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[小説]問題のないお付き合い Part.2

*Part.1*

「ほんっっとに男ってバカ!!」

どすどすと激しい足音に続いて、ばん!とリビングへ通じる扉が開けられた。それと同時に、怒鳴る彼女の声が響いて私は身構えた。
ソファに寝そべりながらスマホをいじっているが、頭の中身はフル回転していて、次に彼女が何を言うか身構えている。

平静さを装うように、できるだけ自然な声で、「何かあったのー?」と間伸びさせて聞いた。火に油を注ぐことのないように、慎重に。

「古いルールに固執してほんと意味ない!!自分のプライド守ることばっかり考えてるんだよ。くだらないってわかんないかなあ!」

彼女はバサバサとコートを脱ぎ、荷物を置いて、スーパーで買ってきた野菜だったり飲み物だったりを冷蔵庫に勢いよく入れる。がしゃん!ばたん!がたがた!空気が震えてうるさい。

「なんか、本人たちはルールを破っちゃいけないって思ってるのかもね」

きっと職場で何かあったのだろう。なるべく彼女の意見から外れないような相槌を探す。オウム返しにならない程度の。ちゃんと聞いてないと思われないくらいには具体的な。

「破っちゃいけないなんて本末転倒でしょ!?それが正しいルールかどうか見極めてからじゃないと意味がないのに!」

まるで彼女が文句を言いたい相手が私なのではないかと感じるくらいの剣幕で、彼女は怒り続ける。主張そのものは間違ってるとは思えなくて、むしろ正しくは感じる。
まだ高校生の私からすると仕事のことなんて漠然としかイメージできなくて、何を言ったら良いかはわからないけど。

「うーん、そうだよね」

相槌が思い付かなくて、曖昧な返事になった。冷蔵庫に物を詰め終えた彼女はいつものようにコーヒーを飲むためにお湯を沸かし始める。がちっ。じじじ。
キッチンに置いてある作業用の椅子に座ってようやく彼女はこちらの方を見た。しん、と静まる空気に、気分が落ち着いたのかなとほっとするとその場に一言投げられる。

「あんたってほんっとに事勿れ主義。そういう優柔不断で煮え切らないところ、父親にそっくりだよ」

先ほどのように怒鳴ってはないのに、瞬間の静寂との合わせ技でやたらとしっかりと声が通る。こういう時の彼女の目は据わっていて、見つめ返す勇気がない。あはは…と乾いた笑顔で場を濁す。

「あいつもそうやって空気読んでばっかりだった。自信がないんだよ。だからつけ込まれるんだ。その癖プライドがあってそれを認められなくて、埋めてくれる人間に依存する。あんたは絶対あんな風になっちゃダメだよ。ああいうタイプはトータルで絶対に損するんだから」

うん、うん、ほんとそうだよね。
私は母親よりも父親似なのか、よくこうやって指摘される。人の顔色を伺って、空気を読んで、壊さないように取り扱う。

彼もそうして人の顔色を伺って他県に単身赴任して、空気を読んで周りの人たちと同じ様にスナックに通って、壊さないように広くゆるく色んな人と繋がって、そうして「支えたい人ができてしまった」とそこで知り合った女性を選び取って、私たちを捨てた。

私たちは彼にとって「支えたい人」にはならなかったらしい。

「奈緒は絶対にそういうくだらない男に引っかからないようにしなね?」

その後もぶつぶつと呟きながら彼女はコーヒーを淹れる。
いつもの昼下がり。いつもの週末。いつもの暮らし。そしていつも上手く会話ができなくて怒られてしまう私。優柔不断だから。心が弱いから。彼女のように明るく快活でないから。

*  *  *

「あのさ…悠真と会ってるよね?」

美咲希が真剣な面持ちで私を見つめる。外から日の光が差し込む明るいカフェで、アイスティーのグラスを持つ美咲希の手は震えていた。こんな日でも爪先までピカピカに磨かれていて、形も綺麗なラウンドだ。きっとネイルサロンに通っているのだろうと思って尋ねたら、自分でやっていると言われて驚いた。東京の大学に進学してきて何もわからない私に声をかけてくれて、ゼミも同じになって、もう3年もずっと仲良くしてくれている。

