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人/世界が<みる>ー内藤礼展について

さて、前回の続きです。
内藤礼さんの作品を<ある>という言葉で考えてきました。一方で、久しぶりにみたそれらの作品から感じたのは<みる>という行為を大切にしているということでした。

「color beginning」という作品では白いキャンパスにほんのりピンクがかった色が薄くのせられています。それはほとんど白であり、同時に、別の何かが浮かび上がるようです。私には赤ん坊の象の皮膚のようにも感じられました。「始まりの色」という言葉からもわかるように、作家が<みる>ことの始まりや人間が感じる色そのものを扱おうとしていることが見て取れます。

途中の部屋では、真っ白のギャラリーの空間に白い糸が吊ってあります。そして、私たちにはそれを視ることができません。スタッフの方が案内することでやっと白い糸を認識することができます。確かに、その糸は空気や風、重力といったものを感じさせますが、やはりそれは視覚として感じるものだといえるでしょう。

「地上はどんなところだったか」では、細かい穴の空いた紙の筒がぶら下がっていて、それを通して向こう側の風景を視ます。すると、カメラでボカしたような朧気な光を視ることができます。光それ自体を直接視ているという不思議な感覚に襲われました。

ここでもう一度、パンフレットの引用を載せます。

「地上に存在することは、それ自体、幸福であるのか」をテーマに制作する現代美術家・内藤礼は、光、空気、風、水、重力といった無尽蔵な自然と、それらがもたらす色彩や音を受けとる私たち地上の生を、ひそやかな、それでいて確かな希望を放つかたちに昇華させた空間作品で、国内外より高い評価を得ています。
……光を自身の作品における根源のひとつとしてきた内藤が、はじめて自然光のみによる、光と生命と芸術がけっして分別されえない「地上の生の光景」を見つめる空間を生み出します。
内藤はあるとき、「地上の生の内にいる者(私)が、生の外に出て、他者の眼差しを持ち、生の内を眼差す無意識の働き」に気づき、「私たちは遠くから眼差され、慈悲を受け取っているのではないか」と感じるようになったといいます。本展は、一日を通して移り変わる豊かな自然光のもと、地上に生きる私たちと死者、生まれ来る者、動植物、精霊との交歓の場として、また永続する自然の動きと私たちとを貫く連続性を可感化する空間として立ち現れることでしょう。
(内藤礼「明るい地上には あなたの姿が見える」パンフレット)

私が<みる>という言葉を使うまでもなく、内藤さん自身が「眼差し」という言葉で作品のテーマを説明されています。私たちが「ヒト」という人型をみるとき、私たちは「ヒト」の眼差しにも立つことができるでしょう。おそらく、こうした眼差しの位相が変わることがあらゆるものにもいえるのではないでしょうか。「color beginning」を視ているとき、白い糸を視ているとき、光それ自体を直接視るとき、私が視ていると同時に、世界の外側、世界の持続の方から、私が私を視ているという感覚です。純粋な視覚といっていいかもしれません。そのような能力を人間は潜在的に有しており、作家はそれを「慈悲」と呼んでいます。

このとき、自然/人が<ある>ということは、人が<みる>ことであり、また、世界が人を<みる>という回路を内在していると考えることができるでしょう。つまり、<ある>と<みる>は入れ子状の複雑な関係だといえます。このとき、『光と生命と芸術がけっして分別されえない「地上の生の光景」』が創造されるのです。そこに孕んでいるのは「なぜ人間は<みる>のか?」「なぜ人間は存在するのか?」という論理で説明できない根源的な問いなのです。内藤礼さんの作品の魅力は、この根源的な問いに誠心誠意取り組んでいるところにあると思います。


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