと思います。仕事が忙しいだのなんだのって理由をつけてダイエットしていないだけでしょう。稼げないなら転職すればいいじゃないですか。あるいは副業を始めてもいいでしょう。コロナの影響で働き方のありようは大きく変わりました。変わったというか、無駄だったけど従来は強制させられていた無駄が省かれたというべきでしょう。出席会議・リモートで代替できる業務なのに出社させられる等々。働き方のありようが変わっていく(無駄が減っていく)ように、稼ぎ方のありようも変わっていきます。そこでは副業の在り方も見直されていくでしょう。稼げないというのであれば、まずは月1万円でも副業で稼ぐところから始めればいいんです。

 世の中の多くの「できない」は「やらない」なんだと思います。結局、行動不足なんです。そういう「できないできない」症候群の人の大半は自分の能力や環境や時間のせいにします。

 でも、本当にそれでいいのかなって僕は思うんですね。もちろん、最終的に能力が追い着かないから、環境を変えられないから、時間がどうしても捻出できないから「できない」ことはあると思います。

 でも、本当に行動してから「できない」ことに気付いた方がどれだけいるんでしょうか。最初から「できない」の抗弁を使ってるんじゃないかと思います。

 じゃあ、なんで「できない」の抗弁を用いて実際にやらないんだろうって考えてみたんです。

 やりたくないからやらない人。

 これは別にどうでもいいというか、じゃあ、やらなくていいですよね。だって、できたいと思ってないわけですから。

 問題はできたいと思ってるのにやらない方です。

 できたいのになんで「できない」って言って「やらない」んだろう。

 その理由はたくさん考えられるとは思いますが、結局、失敗を恐れている人が多いのではないでしょうか。「できない」自分が怖いんです。でも、はっきり言うと、世間はそこまで一人の人間に関心はありません。行動力が欠如しているあなたに世間はそこまで着目していないのです。「できない」ブレーキとなっている恐怖は、あなたが自分を過大評価していて劣等の烙印を押されたような気分になっているだけです。結局、やればできる子やらない子が大半なのに「できない」のは、できない自分に向き合えないからに他なりません。

 とはいえ、失敗を恐れて「できない」を「やらない」ですり替えてしまうのは、よろしくない。だからこそ、どうやったら「やらない」を改善できるかを考えてみましょう。

 一つ考えられるのは、「やらない」理由が失敗への恐怖なのであれば、失敗への恐怖を打ち砕くしかありません。これは別の章でお話しします。

 それ以外に考えられるのは、やってみれば意外と余裕じゃんって感覚を覚えてほしいということですかね。

 私みたいな若輩者が言うのも恐縮なのですが、世の中の大半の事柄って、実際に行動してみると大したことがなかったって感想を抱くんじゃないでしょうか。

 学生さんなら初めてのバイトの面接を思い出してください。むっちゃ緊張して、稼ぎたいんだけど履歴書書くのめんどくさいし、落ちたらダサいし、とか言って難癖付けて拒否っていたバイトの面接。でも、面接を受けてみると、割と余裕じゃなかったでしょうか(私のようにバイトで3回面接に落ちて余裕ではなかった者もいますが)。結局、自分が勝手に作り上げた虚像にびびっているだけなのです。自分で自分の行動範囲を狭めているだけなんて、もったいないにもほどがあります。行動してみれば、自分が勝手に思っていたよりもスムーズに事が運ぶなんてことはままあります。

 「できない」は「やらない」だけ。自分で自分の可能性を狭めない。私は自分の無限の可能性を潰したくありません。司法試験予備校業界の中でも大手の伊藤塾の塾長は次のような言葉を受験生に向けて発信しておられます。

 「やればできる。必ずできる」

 なんてすばらしい言葉でしょう。私も受験生の頃にこの言葉を聞き、自分で「やらない」の言い訳をしないことを胸に誓いました。

 もう一度言います。「やらない」は自分の可能性を狭める悪魔の言葉です。

 まずは行動、考えるな、動け。できないか否かはやってみてから考えましょう。

■やりたいことだけをやれる環境づくりをする

 やりたくないことをやるって、控えめに言ってしんどいと思います。

 私はやりたくないことを仕事にした場合、継続できる自信がありません。例えば、私はデスクワークを永遠に続けることが嫌いなので、1日中PCを相手に仕事することは絶対にお断りです。とにかく体を動かして、誰かと話しながら仕事をしていたい。だから「やりたくないことはやらない」。

