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密度とおろそかさの両立の難しさ ―リー・キット展@原美術館

おろそかでありながら、密度を高める。
密度が高くても、軽やかである。
両立させることは至難の業である。

リー・キット展に行ってきました。

展示構成は驚くほど、シンプルで大胆です。
むき出しで置かれたプロジェクター、それが投影する映像と光、そして、木の板や顔が描かれた絵によって構成されています。上記のサイトに載せられている写真のとおりの作品です。

ある種、写真の異なるコンポジションであるように感じました。光があり、像があり、フレームがある。それに加えて、ささやかなキャプションが添えられることで詩的な世界が広がる。これは写真表現に近いものがあるでしょう。
もう一つは、内藤礼さんの個展に近いものを感じました。「僕らはもっと繊細だった。」という表題通り、作家の繊細さというものが全面に出ています。空間的な気持ちよさという意味では共通しているかと思われます。

しかし、「何かがたりない」といわざる得ないのが本音です。それは前記事で扱ったバンクシーにも共通する現代アートの病理ともいえるでしょう。それは、「密度の高さ」というものがないということです。リー・キットの今回の作品も、彼の感覚や考えていることはおもしろいですし、雰囲気も良いのですが、それ以上の何かがないのです。たとえば、プロジェクターの映像と実際の板や布が一致しているように見せかけて、風や振動でズレが起きるという視覚的な異化効果が用いられています。ただそうした効果が活きるだけの芯というものが欠けているように思いました。

この欠けているものは、様々でしょう。
「形式」ということもできます。これが写真や映画という枠組みにおいて表現されている場合であれば、散漫にみえることもなかったかもしれません。
「自然的な要素」ということもできます。デジタルの光では表現しきれない何か、あるいは、視覚以外にも訴えかける何かが必要だったのかもしれません。
ただ、欠けているものを補い、作品の均衡を見つけるということは、簡単なことではありません。

量を多くせずに、密度の高さを生み出すこと。
密度が高くても、おろそかであり続けること。


相反する2つの状態が共存しているとき、芸術の強度というものが生まれるのではないでしょうか。


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