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「商店街」を歩くこと
リタイア生活を株式投資で楽しむモト3の妄想エッセイ
私は商店街を歩くことが好きだ。数年前まで住んでいた郊外の家では近くに商店街がなかったので、散歩は自然豊かな道が多かった。田んぼの稲の状態を見ると季節の移り変わりを感じられる。公園に咲く花も季節によって変わる。それはそれで楽しいけれど、商店街を歩くことには違った面白さがある。
商店街も年中同じではない。お店にも栄枯盛衰というか新陳代謝がある。この店は客が少ないなあ、と感じているとそのうち閉店する。だけど、すぐに違う店が開店する。飲食店の変化は激しい。
私が株式を保有する外食企業の店も商店街にいくつかあるので、客の入り具合が気になる。いつも客が少なく心配している店があったが、店の前で呼び込みをするわけでもなく、メニューを刷新するわけでもない。外から見ていると何の工夫も感じられなかった。
毎日暇を持て余しているように見える店員さんが可哀そうで仕方がなかった。私の経験では、多忙で手が回らない辛さより、暇でやることがないことの方が何倍も辛い。本社の人は巡回して指導しているのだろうか、とひとり嘆いていたら、1年ほどしてやっとその店は閉店した。店の収益の前に、もっと働く人の人生を大切に考えなければ、と思った。
商店街には多種多様な人たちが歩いている。商店街は弱者に優しい通りだと思う。たまに大阪駅周辺や御堂筋へ行くことがあるが、シュッとした人ばかりが歩いている。だが、私が時々歩く商店街には、シュッとした人が少ない。
商店街では、腰の曲がった人、猫背の人、首の曲がった人、杖に頼りながら歩く人、立ち止まって休憩しながら歩く人、シルバーカー(手押し車)をゆっくりゆっくり押しながら歩く人、車いすで移動する人、白い杖を叩きながら一人で歩く人などを見かける。商店街はそんな人たちが日常的に歩いている街である。
私は、欧州に10年以上暮らしていたが、スーパーや市場など人通りの多い場所に身体的な弱者を見かけることはほとんどなかった。確かに、スーパーの入り口の前には身障者用の駐車スペースはあったけれど。
もう90歳半ばの義父は、最近では自分一人で歩ける範囲がどんどん狭くなってきた。歩ける範囲に商店があれば自分で好きなものを買って食べれる。人に頼んだら?という問題ではない。義父の家の近くに商店街があればどんなにすばらしいのだろうと義父に会うたびに思う。
健常者のように歩くことが出来ない人にとって商店街は大切な場所である。身近にあって、日常の用を足せる。店の人との会話もできる。歩くスピードが遅くても、気兼ねすることがない。
最近その商店街でもインバウンド客が増えている。商店街がどのように紹介されているか知らないが、リアルな日本社会が見える場所だ。シャンゼリゼや銀座や御堂筋はどこも同じで、そこに住む人たちの生活が見えない。
商店街を訪れるインバウンド客がこれ以上増えないで欲しいと私は願っている。周辺に住む人たちにとって大切な場所だから。そして、私が近い将来に杖をついて歩くようになった時も安心して歩ける街であってほしいから。
<了>
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