 でも、こんなことを言うと、「わがままだ」という人が必ず出てきます。確かにわがままのように聞こえるかもしれませんが、果たして本当にただのわがままなのでしょうか。「やりたくないことはやらない」ために「やりたいことだけをやれる環境づくり」をした結果であればどうでしょうか。

 例えば、私の場合、弁護士を目指したきっかけ自体は「ギャル男弁護士になる」ことでしたが、次第に、司法試験に受かったら司法試験予備校の講師をやる、それ以外はやらないと考えだすようになりました。ロイヤーを絶対にやりたくないってわけではなかったのですが、それらよりも積極的に司法試験予備校の講師になりたい思いが強かったんですね。

 んで、そのための環境づくりを受験生のころから始めました。

 それは何か。

 その答えはゼミです。指導力や指導慣れ、要は経験があればたとえ社会人1年目だとしても即戦力になる・他の看板講師に引け目を感じずに仕事をすることができると考えた私は、主に後輩に対する指導を中心とした司法試験のゼミを受験生の頃からずっと続けていました。このゼミは口コミで広まっていき「石橋ゼミ」として個人的に実施していたのですが、面白かっただけでなく、社会人~学生まで様々な属性の方々と接することができたので、本当にいい勉強になりました。ゼミが面白くてやめられなかったこともあり、司法試験に合格した後の司法修習の最中も裁判所から兼業許可を得た上で、実施していました。そのおかげで、受験指導の感覚をキープし、最初から戦力として前線で戦うことができ、個別指導を中心としたスタイルを確立できたのかなと思っています。

 私の例を申し上げましたが、例えば仕事に関して、自分がやりたくない仕事を回されるのを回避したいのであれば、自分がやりたい仕事を自分で先回りして取ってくる、断れるように弱気な自分の性格を変えていく、といった仕事における環境づくりは事前に準備することが可能です。

 家庭における家事も同じことが言えます。たとえば、どうしても料理がやりたくないなら、他の自分がやってもいい家事を率先してやるとか、家事以外の何かほかの部分でパートナーを満足させるような気配りをすることで、自分がやらずとも相方がやってくれるような環境づくりを行うことは可能です。

 飲み会に行きたくないのであれば、飲み会に誘ってくるような人と関わらない、誘われても毎回「前向きに考えとくね」と言って行かないことで次第に誘われなくなるといった環境づくりだって可能です。

 要するに、「やりたくないことはやらない」ために「やりたいことだけをやれる環境づくり」をすることは可能なんです。

 ここまで述べてきたように、ただわがままで「やりたくない」というだけではダメです。それは赤ちゃんです。そうではなく、自分で自ら積極的に環境づくりをすれば、ただのわがままとは一線を画した「やりたくないことはやらない」というわがままを実現できると思います。

 やりたくないことはストレスがたまりますしね。私はこれからもストレスフリーでハッピーに生きていくために、環境づくりに対する努力は惜しまないよう生きていきます。

■周りと違うことはそんなに悪いことなのか

 同調圧力。無難。

 僕はこの言葉が嫌いです。それはなぜか。

 少し昔の話になりますが、僕が所属していた高校サッカー部では、メンバー間で「無難」という言葉が流行していました。メンバー達は半分遊びで使っていたんでしょうが、半分は本気で「無難」なプレーをした方がいいと思い、それを声にすることで「無難」がいいという意識を共有しようとしていたのだと思います。

