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無名のアルバム

記憶の中に、名前のついていないアルバムがある。
名前をつけることができない、というのが正しい。そこには、ラベルを付けてしまいたくない、未分類のままで思い出したい景色が何枚か眠っている。
それは時折ふわふわと記憶の表層に浮かび上がり、私の喜怒哀楽を一旦押し流して、どこかに去っていく。

心身の不調に名前がつくと病気になるように。
曖昧な男女関係に名前がつくと途端に終わりを迎えるように。
名付けられずにいるというのは、不確かなようでいて、むしろ自由を得ている状態なのだと思う。

アルバムの中には、写真としてデータに残っているものも、記憶の中にのみ描かれる景色もある。
声だけ、色だけという、すでにかたちを失ったものもある。
存在はしていたという痕跡だけを残して、すっかり消えてしまったものすらある。
15年もまえに亡くなってしまった友人の落ち着いたやさしい声を、私はもはや、「落ち着いた、やさしい」という定義でしか思い出せない。本人が聞いたならば、「モトコちゃん、それは僕を買いかぶりすぎだよ」と笑いそうですらあるのに。

けれどそのアルバムに「なにものかがいる、もしくはいた」という事実が、今日も私を支えている。
喜怒哀楽、季節、五感、心身の状態を越境して記憶のうちをただよう光芒のように、それらは心の足元を照らし、導き、新たな、もしくは見失った道を指し示す。

写真は、データとして残っているうちでは本当に疵ひとつない瞬間の景色。朝マズメの東京湾は、鳥の声、魚の跳ねる音、潮の動く音、様々な響きに満ち溢れながらも思い出してみると圧倒的に静かに完結していた。あのとき一緒にいた友人と何を話していたのかは覚えていないが、その日も釣れなかったので、途中で撮影旅行に切り替えたのだった。

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