「夜の海」と「女は海」を考えた思春期の湘南ボーイ達
先日、中学の仲間と地元で酒席を共にした。歳を重ねるとお酒の席の話題は、過去の同じ思い出話を思い出す作業に変化してくる。その日の思い出話は、友人の携帯のSNS検索画面が可愛い水着の女子でいっぱいだったことから導き出された「女は海」の思い出話だった。
「湘南」と呼ばれる地域に住んでいながら僕達は海に面した街に住んでいない。
そこを「湘南」と呼ぶことは本当は間違いなのではないかと住んでいる誰もが感じていたのだが1994年10月31日に、この世の中に「湘南ナンバー」が誕生する。僕が12歳の頃だった。
この区分けにより、僕達が住む神奈川県伊勢原市は、「湘南」の恩恵を受けることになる。僕達が「湘南」と呼ばれる魅惑の響きからもらった圧倒的な解放感は、そこに山しか存在しないはずの伊勢原市に、急に爽やかな潮風が届くようになり、僕達より少し年上のロン毛の丘サーファーと長い髪にウェーブがかかった露出度が高い僕達好みの女性達が急増したことを覚えている。海のない街では日焼けクリームが販売され、露出度高い女性達からココナッツクリームの香りと誘惑の視線が出され始めたのもこの頃だった。
以来、伊勢原市の男子は皆一度は、「山の湘南」という自虐的な笑いを含む魅惑のキーワードの恩恵を受けて青春を過ごすことになる。
思春期真っ盛りの純情中学生の僕達は、「湘南」の響きを何よりも誇りに過ごし、いち早く車の免許を取得し「湘南ナンバー」のピックアップトラックや、旧車のステーションワゴンで湘南の海沿いを走ることを目標にするようになる。
山の湘南に住む僕達は、本物の「海」である湘南への憧憬が、実際には「山」で暮らしている劣等感と混ざり合いながら、とても歪な形でその理想の形が現れるようになっていた。
「なぁ。夜の海だと女子も裸らしいぞ」
「海沿いのナンパスポットでのナンパOKの車待ちの女子は、ノーブラが目印らしいぞ」
どこぞの先輩やら、上に兄貴達がいる友人からこういうニセ情報がよく流れてきていた。僕達の「湘南の海」への憧憬は、伊勢原市には決していないであろう刺激的な女子が溢れる場所へと変貌していた。これは、「湘南」という響きの解放感から女子も解放的だという勝手な思い込みによる中学時代の魔法だと今なら考える。
当時は、今みたいに簡単に全世界の女子を知ることも出来なかった。僕達の中学時代は、部活の後に「冒険」と称してエロ本を探しに田んぼの用水路や、陸橋の下、幹線道路の高架下を徘徊する毎日で、見つけたエロ本を皆で一枚一枚開き、その一枚一枚を目に焼き付けドキドキしながら、大人の女子とは女神と本気で思っていた。
「なぁ。『女は海』って歌ってる歌あるだろ。あれって、本当だと思うんだよ。誰かが海で感じないとあんなこと言えないだろ」
ある日友人は、一つの答えを見つけたかの様に自信に満ち溢れてこの発言をした。それは、ジュディ・オングの「魅せられて」が何度目かのリメイク発売されていた頃である。
僕達は、エロ本を開きながらそんな裸の女神達に間違いなく毎日「魅せられて」いた。
「女がもし本当に海なら、今後のために確かめといた方が良いんじゃないか」
ふと、友人が放った核心をついた一言に異論を唱える者はいなかった。誰もがその答えを知りたく、そしてまた、今後も未経験で居続ける怖さを知っていたからだ。
純情中学生の僕達は、夜の海へ自転車で行くことを計画した。夏休みの夜は比較的どの家も自由に遊ばせてくれていた。というか僕達の家庭環境と反抗期の相乗効果によるものなのだが。
僕達は夕方に集合し片道1時間半くらいかけて、夜の海へ本物の夜の女神を探しに出かけた。