 なんで「無難」なプレーしかしないといけないのか、僕にはとても不思議な光景に見えていました。

 サッカーにはヒールリフトという技があります。ボールを両足で挟んで膝を屈伸させて一瞬で自分の身長の遥か高くまでぽーんとあげて、相手を抜く技なんですが、これが試合中に決まるとかっこいいんです。一度、そんなかっこいい技を先輩のブラジル人留学生が練習試合中に使ったんですね。「おお〜やべ〜まじかっこいい」と思った僕は、同学年のメンバーに「今度ヒールリフト俺もやってみようかな」と言ってみたんですが、「『無難』が一番だからアクロバティックな技はやめといた方がいいんじゃないかな」いうアドバイスをもらったんですね。まあ、ヘタクソな僕じゃ無理というアドバイスだったのかもしれませんが、当時は「また『無難』かあ」と思っていました。

 日本人は「自分が他人からどう見られるか」とか、「他の人から嫌われたくない」という意識が強すぎると思います。そういう意識が根っこの部分にあるから、他人の評価を気にして、マイナス評価を避けるべく「無難」になったり、周囲に「同調」したり、しまいには「多数派に合わせなさい」なんてことを強要してくる=「同調圧力」なんてクソみたいなものが出てくるんですね。

 これって非常に迷惑だと思いませんか。自分は自分、他人は他人です。

 例えば、本当はアニメが大好きすぎてアニメのキャラが描かれたTシャツを着て街を歩きたいけど、変な目で見られるかもしれないと思ってそのTシャツで外を歩くのをやめている人、あるグループに所属していて本当はやりたいことがあるんだけどそれをやりだしたらグループの他のメンバーに嫌われるかもしれないと考えて我慢してる人、こんな感じの人は割といるんじゃないかと思います。

 それはそれで美徳、と言われてしまえば、はいそうですかとしか言いようがないですが、少なくとも僕はそれを美徳とは思いません。

 なぜ、他人の目を気にする必要があるのでしょうか。

 なぜ、周りと同じじゃないといけなくて、少し違うのはよくないといった風潮がいつの世もあるのでしょうか。

 嫌われたくないからそんな声が聞こえてきますが、そもそも全員に嫌われないなんてはっきり言って無理です。

 東大に合格すればなんも知らない奴が「頭がいいだけで話がつまらなかったら意味がない」とか言って叩いてきますし、顔がかっこよかったり可愛い人はかっこいい・可愛いってだけで知らない奴に叩かれますし、TwitterでAって発言すると、どこから臭いをかぎつけてきたのか、聞いてもいないのにいやいやBだからAは間違ってるみたいなことを言う奴が出てきます。

 弱ってる人に自らの体の一部をちぎって元気にさせるという国民的ボランティア精神の塊とも言えるアンパンマンですら、作中では敵がでてきます。

 だから、嫌われないなんて無理なんです。「アンチはどうでもいい」(●ページ<この章の13節目>)でもお話ししますが、嫌われないように周りを気にするなんて愚の骨頂。そもそも嫌われることなんていつでもどこからでも何度でも襲ってくるわけですから、不可避な事象を避けようとすること自体、時間と体力とメンタルの無駄です。

 それがわかれば簡単じゃないですか。

 嫌われるのが当たり前と思えばいいんです。嫌われるのが当たり前なら、周りと違くても別に気にならないですよね。

 だから、周りと違うことに憧れるけど、自分の個性を消しているみなさん。

 まずは、「嫌われるのは当たり前、嫌われないことない」と考えるようにしましょう。

 何したって噛みついてくる奴がいるからこそ、周りと違うことをしたって構わないんです。多数派に従う、合わせる必要なんて全くありません。

 私が慶應義塾大学に入った時、髪を盛って、ファッションは原色の目立つ服、肌は黒いというそのまんまギャル男スタイルだったのですが、当時の2chに「慶應も地に堕ちたな」「きもい」といった書き込みがされていました(物好きな友人が自慢げに笑いながら教えてくれました(笑)そして、二人で爆笑(笑))。

 でも、まるで興味ありませんでした。僕の学年にはギャル男は僕含め2人しかいなかったので、圧倒的少数派でしたが、僕は好きでギャル男をやっていたので、自分がやりたいと思う限りはやっていました。自己実現の仕方は人それぞれ、千差万別です。

