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[小説]問題のないお付き合い

手を繋ぐと、彼の左手の薬指に、ふと硬い感触がある。
彼の体に馴染んでいる"それ"は、そこが自分の場所だと疑わずに鎮座しているので、私も"それ"は彼の体の一部だと思っている。

事実、"それ"は彼の体と同じように、暖かく、頼もしい。
他の女が彼につけた、「正解」の印。

視線をもどし、彼の筋張った腕、少し筋肉のついた肩、鎖骨…と下からなめていく。
首筋の筋肉ー直線ーと、首の緩やかなカーブー曲線ーの交わるところも好きだが、
耳から顎にかけて、くっと曲がるエラの折れ線が美しい。
私は男の体の中で、このパーツを一番愛している。

「奈緒、どうした?」

圭太が不安そうに私の瞳を覗き込んだ。
大人しく視姦されていた彼はいま、ぎゅうぎゅうの満員電車で潰されないよう、扉のところに肘をつき、私の壁になっている。
体調でも悪いのかと心配したのだろう。
事実、金曜夜の0時すぎの中央線は最悪だった。ほろ酔いと、泥酔と、シラフでボロボロな大人たちが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
車両ごと鍋にでも入れて、冷蔵庫で冷やして型を外せば、おどろおどろしいゼリーが出来上がるだろう。
東京の終電ゼリー。

「うん、暑くて」
「暑いよなぁ」

圭太が歯を見せて笑う。彼はすぐ笑う。何の屈託もなく、彼の口は開いたり閉じたりする。

「紬(つむぎ)さんは、実家なんでしたっけ?」
「紬?うん、そうそう。今日と明日は泊まってくるみたい」

電車の中で名前を出すのは少し緊張した。しかし、彼と、彼の妻ー紬ーが良いと言っているのだから、良い…のだろう。

「だからー」

圭太がまた口を開けたところで、扉が開き、人間がドドっと排出された。
ちょうどそこは圭太の家の最寄り駅だったので、私たちはその流れに乗って、魚のように改札へ泳いで行く。

「だから、奈緒といっぱい過ごしてやろうと思って」

改札を出て、私の手を握りなおした圭太が、いたずらっぽく笑った。

* * *

「誰かの男」と付き合うのは、私の人生では普通。のことだ。

友達の彼氏、彼女がたくさんいる人、結婚している男の人。
他の女が付けた「○」を目印に、人の波をかき分け、引き寄せられていく。

常識的な振る舞いができるか?
すぐに怒鳴ったり機嫌が悪くなったりしないか?
私が困っている時に、話をじっくり聞いてくれるのか?
惹かれざるを得ない何かを、持っている男なのか?

私1人では、そんな途方もないチェックシートを埋めるのに、どれだけの時間がかかるだろう。
私に見せているその面が偽りではないと、どうやって判断できるのだろう。

だけれども、あらゆる女が厳選を重ね、躊躇いを超えて引き寄せられる男たちは、試験をパスした男たちは、「正解」に決まっているのだ。

いつも彼らは優しくて、穏やかで、引き際も心得ていて。私に暖かな思い出と寂しさをくれる。

昔は友達の彼氏や、友達の好きな人や、元彼とばかり付き合っていた。
大好きな友達が目を輝かせて語る男を、私も好きになった。
私の大好きな友達が大好きな人なのだから、間違いないと。
愛おしさもより募る。

しかし、それは友達を傷つける行為だとたくさんの人に怒られ、実際にいくつかのかけがえのない縁がブチブチと途切れてしまったので、社会人になってからは「知らない女の男」と付き合うことにした。

合コンでも、職場でも、知人の紹介でも。「彼女がいる」「結婚している」と知ってから、私の恋が始まる。

圭太はそのうちの何人目かの「既婚者の彼氏」だった。

* * *

「あ、あいつが全部用意してくれてるや。これ使って。」

ベタベタした体を洗い流したく、シャワーを浴びたいと圭太に伝えると、
ふかふかのタオルと部屋着のセットが与えられた。
来客用のそれはおろしたてのようで、シワもなく、くたびれてもいない。

「ありがとう」と私はそれを受け取る。
本当に<公認>なんだ。不思議な実感が、頭をよぎる。

今すぐ玄関のドアがぶち破られて、撮影中のビデオを持った彼の妻と探偵社が、ダーっと流れ込んだりしてこないだろうか。
「相手は許してくれている」と言って、許されてない男がいた。何人か。

私は妻が、あるいはその男が、何故そのような嘘をつくのかわからない。
いまだに。

「相手ー妻ーの気持ちになれば、自然とわかるだろう」と言われたことがある。何度も。
私ならば、何を思うだろうか。思いを馳せてみたけれど、怒りや恨みといった強いエネルギーの感情が、どうしても呼び起こされない。
私ならば。ーーきっと、2人で選んだ男が、「正解」だったら良い、と願うだろう。

* * *

家の外が、ほんの少し騒がしい。
スズメの鳴き声、ビニール袋がこすれる音、ガラガラとキャリーバッグのタイヤが地面とぶつかり、転がる音。
「人の体温」が感じられる。その誰かは家に向かってくる。
扉の前で止まって、少し躊躇うように、ガチャリとノブが引かれた音がした。
私は全て気がついているが、息を呑んでソファに座っている。
圭太は気がついていない。
リビングのそばのキッチンで、私たちの朝食の後片付けをしているから、洗い物の音にかき消されているのだ。

