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自由の野は他人の自由につながっている

過去のnoteで、人間はみんな透明な土俵に上げられている、と書いた。他人の目に映る限り、無意識のジャッジに常に晒され、比較され、ラベリングされるということだ。

他人が自分をどう思うかを操れないのと同じく、自分自身が他人を見てなにを思うか、それを制御することは難しい。情報の取得と整理は、往々にして無意識かつ瞬時に終わってしまう。
言い換えれば、他人が自分をどう見ようがそれは個々の自由だし、自分が他人をどう見るかも自由である。どちらも他者によって侵食されてはならない領域だと私自身は考えている。
大事なのは、自分にとっても他人にとっても、瞬間的な印象はただの断片でしかないと理解しておくことだと思う。
(いや、いい時代になったなあと思いながらこの段落を書いている)

この境地に至れるまで40と数年を要した。
友人の助けで自分の内面を棚卸ししたことで、自分のどこに手を入れれば良いかが見えてきた、というのが大きい。また、ソロキャンプを始めて身体感覚がちょっと研ぎ澄まされたのもあると思う。
軽快かつ快適でいることが私の自由であり目指すところだ、とハラオチしたところで、中途半端な努力をやめた。
あれもこれもは性に合わない。いわゆる自分磨きに半端な手間をかけるなら自由に全振りしよう、と決めたら自己肯定感が爆上がりしたのは前回のnoteの通りだ。

と同時に、全振りとまではいかなくてもなにかに一球入魂している人ってこんな気持ちなのかも、と納得した。
仕事でも美容でもファッションでも、家事や育児でもなんでもいい。自分で決めたことに注力できている人の自己肯定感は総じて高いように思う。
無論、そんなに簡単に決められないしすぐに結果が出るものでないのはわかっている。だからこそ自己肯定に繋がるとも言える。

他人からの目はどうにもできないが、断片以上に私に興味を持ってくれる人に対しては、私がなにを大事にしてどうありたいかを伝えていきたい。同様に、目の前の誰かがなにを自己肯定の拠り所にしているのか、それを傾聴し尊重できる人間でありたい。

なんて思った日曜日の朝。


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