 髪型、ファッション、考え方、趣味等々、それらは全て1人の人を基礎付ける大事な部分ですので、周りの目を気にする必要なんて一切ありません。金子みすゞさんだって「みんなちがって、みんないい」っていってるじゃないですか。

 嫌われるのが当たり前だからこそ、嫌われることは気にせず「無難」や「同調」の波に飲まれず、自分らしさを大事にしていってほしいと思います。

■無駄に群れるな

 人間は社会的な生き物とよく言われます。えらい人たちがそうおっしゃるのですし、私の実感としてもそう思います。一人で生きていけるなんてことは、不可能ですし、人間は何らかのグループに属し、群れる生き物なんだと思います。

 たとえば、今日はお肉を友達と食べようと考えました。

 あなたはその友達と街に出かけます。

 すると、目の前には同じコスパの焼き肉屋が2店ありますが、片方は混んでいて、片方はお客さんがほぼいません。そんな時、あなたはどちらの店に入りますか? 

 この質問に対して、大半の人は混んでいるレストランと答えるのではないでしょうか。特に何も考えることなく、混んでいる店のほうが美味しいと考えるのだと思います。これは一種の群れですね。客が多いほうがおいしいというのは、言い換えれば人が多いから美味しいと同義です。

 また、学生時代を思い出してみて下さい。

 『ぼっち』になるのを嫌がり、特に切望していたわけではないのにサークルに入り、コミュニティを形成し、誰かとつるんでいた経験はないでしょうか。

 人は何かと群れます。

 そして、そのこと自体を否定するつもりはないと先ほど述べました。

 でも、安易に群れることは絶対によくない。

 私は昔から大きなグループに属することは嫌いでした。

 小学校の時、前に述べたように私の学年では大きなグループが二[U1] つ形成されていたのですが、私はそのいずれにも入りませんでした。

 それはなぜか。

 グループの中に入ると、そこには必ずそのグループの空気というものが存在します。

 いくら自由を謳っているグループがあったとしても、その自由すらそのグループの空気感になるのです。

 さらには、そのグループには自分より偉い人がいるとします。

 そうするとどうなるか。

 その人の目が気になっちゃいませんか。遠慮しちゃうのではないでしょうか。読む必要がないであろう空気まで読まなくてはいけなくなるのではないでしょうか。

 その結果、自分の個性を発揮する機会が減っていく可能性があるということです。群れると必ず誰かの目を気にしなければならなくなります。想像してみて下さい。会社、サークル、友達のグループに入った時、どうしても遠慮する対象って、存在しませんでしたか。

 その中の空気に対立するようなことをしたらハブられるんじゃないか、怒られるんじゃないか、気を害しちゃうんじゃないかといった気持ちを抱き、萎縮してしまうことがあるはずです。でも、その萎縮によって個性という無限の可能性をすり減らすのは非常にもったいない。

 誰かとつながってないと不安という理由だけで、安易に群れるのはやめましょう。

 そんなの、自分を犠牲にして空気感を守っているようなものです。

 空気感を守るために生きてるんですか。

 そんなのあほですよ。

 そんなしがらみに付き合うのが面倒くさいから、私は極力群れないようにしています。

 自分の個性は自分で守る。

 とはいえ、一切群れないわけではありません。

 私個人でやり通せる、達成できることなんてたかが知れていますし、今までも、そして、これからも多くの方々の協力の下で、生かされていくのでしょう。

 私が伝えたいのは、自分で考えて選択するということです。コミュニティに属するときは、自分の目でしっかり見て、自分の頭で考えて、シッカリと選択するようにしましょう。私はフィーリングとタイミングで生きていますが、それは、一人で何でもやる場合に限ってのことであって、何か集団に属さなければならないような場合は、必ず流されずに自分で選択することを心がけています。

 無駄に群れることは時間の無駄遣いになるばかりか、個性を無くすきっかけにもなる点で有害です。そんな人は失敗します。

 無駄に群れるな、群れるなら考えて選択しろ。

 これは、自分を成長させるためにも大事な観点だと思っています。

■考えるな、動け

 司法試験・予備試験では、論文式試験を突破しなければ合格することができません。論文式試験というのは、事例形式の問題文を読み、回答の道筋を答案用紙の上に文章として表現する試験なので、答案を書けないと合格できません。