「なんでなの?」

私の沈黙を、肯定だと捉えた美咲希が続けて質問する。堰を切ったように声が震えて、ぐす、と鼻をすする音がする。美咲希のぱっちりとした瞳が真っ赤に濡れて、こんな顔をさせたい訳ではなかったのに。ただ、美咲希が好きな男の子をほんの少し分けてもらえれば良かった。私はそれで。

「好きならさ、言ってくれれば良かったじゃん」

美咲希の想いと私の想いが一緒かはよくわからなかった。悠真くんから零れ出る美咲希の惚気話が、二人の間にある結びつきが羨ましかったから。美人で明るくて努力家な美咲希と、優しくてお洒落な悠真くんはテラスハウスみたいで、2年も付き合ってるのにずっと仲が良くて、憧れの二人のことを傍で見てるだけで嬉しかった。ただそれがもう少し、もう少し、って欲張りすぎてしまったのかもしれない。

「私…急に…なんかもう本当によくわかんない」

私からしても驚きだった。まさか悠真くんが美咲希と別れるなんて言い出すと思わなくて。「奈緒ちゃんみたいになんでも許して受け入れてくれる人、俺初めてかも」と言われたけど適当に言ってるんだろうと思って気にしていなかった。だって、私、許しても受け入れてもない。別に悠真くんと私の人生は関係ないから。ただ私はその時自分で選んだ男の人は結局皆どこか「くだらなく」て、美咲希のことを大好きな悠真くんが、どんなふうに恋をしてるのか知りたかっただけで。

何をどう説明しても美咲希に軽蔑されそうな気がして、言葉を奪われてしまったみたいに私は黙りこくった。緊張で涙がすーっと流れ出て、自分の無力さが恥ずかしい。「そうやって黙って泣いてれば誰か助けてくれるって思ってるんでしょ?」と、昔のクラスメートに言われたことがある。違う。言葉にできるならしたい。伝わるなら伝えたい。こんな風に何も言えずに泣いている自分が、私は誰よりも嫌いだ。

「奈緒はずっと優しくて、良い子だってわかってるけど、もう今までみたいに仲良くできない」

声は震えているのに、美咲希は一つ一つの言葉をゆっくりと、確かめるように発する。ここまで来ても丁寧に、自分の言葉を紡いでくれる美咲希の強さと正しさが眩しかった。きっと今日この場に来るまでに、何度も何度も考えを巡らせたことだろう。物事を深く考えられない私とは違って、美咲希はきっと、私を今日カフェに誘うかどうかさえ、たくさん迷って、悩んで、決めたのだろう。

「…ごめんなさい」

絞り出した言葉は美咲希とは全然違っていて、か細くて消え入るような声だった。美咲希は「うん」とも「ううん」とも判別のつかない間の相槌で、「無視するとかじゃないから」とさらに重ねた。

「ゼミで一緒のときはちゃんと授業受けるし、必要なことあったら声かけるし。ただ、今までみたいに学食一緒に行ったり、3限なくて空いてるときに喋ったり、土日買い物行ったり、そういうことができない、どうしても。ごめん」

たぶんきっと絶対に、美咲希が謝るようなことではないのに。そして美咲希が丁寧に語る「私たちがこれから失うもの」の話に、じっくりと私は嫌な汗を聞いて、思い知らされた。そっか。私これから失っちゃうんだ。美咲希とのこと全て。

[Yuma:今日良かったら会えない?]

ブブッ、とテーブルに置いていたスマホが震えた。通知のポップアップが出る。悠真くんからのメッセージだった。いま、あなたに突然別れを告げられた美咲希が、こんなに真っ直ぐに私と話しているのに。泣いても、声が震えても、心は取り乱さずに、丁寧に折り目をつけるように、しっかりと、じっくりと、正しく私とも決別しようとしているのに。

それを知らないこの人が、なんだか急に「なんなんだろう」と思えてきた。もしかして何も分かってなかったのかな。美咲希に対して語っていた愛も覆すことができる程度に。あまり考えていなかったのかな。