思春期の僕達は、砂浜には裸の女神がいっぱいいて、僕達を未経験のその先へ案内してくれるはずだと妄想しながら、まだ見ぬ女神のために自転車を必死に漕ぎ、汗をだらだらかきながら、夜の湘南の海と、笑顔で迎えてくれるであろう女神達に本気の恋をしていた。
僕達がたどり着いた夜の海は、想像以上に暗くて波の音だけが真っ黒な大きな海の存在を教えてくれていた。雲の隙間から若干感じる月明かりが海を照らし、その明かりで自分たちと海との距離を確認し砂浜に腰を下ろした。僕達は、夜の海にいるという非現実感から落ち着くことのない気分の高まりを感じていた。
僕達は現実に戻るためにまず、僕達をドキドキさせ大人の男にしてくれるはずの裸の女神達がそこには存在していないことを確認し合うことから始めた。
しばらく現実を突き付けられた悲しみの波の音に聞き入っていたが、このままではまずいと友人が立ち上がり僕達を導いた。
「なぁ。女は本当に海なのか確かめようぜ」
僕達は誰もその意見に反論出来なかった。なぜなら、女は本当に海なのか知る必要があったからだ。それは女は海だと知ることこそが、僕達を大人の男にさせてくれると思っていたからだった。
「大人になろうぜ」
その言葉で僕達は服を脱いだ。そこに抵抗などなく摩擦ゼロでするすると、まるで儀式の用に綺麗に全部脱いだ。
純情中学生の男が4人。まだ完全体ではないその軀は海の女神に完全に誘われたのだった。
「よろしくお願いします」
なぜか1人ずつ順番に女神へ挨拶して海へ飛び込んだ。
真夏の夜に入る海は、その外の蒸し暑さと水の冷たさが重なりあい、とても不思議な気分にさせてくれた。そして、全裸における海の抵抗のなさは僕達を確実に違う次元へと連れて行ってくれた。
「なんかめちゃくちゃ気持ちよくないか」
誰かが発したこの言葉は、完全に嘘ではない。まるで誰かに触られているような感じがするくらい気持ち良かったのだ。特に、波打ち際に4人座り込み、寄せては返す波に身を委ねているとそこに優しさから来るエロさを感じずにはいられなかった。
僕達は、間違いなく『女は海』を知った。
「大人になった記念に写真撮ろうぜ」
友人は、綺麗に畳まれた服から『写ルンです』を取り出し写真を撮った。インスタントカメラの『写ルンです』は、現像されるまでどういう写真なのか確認することが出来ない。僕達は、構わず全裸で写真を撮りまくった。この日は、僕達が大人の男になった記念の日だからだ。
当然現像されるワケがないはずなのだが、当時伊勢原市に存在したある場所での現像は、モザイク無しで何でも現像されると都市伝説的な噂があった。
世の中には、下心満載な大人のカップル達が存在していることを僕達は知っていたので、その現像出来る場所へやって来るカップル達を僕達はよく観察していた。
うらやましいなと。いったい何を撮影してるんだと考える毎日だった。
僕達が現像に出したその日の写真がどうだったのか今さら語るものでもないが、あの日の海は魅惑でいっぱいだった。あの経験で僕達は同時に大人の男になったと今でも語っている。
その日の酒席の友人の検索画面が可愛い水着の女子でいっぱいなのは何も不思議なことはない。あの日からずっと僕達は溺れているのである。
間違いなく『女は海』だったのだ。
「なぁ、『女は海』の次の歌詞知ってるか?」
その日の締めに友人が聞いた。
「『好きな男の 腕の中でも
ちがう男の 夢をみる』だぜ」
僕は、何も言わない全員を見渡して満を持して説いた。
「そこがまた女性の素敵なところだろ」
僕達は、再び生涯女性を好きであることを誓い合いながら、あの日の夜の海へと乾杯をした。
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。