 そして、受験生にとって、答案を書くという作業が一番難しいんですね。例えるなら、スポーツや料理を思い出してみて下さい。最初って、スポーツならルールであったり、サッカーだったら蹴り方であったり、いろいろなことを知識として教えてもらったりするじゃないですか。料理であれば包丁の使い方やレシピとか。スポーツの教本やレシピを読んだり。

 でも、実際にやってみるとうまくいかない。サッカーで言ったら、フリーキックの蹴り方が書いてある本を読んでも、実際に蹴ったら全然本に書いてある方向と違う方向に飛んで行く。

 じゃあ、答案を書く練習をすればいいじゃないかという意見が出て来るでしょう。

 私もそう思います。

 でも、実際は、答案を書くために手を動かせない受験生が多い現状です。

 多くの受験生と話をしていると、知識を入れてからじゃないと書けない、まだ書ける段階じゃない、書くのが怖いといった理由で書き始めを先延ばしにする傾向があるようです。

 できない理由を探してしまうんですね。

 でも、断言します。書かないと書けるようにはなりません。

 司法試験ではなく、一般化して言うならば、動かないとできるようにはなりません。

 禅の世界には「禅即行動」という言葉があるそうです。

 あれこれ考える前にとりあえず動くことが大事といった意味合いで、毎日座禅等を繰り返していると「嫌だ」「辛い」とった考えが動き出す前に働き、考え過ぎて動けなくなってしまう事への自戒から使われるようになったようですね。

 これ、現代人に当てはまりませんか。

 現代は情報がむっちゃ簡単に手に入りますよね。インターネット、Twitter、Instagram等々、様々なネット媒体が発達しているので、ネガティブな情報もポジティブな情報も簡単に手に入ります。そして、ネガティブな情報に触れた時、○○って書いてたからや~らないという消極的な態度になることはありませんか。

 でも、チャンスや達成というのは行動しなければ手にすることはできません。

 動く前に考えるからチャンスが逃げていくんです。

 動きながら考えればいいじゃないですか。

 考えてから行動するなんて、頭でっかちすぎるんですよ。

 例えとして適切かはわかりませんが、司法修習で刑事弁護の教官が教えてくれたことを紹介します。

「訴訟の証人尋問において、検察官の質問に少しでも怪しい部分があったら『何がおかしいか』を考える前にとりあえず『異議あり』って言いながら立ち上がりなさい。立ち上がってから『異議あり』ではなく、立ち上がりながら『異議あり』。そして、言い終わった後に法的に何が問題なのかを考える。それくらいの勢いで『異議あり』と言ってみなさい」

と冗談半分でご指導していただいたことがあります。まさにそれも「考えるな、動け」ですよね(笑)。

 できるかできないか、ではなく、まずはやってみてください。動いた結果、何か結果が出たら、そこで考えればいいんです。司法試験受験生については、あれこれ書けない御託を並べる前にペンをもって答案用紙を用意してとっとと答案を書いてみろということです。

 答案を書くことによって、本当にわかっていない部分に気付き、成長することができます。そして、その経験を増やすことで論文答案の質が向上し、合格答案へと昇華していくのです。

 ビビらずに手を動かし始める初動が勝負を決します。

 これは、仕事、恋愛、友達付き合い等々様々な場面に当てはまると思います。

 「考えるな、動け」

 やってみないとわからねえ。

 そんなウルトラファンタスティックな超攻撃的スタイルも、私は良いと思うのですが、皆様もいかがでしょうか。

■シャキシャキするだけで大抵のやつになめられなくなる

 私はよく声が大きいと言われます。

 個別指導が始まる際の、「よ~し、では始めましょうかね!!!!!」という始まりの声が大きい。

 電話の際、『もしもし~どうしたあ?』の声が大きい。

 Youtubeの始まりの挨拶『おいっすうううううう』が大きい。

 日常会話の声が大きい。

 「おはようございます!!!!!」の挨拶の声が大きい。

 これは癖になっているので毎回意図してやっているわけではないのですが、私は声が大きいだけで非常に得をしているなと思います。

 要は、なめられることがほとんどないんです。

 そもそも、なめられるって、むっちゃイライラしませんか。同級生や先輩ならまだしも、後輩になめられるって、まじでイライラすると思います(昔、生意気な後輩がいた時にイライラしていたことを覚えています)。