「じゃあ、私の分ここに置いとくから、帰るね」

スマホの通知が見えたのかもしれないし、見えなかったのかもしれないし、見えたとしても気にしなかったのかもしれない。美咲希はきっちり自分の分のお金を置いて、トートバッグを抱えて席を立った。何も言わずに去る美咲希は、Tシャツにジーンズにスニーカーというラフな服装だったけれど、Tシャツは皺もヨレもなくて、ジーンズは美咲希の形の良い足にぴったりで、白のスニーカーはぴかぴかに綺麗で、一つ一つが美咲希のセンスの良さと、真面目さを表しているようだった。

俯くと、何気なく自分のパンプスが目に入った。色も可愛いし形も気に入っているけれど、歩き方が下手なのか、明るいところでよく見ると傷だらけだった。ブラウスも、いつついたのかわからないがフリルの部分にほんの少し染みがあった。気づかなかった、嫌だな。美咲希と違って付け焼刃だ。全部、全部、全部。

[Yuma:明日予定ないし、泊まり来なよー]

ブブッ、とスマホがまた震える。悠真くんからのメッセージ。何も知らない男の子。フェイクの私を見抜けない男の子。普通で。凡庸な。

今までみたいにすぐに返事をする気にはなれなくて、漠然とスマホを見つめた。

* * *

は。と深夜に目が覚めた。

夢を見ていた。借り物競走か何かの夢だった。お題のカードをめくったら「おにぎり」と書いてあった。しかしそこは異国の地で、おにぎりどころか白米すら手に入るか怪しい。カードを手に持ち、立ち尽くす。周りを見ると皆はお題のものを早々に見つけて次へ向けて走り出している。メガネ、かごバック、えんぴつ、ウサギ、指輪、ペナント…。

誰かいませんかー、と声を上げて皆すぐに何かを見つけて走り去ってゆく。でも、ここには絶対おにぎりなんかない。奇異なものを見るたくさんの瞳に囲まれて、私はずっと立ち尽くす。あの人いつまでやってんのかな。早く終わってくれないと。ため息まで聞こえてしまいそうなうんざりした空気。

何か一言でも発さなきゃ。あの、私、リタイアします、ってせめて。

そう体をこわばらせて「あ」と発声しようとしたところ、いやたぶんほんの少し発声したと思うが、体ごと目覚めて起きた。空気の静けさと冷たさに現実に引き戻される。天井がいつもよりも遠い。今日は圭太と紬さんが家で鍋をやるというから仕事を早めに切り上げてお邪魔して、そのまま泊まって客用布団で寝ていたのだった。

ある程度スッキリした目覚めに、このあとしばらくは眠りにつけないだろうと確信して、トイレにでも行こうと布団から抜け出た。

部屋の扉を開けてリビングを通ろうとすると、うっすらと暖色の照明が点いている。がさ、という音がテーブルの方から聞こえて見てみると、そこにはおにぎりを頬張ろうとしてる紬さんがいた。

「ち、ちがうよ?」

今まさに頬張ろうとした口で紬さんは慌てて否定する。何が違うのだろう。

「たしかに今日ご飯控えめにしようって言ったよ?でもいつもご飯おかわり2杯食べてるとこをおかわりしなかったの。でもお腹空いて目が覚めちゃって、そこでおにぎり一個分足してるだけだから、実質普段より少なめだから!」

早口でまくしたてる紬さんに、寝起きの頭でようやく追いついてきた私は、ああダイエットするって紬さん言ってたなあ、と思い出した。
たしかに少し紬さんはふくよかだけど、そこが可愛いのに、と思ってスルーしてしまっていたのだった。

炊飯器に残ったご飯で作ったであろう暖かそうなおにぎりをじっと見つめる。私、夢でおにぎり探してたなあ。おにぎりの気配感じてたのかな。

「…奈緒ちゃんも食べる?」

無言でおにぎりを見つめる私に、お腹が空いていると思ったのか紬さんが恐る恐る尋ねてきた。いや、違うんです。と今度は私が否定する。

「おにぎりの夢を見て。あ、いや借り物競争を夢でさせられてて。お題カードにおにぎりって書いてあるのに、無いんです、どこにも。それで目が覚めちゃって」

夢の内容を真剣に説明してしまって、自分でも支離滅裂だと気付いてじんわり恥ずかしくなってきた。「そんなこと」って言われちゃうかな。「そんなこと」だよね。大したことない話を、いちいち悲しくなったり取り乱している私。大人にもなってくだらない。

