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失明がこわくて眠れなかった私へ、今さらメッセージを送ろう。

「将来、目が見えなくなるかもしれない」と思った時、まず最初に浮かんだのは、「大好きなおかーちゃんの顔が見れなくなるなんて、寂しすぎてこわい」という子どもみたいな発想だった。いや、子ども「みたい」というか実際子どもの発想で、幼稚園のお泊り会で初めて家を離れた時の、強いホームシックに似ていた。

「見えなくなる」って、怖くて寂しい。世界から置いていかれて、自分が真っ暗な空間で一人、閉じ込められるんじゃないかと思う。私はお母さんの顔が浮かんだけれど、人によってはパートナーや、子どもの顔が浮かんだかもしれないし、仕事は?お金は?といった超現実的なことが真っ先に出たかもしれない。ただ、どんなことが浮かぼうと、共通してみんな感じているものは、「見えなくなること」への恐怖じゃないだろうか。


ここでは7年前「緑内障」と言われて、失明の恐怖に震え、眠れなかった当時の私に向けて、今さらながら言葉をかけてみる。きっとこう言われたらホッとしただろうなと思う言葉を。あくまで私自身に向けているけれど、もしどこか共感の種があったなら、あなたの心の隅っこに、ひっそり埋めてくれると嬉しい。

まずは聞いてくれ。きみの明日の朝は、ちゃんと明るい。

何言ってんだって思うかもしれない。けれど不安で仕方なかった夜、「明日、目を開けて真っ暗だったらどうしよう」と真剣に恐れおののいていたし、目をつぶった後開くのが怖かった。

だからあえて言う。もしかしたら、きみはいつか光が分からなくなるかもしれない。だけどそれは絶対に明日では無いし、明後日でもない。まずは目を開けて、きみの視界がちゃんと明るいことを知って欲しい。空の色が分かるし、どこかに押しやられたテレビのリモコンだって上手に探せる。


きみの視神経は、恐怖に囚われている今その瞬間だって、強くたくましく生きているのだ。

きみはそう簡単に、見えなくならない。

「見えなくなる」かもしれないと思った私は、いきなり、完全に光さえ届かない自分の目を想像した。朝と夜の区別がつかず、常に手探り状態で家の中のあらゆる場所を触りながら一つ一つ確認していて、外は点字ブロックの凹凸の感触のみを頼りに歩いている。


今の自分とかけ離れすぎていた。それが怖かった。想像できない自分が怖かった。だがきみ、それは黒か白か論だよ。きみはいきなり見えなくなるのではない。おおよそ見えているけど、少し見落としがあったり、割と見えているけど、目線をあちこち動かさないと危ないときもある。だけれどきみ、”グレー”な見え方をしている時間がたっぷり用意されていることを、決して見落としてはいけないよ。


あの頃、私自身がロービジョンの状態にもう少し詳しければ、あんなに落ち込んだことも無かっただろう。今や後述の障害者手帳2級など持っているけど、想像していた「見えなさ」よりはるかに見えている。

見えない自分を丁寧に描いてみて。

検査結果が悪い日の夜、きみはまた恐怖にさらされる。なぜそんなに怖いのか、今さらだけど答えを言おう。失明そのものが怖いのではない。失明する自分自身がどうなるのか、「想像できない」ことが怖いのだ。

怖さの正体は、「分からない」ことだ。

そこで対処法はひとつ。想像すること、分かること。何にも思い浮かばないなら、徹底的に調べるといい。全盲になった場合の、着替え方、食事の仕方、料理はどうしているのか?出かける方法、買い物はどうしているのか、そういった日常的な部分はもちろんのこと、仕事は?趣味は?といった社会的な関わりまで全て、具体的に丁寧に描いてみるのだ。

そうすると、あれだけ漠然と「自分は何もできなくなる」と思っていたことが、「これはできないけどこの機械を使えばできるのか。このサービスを利用すればこんなことができるのか」と具体的に分かってくる。もちろん、ここまでの心配は無用で一生を安泰に過ごせるかもしれない。その時は、考えすぎたね!と笑ってしまおう。がしかし、正体不明の漠然とした恐怖が常にあるぐらいなら、徹底してイメージを付けたほうが安心だ。


調べるのは面倒くさい?何を言っているんだきみ、夜の時間はたっぷりある。きみはどうせ恐怖で泣いてばかりいて、眠れないのを知っている。

福祉がきみを生きやすくしてくれる

当時、緑内障と聞いて私は、根拠のないイメージで70歳で失明すると仮定し、それまでに稼いでおこうと考えていた。広告代理店は目に負担をかけすぎるし、サラリーマンは性に合わないことも分かっていたのでフリーの士業になってやろうと思い、そして士業の道を開いた。けれど自分の想定以上に進行が早く、士業の道さえ手放そうとしたとき、私は一番怖かった。何者にもなれず、お金を得る術を失い、生活が回らなくなるのだと悟った。

だけどこれは私の無知が招いた、余計な心配であった。今は法の整備が進み、福祉が意外なほど充実している。きみは適当に選んだ先の眼科医から「障害者手帳とか障害年金とかああいうのは、ほぼ見えてない人が受けられるものなんだよ」と間違った情報を言われるし、大学病院の先生からだって「低い等級の手帳は取ってもあまりメリットがない」と言われそれを信じ、調べることをやめてしまう。その結果、1年以上前からずっと受けられていたはずの手帳や年金を申請しないまま放置し続けるのだ。損失はおおよそ100万円だぞ!


ほうら、無知って怖いだろう。逆に言うと、福祉について知っていると、未来が暗いばかりでないことが分かるし、受けた福祉で時間と精神的な余裕が生まれる。広告代理店で徹夜していた時よりよっぽど生きやすいじゃぁないか。

時間が有限だと知っている、数少ない人間のひとりが、きみだよ。

本当は刻一刻と過ぎ去っている時間だけれど、大抵のひとは「俺(わたし)は明日死ぬかもしれないんだー!」など考えて生きない。何の人生の役にも立たないようなコンテンツを消費して、一日を終えたって何とも思わない。
なぜなら、時間は有限だと理論上は分かっても、実感が無いからだ。

だがきみは違う。きみは失明という、”視覚の死”を今まさに実感しているところであり、この思ってもみなかったタイミングで、時間が全くないことに気付かされる。恐怖を感じている余裕なんて、実はそんなに無いんだぞきみ。見えなくなるまでに、何を見て何をしたいか、見えなくなった自分のために、どんな環境を準備するか。考えることは山積みで、実際にやることは計り知れない。そして今の私もまだその道中のため、偉そうなことは言えない!


だがこれだけはひとつ言える。時間が有限だと知らなかったときより、知ってしまった後のほうがはるかに生きている実感がわく。動き出した時間は、もう止められない。きみが泣き明かしたその1日で、私は始発バスに飛び乗って市場で寿司をくらってやる。同じく過ぎ去る時間なら、私は寿司をくらってやるぞ。

失明が怖くて眠れない私へ。

この記事のはじめ、あれだけ優しく励ましたのに、最後のほうはきみを放って寿司をくらってごめんなさい。こんなに長々書いたって、私だっていつかまた、怖くて眠れない日がくるかもしれない。

そんな時は思い切り泣こう。きっとまた更に未来の私が、「もう!実際になんとかなってるから大丈夫だって~」と笑っているに違いない。

そう信じて、ゆっくりおやすみなさい。

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