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再魔術化された世界はすぐそこにある ―本『脱近代宣言』落合 陽一他

久しぶりに落合さんの本を読んで感じたのは、決してアナログな身体を捨てずに人間を乗り越えようとする姿勢でした。

いかに<原理>を生み出し、再魔術化するか

本『脱近代宣言』落合 陽一、清水 高志、上妻 世海(著)を読みました。落合さんによる『魔法の世紀』という本は読んだのですが、そのときはあまりよくわかりませんでした。その後も、自分も研究と表現をオーバーラップしている身として、ずっと気になっていました。ほぼ同時に『デジタルネイチャー』という本も出版されたのですが、わかりやすそうな『脱近代宣言』を選びました。今回も内容を筋立てて理解するので精一杯だったのですが、簡潔にまとめてしまうと以下のようになると思います。

脱近代宣言→既存の人間のフレームワークからの脱出、脱人間化
・人間の感覚を超えた波動によってそこに物質を生み出す技術とホログラム
(『ブレードランナー2049』のAIジョイがある程度の実体をもつ。)
ヴァーチャルの世界(インターネット)と現実世界との境界線の消失。(iphoneがより小型化、みえない化する。人間に実装され、拡張する。)
以上のような技術の高度化、AIによる加速度的進化、政治経済分野の革新、(そして、自然災害のリスクもあると思うが)そういった諸問題に適切に対処できればシンギュラリティが訪れる。
・近代的人間像が終わる。つまり、人間の定義が変わる。それは、「超音波でやりとりをするイルカ」「匂いや音でやりとりをする犬」に近いものになる。言葉ではなくイメージでコミュニケーションをとることも可能になる。(googleの画像検索で内容が理解できるのに近い。)
・ゆるいつながりを保つような「悟り」の世界、近代以前の東洋思想の世界に近づく。
(カート・ヴォネガットの小説「タイタンの妖女」に出てくるハーモニウムという水星に棲む生物に近いのではないか。「私はここにいます。(I'm here.)」「あなたがそこにいてよかった。(I'm glad you're here.)」という意思疎通だけが彼らにはある。)

通常、こういった技術の発展と人類の未来といった話になると、まず出てくるのが、ディストピア的な世界観です。AIに支配された世界や脳や神経のホルマリン漬けという昭和レトロともいうべき価値観がはびこっています。モノを考えられる人からすると、SFなのに近代的な人間の思考を感じてしまうでしょう。ではそうではない、本当に人類が歩むであろう未来とはどういうものか、本書はそのことを述べています。(具体的には上記の内容でご勘弁ください。感覚的にはとても理解しているのですが、言葉にしにくいです。)

介護職の方とのやりとりは象徴的です。落合が本気で介護の問題を解決しようとするとき、介護で働いている人は解決された後の自身の仕事についての心配をします。だから、本気で介護の問題を解決したいわけではなく、むしろ、そこに居場所を見出しています。ですが、人間にお尻を拭いてもらうよりも、トイレのウォシュレットの方がいいように、介護は人間がやるよりも機械化するべき仕事であり、その方が長期的に多くの人間を幸福にすることができるでしょう。「いま」と「未来」、どちらに目をやるかでこれほど思考が変わってきます。

彼の思考の特徴的なところは、身体を捨てないことだと思います。つまり、身体とデジタル領域がグラデーションとして繋がっており、両極端になりません。たとえば、すべての研究が終わったら、フランスでワインづくりをしたいという発言があります。それは、あらゆるワインづくりの工程を機械化しても、最後にワインを飲む自分、その触感、嗅覚は確固としてあるといえます。あるいは、その触感、嗅覚を拡張させることはしても、すべては身体から出発します。身体の延長線上の話なのです。先程の介護の例でもそうですが、絶対的に身体の幸福が優先されており、あくまでもそれに追従するように技術の進化があるのです。言い換えれば、機械化されるのは、本来人間がやるべきではないもの、そして、人間の幸福を増幅させるものといえるでしょう。アナログな身体とイルカや犬のような身体は、相互に関わることでよりその感覚を深化させることが可能であり、それは人間に新たな喜びを与えます。

科学技術によって社会的な課題を解決しつつ、あるいは、来たるべき世界をアートとして提示しつつ、AIのシンギュラリティへの準備を整え、人間と自然が再び溶け合う再魔術化を目指す。それによって人間の根源的な何か(言語、芸術、宗教、信仰…)から諸問題(自殺や戦争ですら)が解決されるだろう。人間は人間らしい活動をするようになる。

彼の思考を乱暴にまとめてしまえば、上記のようになると思います。これは確かに荒唐無稽な話に聞こえるかもしれません。しかし、現在の自然科学、社会科学、人文科学の研究と呼ばれるものに最も足りないのは、長期的な視点で人類に寄与しようとする志しではないかと思います。自分は人文科学しか知りませんが、何の役にも立たない小難しい論文というのはいくらでもあります。経済学を学んでも、資本主義の構造を組み替えることは不可能に近いでしょう。学会の世界では業績を積むことが称賛されます。しかし、本当の意味での研究とは、人間の本性を切り拓くものではないでしょうか。彼の言葉を借りれば、<文脈>をつくるのではなく、<原理>を生み出すことです。それが誰がどういう形でいつ実現するのかはわかりませんが、すでに新たな<原理>が動き始めているのは確かでしょう。

アートとして自分の問題に読み替える

落合は自身のアート活動を次のように語ります。これは<文脈>での解釈はできない、エジソンやニエプスが行った<原理>の発明である。あえて<文脈>として語るならそうなるが、脱人間化はそうした議論も不要なものにする、と。つまり、<原理>の発明であるから、誰も批評ができず、現状はアートとして世間的には語りづらい状況があるでしょう。

このブログでは、自然を「人間の原理を超えて存在しているもの」として考えてきました。そのような自然を媒体を用いて人間が知覚可能なものにするとき、それを芸術と呼ぶのではないかと。そのとき、カメラという機械の知覚(<原理>)には、本来自然との関係が結ばれていると。その地点から人間の根源的な何かを触発(魔術化)するというのが自分の芸術観です。こうした考え方もまた彼の作品と同様に、現代アートの<文脈>にはのせることができません。
しかし、彼からみればそれは近代的なアナログな方法論と言われてしまうでしょう。確かに、それでは一部の理解者がいても、大衆を触発する力(再魔術化する力)はないし、これからもないでしょう。その点、デジタルネイチャーでは、誰もが容易に再魔術化するというのは素晴らしいメリットに思えます。自分がやっていることは、再魔術化されたあとの古典的でアナログな創作行為、人間らしい活動の一部になっているかもしれません。それは、もはや信仰の一形態であるでしょう。

自分ですら<文脈>から<原理>へ、脱人間をへて再魔術化へという思考のフレームはあったのです。つまり、同じことを考えている人はいるはずです。そして、それを人間に実装する理論も登場しました。これは遅かれ早かれ、ただ近代という時代が終わるというそれだけのことでしょう。ある意味、何も驚くべきことではないのかもしれません。いつの間にか、知らず知らずのうちに、新たな時代はやってくるでしょう。

PS
落合陽一さんという人は、誠実に人間を良くしたいんだなぁと思いました。

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