「わ、か、る!そういう夢ってほんと悲しいよねえ!!」

数秒私が逡巡している間に、おにぎりを頬張り終えた紬さんが大声で返事をしたので、虚を突かれて黙ってしまった。

「あ、緑茶淹れよう。奈緒ちゃんも飲む?」

切り替えも早く、紬さんが別の言葉を挟みながら立ちあがって、キッチンへ消えていく。

「あ、玉露ある!玉露にしよう!」

ガチャガチャ、ばたん。棚を開け閉めしているのか、落ち着きがなく陽気な音が聞こえてくる、喋りながら移動して、喋りながら作業して。変なたとえかもしれないけど、ディズニーの映画を観ているみたい。くるくると移動して場面が変わっていく。紬さんが奏でる音を聞いているうちに、ペタペタと寝室の方向から足跡がした。圭太も起きてきたようだ。

「…あれ、奈緒も起きてたの?」

寝起きの圭太のぶっきらぼうな声。お腹のあたりをぽりぽりと掻いていて、体育会系の名残の少し肉厚な体と浅黒い肌が見える。ちょうどお茶を持ってきた紬さんが圭太に、「起きてたよー!圭も起きちゃった?」と軽やかに話しかける。

「うん、紬なんか大声出してなかった?それで起きた」
「それがさあ、聞いてよ!奈緒ちゃんが悲しい夢見てたの」

夫婦であり幼馴染の二人の会話が遠慮なく繰り広げられて、おにぎりの夢の話を私の代わりに紬さんが説明してくれる。

「そんなんさあ……」

圭太がしかめっ面をして、腕を組んで黙った。くだらない話だよね、と緊張してしまう。でも紬さんは分かってくれたから、今日はそれでいいかも。大丈夫かも。ドキドキしながら圭太の次の言葉を待つ。

「…………めっっちゃ悲しいタイプの夢じゃん!!」

溜めに溜めて、勢いよく言うので笑ってしまった。紬さんが「そうでしょ!?」とさらにかぶせるように相槌を打つ。

「私もさ、昨日も原稿落とす夢見て。良いもの描けたと思って自信満々で提出したのに、原稿データ真っ白なの。ほかの人の作品はちゃんとしてるのに自分だけ真っ白なページで発売されてて。ほんと変な汗出て起きちゃったよね!」
「わかる~…。俺もさ、いまだに宿題忘れて教室の端で立たされる夢見るもん。ほかのやつらが白い眼で見てくるんだよな」

紬さんがいつもの抑揚の利いた発声ですらすらと喋る。圭太もそれに続いて、はきはきと通る声で快活に喋る。
ぼそぼそと喋る私とは違って、ふたりの緩急があって涼やかな声が気持ち良い。

「そんな夢見たらしょうがないよね」
「そんな夢見たらしょうがないよ」

二人が息を合わせて言うので、「いや、もう本当ぜんぜんくだらなくて」と軽やかに笑って返事をしようとしたら、突然声が震えて途切れ途切れになって、最後の二文字でぽろぽろと涙まで零れてしまった。

「奈緒、どうしたの」
「くだらなくないよ~!」

圭太と紬さんがガタガタと立ち上がって、圭太が右側に、紬さんが私の左側に座りなおした。上手く言葉が続けられなくて涙を落とす私に、圭太が私の肩をさすり、紬さんが私の背中をぽんぽんと優しく叩く。圭太の武骨な手と、紬さんのやわらかな手の触感が伝わる。二人の手のひらが暖かくて、私は初めて自分の体が冷えていたと気づいた。

「ごめんなさい、なんか急に、きちゃって」

途切れ途切れに言葉を発すると、「ああね」「あるよね」とまた二人が息を合わせて返事をした。私のすすり声だけが響く静かな時間が訪れる。圭太も紬さんも何も言わずに、私の体をいたわるように、小さな子供をあやすように、優しく触れ続けてくれていた。

既婚者だとわかっていながら圭太と恋をして。紬さんが私ごと受け入れてくれて。ずるいってわかってる。都合が良いってわかってる。いま、今日この時だけ成立している関係かもしれないけど、私、ずっとここに居たい。

ここに居たいの。

これから先もずっと。

二人の体温を感じながら、私は祈るように心の中で呟いた。

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