「圭ー?」

男を疑いもしないような、真っ直ぐな声が廊下に響いた。
リビングの扉を開ければ、いつもの変わらない日常があると信じて疑わない声。
本妻の音。

「あ、お帰りー!」
圭太はすぐに水道を止めて、廊下に続くドアへと向かった。
磨りガラスの向こうに、実家からもらってきたのだろう、荷物をたくさん持った女が立っている。
大丈夫だとわかっているのに、喉がぎゅうっと絞られる。
彼らではない、「場」に許されていない、私がいる。

* * *

「あは、初めまして」

少し目にかかる前髪をかきわけながら、紬さん…は、はにかむように笑った。
ふくよかなほっぺ。切り揃えられた黒髪のボブ。
私よりも6つ年上のはずだが、思っていたよりも幼い。
言葉を選ばずに言えば、少し野暮ったい。それに、童顔だ。
子どもと遊んだり、体を動かしたり、土いじりが好きそうな顔。健康的な女。

「圭から話聞いてます。やだ、可愛い。」

ハネている前髪が恥ずかしいのだろう。ちょいちょいと触っている。
私は詰められるか、良くて刺すような目で見られるか、無い物のように無視されるのだろうと思っていた。
だから、こんな「お客さん来てるのに、髪の毛ボサボサで来ちゃった」みたいな、まるで「日常」のような温度感で来るとは思わず、拍子抜けしてしまう。

「えと、私もお話聞いてます。初めまして、小宮山奈緒と申します。圭太さんとはー」

面接のように話し始めた私を、紬さんが「待って待って」と遮った。
間違ったか。ここまでは求められてない…

「あっ違う違う。お茶出すね。何もないけど。」

紬さんが矛盾した言葉を吐きながら、慌てて荷物を片付ける。
「そんな話は聞きたくない」という意味で遮られたのかと思ったので、また拍子抜けだ。
手伝おうとすると「大丈夫!座ってて!」と元気よく断られてしまった。
所在なさげにダイニングテーブルに座る。硬い椅子が冷たい。
助けを乞うように圭太を見ると、圭太は紬が持って帰ってきたのだろうお土産を興味深く漁っていた。
日常。また、日常。
まるで本当に、ただ家を訪ねてきた知人のようじゃないか。

* * *

「あの…そういう感じです」

圭太さんとの馴れ初めを一通り話し終えた私は、テーブルの木皿にあけられたお煎餅の袋を1つ取った。
気を遣う食べ物だ。いつ、どんな質問が来てもいいよう、割りながら少しずつ食べる。
圭太は「俺、洗濯物片付けちゃうね」と発して、どこかに行った。
修羅場を予想して、"逃げた"のかもしれない。いやな不安が頭をよぎる。

「取引先か〜〜〜。漫画じゃん〜〜〜〜。私なんて日に1人も話せば良いほうだからなぁ」

私の不安を遮るように、紬さんの声が響いた。まるで「友達の恋話」を聞いている女子高生のような声色のきらめきに、また驚かされる。
紬さんは漫画家なのだと言う。奇しくもオフィスラブなど20〜30代の恋愛を描くことが多いそうだ。
だから、ネタになる!ありがとうね!と逆に(?)励まされてしまった。

いつまで経っても怒られもしないし、泣かれもしないし、説教も、無視もされない。
紬さんと圭太が作り出す、「穏やかな日常」の空気に飲まれ、私もつい、ずっと気になっていたことに触れてしまった。

「紬さんは、どうして圭太…さんが不倫するのを、許しているんですか?」

表情を伺いながら、なるべく感情が乗っていると思われないよう、平坦に尋ねる。

「んーーー??そうねー。よく聞かれるんだけど、まあ圭が元々気が多いタイプというのもあるし、漫画家としてはネタに困らないというのもあるし、あっ幼なじみだから今さらどうこう思わないってのもあるし…」

紬さんは「何でだったっけ?」と昔の出来事を思い出すように、ポコポコと理由を並列に浮かべていく。

「あ、まあでもそうね。私が元々独占欲あんまないってのもあるかな。昔からそうなんだけど、同担推し平気で。」

同担推し…?と首をかしげる私に、「あははごめん、オタク用語!好きなアイドルとかかぶるの平気ってこと!」と快活に説明を被せられた。
わかるような、わからないような。

「好きなもの一緒の人がいると嬉しくてさー。だから、数ある中から圭を選んだのなら、"見る目ある"って思っちゃう!」

この、ふくよかな、ずっとニコニコして、よく喋る女に。化粧の1つもしたことがないようなすべすべの肌の。
お茶を用意しながら「わっ」「どこに置いたんだっけ?」など不安になるような独り言がポロポロ漏れていた、この掴み所がない女に。
雷に打たれたと思った。

私はまるで自然な動きのように、紬さんの手に、手を重ねてしまった。
冷え切っている私の手に比べ、彼女の手はポカポカと暖かい。
暑がりなのだろうか。よく見ると今日の服装も気温に比べ、薄着だ。

「私も、です。私も、そう思います。」

言葉がうまく出てこなくて、片言になってしまう。初めて、紬さんが「私」に気圧されるように、少し戸惑っていた。

見つけた。見つけた。
なめらかな肌の、左手の薬指。そこに鎮座する印。
男がつけた、「正解」の。

*Part.2*

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