 なめられる→イライラ→ストレスのサイクル。

 マジで無駄です。

 なんで自分とは関係ない事象によってストレスをためさせられないといけないのでしょうか。僕は自分以外の理由でストレスをためさせられることが嫌いです。

 ストレスを俺にためていいのは俺だけだと思っています。

 そこで、声は大きく、しゃきっとするという必殺技が登場します。

 声が大きくてしゃきっとしてる人って、なんか強そうに見えるんですよね。

 シッカリしてる感が出るので、なめようにもなめれない。

 極端な例をあげますが、軍隊の敬礼を思い出してください。

 あんなにぴしっと、はっきりと、大きな声を出しているのを見ると、「なんかすげえ」感が出て、あの人たちをなめようなんてそうそう思わないはずです。

 だからこそ、私は大きな声でしゃきっとすることを常に心掛けています。

 無駄になめられてストレスを感じたくない。

 声を大きくして背筋をピシッとしてしゃきっとする。

 これは今これを読んでいる瞬間から実践できますので、ぜひ、明日からビックボイス同盟を結びましょう。

■時間は有限、可能性は無限

 司法試験に関わらず、国家試験は基本的に実施日程が決められているので、その実施日程までに合格する上で必要な能力を身に付けなければなりません。もっとも、試験日程が近づけば近づくほど「このままじゃやばい」「全然時間がない」「このままの勉強で大丈夫なんだろうか」といった不安がまるで噴水のように噴き出してきます。

 現に、試験直前期は受験生からそのような相談を受けることが最も多いです。

 私は何かをなすために自分の手持ち時間は有限だと考えています。例えば、来年の司法試験に合格したいのであれば、今日を起算日として試験日程までの日数しか残っていないわけです。

 好きな人がいたとしましょう。そしてその人は現在誰とも付き合っていない。でも、ちんたらしてたらその人はいずれ誰か別の人とお付き合いしてしまうでしょう。そうなってしまっては基本的にはもう遅いのです。その人がフリーである時間は有限です。

 時間は有限。それ自体は動かしがたい事実です。

 でも、時間が有限であることは決して悲観すべき事象ではないと思います。先ほどの司法試験受験生の「このままじゃやばい」「全然時間がない」「このままの勉強で大丈夫なんだろうか」という悩みは、どうも時間がないこと=有限であること=マイナスであることという捉え方をしているような向きがあると思われます。

 でも、そこは発想を転換すべきだと思うんですね。時間がないからこそ、追い込まれているからこそ、いつも以上に勉強方法を見つめ直して残り時間を最大の密度で過ごすための方法論を探し出せるかもしれない。ちんたらちんたらしていた時よりも、よっぽど充実したスケジューリングができるわけです。

 好きな人がフリーの時も、時間は有限ですが、自分がその人と付き合える可能性は無限大なわけです。ちんたらせず、時間は有限であることを認識し、無限にあるアプローチの仕方の中から最善の方法を考えて実行すればいい。

 結局、時間は有限ですが、可能性は無限にあり、かつ、時間が有限であることを認識するからこそ、何かをなす際の可能性を高めることができると思います。時間がありすぎると、明日やればいっかってなっちゃいますよね。これは、時間があると思うことによる怠惰です。時間がないことを認識すれば明日やればいいかとはなりませんよね。そして、今日中にそのタスクを終わらせれば明日は違うタスクに進むことができるようになる。

 時間は有限ですが、可能性は無限。ポジティブシンキングにすぎないかもしれませんが、見方を変えるだけでけっこう楽しく生きていけるんです。

今回はここまで。
いかがでしたでしょうか。
人間って面白い。

では,次回もお楽しみに!

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