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被災した子供の「ごっこ遊び」と芸術の原型

被災した子供の「ごっこ遊び」に、人間と外の世界との関係の再構築という芸術の原型がみられると同時に、そういう芸術が求められているという話です。

先日の西日本豪雨に際して、以下の記事がネット上で出回っていました。

被災した子どもたちが「ごっこ遊び」をしているという話です。
「ごっこ遊び」は東日本大震災で大きく知られるようになりました。「地震ごっこ」や「津波ごっこ」と呼ぶそうです。子どもたちが地震や津波の体験を真似することを指しています。大人からみると不謹慎だと怒ってしまいがちですが、子どもの自己治療なので止めずに見守ることが大事であるとのことでした。

私はこの記事を見たとき、「芸術/演劇の始まり」を感じました。

過去に起こった出来事、それも自分の中で消化しきれない何かと向き合わざるえないとき、私たちはその何かと距離をもって接しなければなりません。一言でいえば「外部化」といえるでしょう。例えば、日記に今日あった嫌なことを書くというのも、言葉という形で自分の内から「外部化」するといえるでしょう。この「ごっこ遊び」も同じでしょう。言葉でうまく表現できない子どもたちが「外部化」を行うために、遊びやおままごとの延長で「外部化」することになります。自分の外に「出来事」を置き、それを反芻することで、自分の中に折り合いをつけるのでしょう。そして、日常が戻ると、この「ごっこ遊び」も必要なくなります。

この「ごっこ遊び」は演劇の原型となるものだと思います。今では、脚本、演出、俳優、大道具、小道具、衣装という多くの要素によって構成されるものを演劇と呼んでいます。しかし、この「ごっこ遊び」は純粋な形の演劇でしょう。配役といった形以前のある出来事をただ反復すること。それがどういった意味なのかもわからず、それをしなければならない状態にさらされていること。被災した子どもたちにとって「ごっこ遊び」は<切実なもの>だからです。もし、子どもたちにそれを禁じてしまえば、心身に何らかの異常をきたすでしょう。あるいは、最悪の事態を招くこともあるかもしれません。この演劇は、大人が楽しむ娯楽などではなく、子どもにとって必要不可欠な芸術なのです。

これは大げさな話ではありません。「ごっこ遊び」では安易に聞こえますが、「外部化」として捉えると、絵画でも同じことがいえるでしょう。絵画の原型というと、壁画になります。以下の画像は、ラスコー洞窟の壁画になります。

なぜ描いたかを簡単にいうことは難しいですが、その一つは「外部化」であるといえます。つまり、日常的に視ている動物、しかも、人間のように意思をもって動く人間ではない何かを理解しようとする思いを感じるのです。ただ頭で動物を思い描くのではなく、それを絵という形で外部化することで、得体の知れない何か(=動物)を人間と区別することができます。
これは、現代の人間の子どもが絵を描く理由と大きく異なるわけではありません。幼い子どもは親の顔を緑色で描いたり、顔のパーツの位置がバラバラだったりしますが、<みる>行為を通じて外界と格闘することで最適な絵を描くことが可能になります。その過程において、自他の境界というのを理解していきます。
ラスコーの壁画を描いた最初の人間も、現代の幼い子どもも、人間と外の世界との関係を、<みる>ことや絵によって再構築していったといえるでしょう。

「ごっこ遊び」もまた、人間と外の世界との関係の再構築といえます。自然災害ほど、大きな力をもった外の世界の暴力はないでしょう。その理不尽な出来事を「ごっこ遊び」として外部化することは人間の本能です。人間の本質に根ざしているという点で、この「ごっこ遊び」は芸術の原型といえるのではないでしょうか。

さて、なぜ芸術の原型を何度もいうのかといえば、芸術は人間を救うものでなければいけないと思うからです。そして、芸術の原型には、宗教性を含んだ人間の本質に関わるものが確かにありました。それは思弁的な現代アートでも、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」のような直接的に社会を動かす運動とも違います。現代の私たちにとって、<切実な芸術>とはなんでしょうか。それは忘れられているだけで、必ずあるものだと思います。

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