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ものが書けない一年でした。


 今年もたくさんの記事を読んでいただきありがとうございました。

 相変わらずあたいは美人で元気にやってます。みんなはどう? ちゃんと足の爪を切ったり、ふとした時に空を見上げたり、一時間に一回換気して深呼吸したりできてるか。

 とりあえずまずはここ最近のあたいの近況でも報告しとこうかしら。

野山に混じりてインスタを撮りつつ、
スナックにゲイ四人で襲撃してORANGE RANGE歌いまくったり
ゲイとレズビアンとトランスジェンダーでスナックに入って「あとバイがいたらLGBTコンプリートなのに!」とか言ったり、
お風呂で全裸でハーゲンダッツ食したりしてます。


 あたいは元気よ。あんたも元気なら重畳。でもべつに元気じゃなくてもいい。人間だから元気じゃない時があってもいい。


 さて、なんだかんだで作家生活ももう5年。この間はほとんどずっと専業作家として活動していたけれど、おかげさまでなんとか細々ながら糊口を凌いでこられました。

 ほぼ毎日SNSを更新して、毎週マンガを連載して、毎月記事を書いて、いただいたお仕事はそれがあたいのコンセプトやポリシーに反さないものなら有り難く受けさせてもらって……と無我夢中にやり続けていると、本来ならあっという間に時間が過ぎてもいいようだけれど、個人的にはものすごく長く感じた。締切にはずっと焦らされてきたし、いつも仕事のことを考えていたので気苦労には耐えなかったけど、終わらない夢のようだった。でも総じて良い夢だった。

 今までにも何度か書いてきたように、あたいは読み物に耽ることはあっても、自分自身が物を書くことや創作する側に回るとは思ってもみなかったので、自分がこれだけ書く悦びに目覚めたことや、書き続けても書くことが尽きずに続けられていることに今でも驚いておりますわ。

 だけど今年、あたいはマジで物が書けなかった。いつも何かくだらないことを長文にして書き起こしてはいるので、そうは見えないかもしれないけれど、水面下で動かしていたプロジェクトはずっと停止していた。

 こういった有り様をスランプと呼んでいいのか分からないけれど、やっぱり「書けない」という糸口の見えない状態には悩んでたし、今もまだ書けなくて多方面にご迷惑をかけてる。だから自分自身の行く末に不安を覚えたりもするし、同時にまぁどうにかなるだろうと楽観的に感じていたりもしている。

「物が書けなかった」と言うとすぐにこれが原因だろうと推測されるのが「精神面での不調」とか「私生活の乱れ」だと思うけれど、今回の場合、あたいはどちらでも無かった。

 いや、忙しくて精神的にグッタリとした時期もあったし、私生活の乱れだってわりと思い至るところはある。酒と天一のラーメンしか胃に入れてない期間とかあったし、飯を食うのと風呂に入るのが面倒で同時に済ますために風呂で親子丼を食べた日もあった。その日はついでにそのまま浴室で歯磨きもしてやった。

 だけれど、概ねこの一年はそこそこ健康だった。ランニングを始めたことで心身ともにいつも元気でうんこも食欲もモリモリだったし、知人のお願いでバーの手伝いに入ったりしていたので社会的な繋がりにも絶えなかった。それになんだかんだ毎月数万文字の記事を記して、執筆のためのインタビューや漫画制作も行なって書籍も一冊上梓したので、はたから見れば書いてるものは書いているのだけれど。

 でもなんというか、こんなことを言うと真摯さが欠けていると思われて怒られるかもしれないけれど、有り体に言ってしまうと「書くということが面倒だった」

 作家を続けるモチベーションが無くなったとか、書きたいものが無かったとか、お世話になっている担当さんや企業との折り合いが悪かったとか、そういう事情は一切ない。

 むしろ書きたいものは溢れてた。ドバドバとアイデアや想いが湧き続けた。なのにそれに対して、あたいの筆が追いつかなかった。あたいの筆致がそぐわなかった。もっと厳しい言い方にすると実力が追いつかなかった、というべきかもしれない。

 あたいは今更ながら、自身が「出版を経験した一般人」じゃなく「作家」としてやっていく中で、本来はまだ人前に出ずに努力や研鑽を積んで成熟するフェーズじゃないのか? 周りの人間のキャリアと比較する必要なんて無いのだけれど、あたいはもっと「執筆」じゃなく、他にすべきことがあるんじゃないのか? と考えたりしたのだ。

 すると途端に筆が止まった。書けない。書きたいのにじわじわと「書いている場合じゃない」という焦りが湧き出てくる。これが結構つらい。今、お仕事を貰って、読者がいるという状況それこそが「書くべき状況」だし、実力や年齢などに関わらず「書きたい」って思ったその時が「書くべきタイミング」なことはあたいが一番よく知っているのに。けど何故か頭で理解していることが、自分の体には適用されなかった。これは振り返ってみると鬱の時にも似ている。

 この焦りに近いことは随分前にも一度経験していた。あたいはエッセイというジャンルで活動を始めたからこそ、書けるものは経験してきた出来事の数で限られていて有限だと考えていたから、「このまま自分の過去(ネタ)を湯水の如く放出すれば、すぐに書くことが尽きてしまうんじゃないか」というように考えてしまう時期もあった。

 まぁ今思うとそんなことは無いのだけれど。同じ過去の出来事に関しても、歳を経て見え方や考え方が変われば書けるものも違ってくるし、今まで書いてこなかった取るに足らないこと、ふと思い出したことが案外面白かったりするし、以前書いたことと違う心境や意見を書いても、また面白いのだから。

 エッセイなんてそれでいい。自己矛盾と後出しと再放送。たぶんそれでも一生物は書けるし、書いていい。一生同じ考えのままの人間より、一貫して変わらない作家性より、時間と経験で思考が変わる人間の書いたもののほうがよりエッセイらしいと今では考えてる。

 だから、今のこの現状はスランプというべきではないのかもしれない。自分がすり減るような感覚というものはその時ほど、つまりエッセイ作家としての初期ほどは感じたりしてない。それよりも込み上げてきているのは「すり減るようなほどの自分はあるのか?」という自分自身への懐疑だった。

 具体的に言うと、「書くこと(アウトプット)より、今はまだ経験する(インプット)すべきじゃないのか?」という問いだった。そんなちょっと今更感のある疑念が自分の中のポツリと浮かんでくると、自分の現在進行形で書いているものが全部信じられなくなる。だってそれはいくら完成させても未完にも感じるからだ。

 あたいは自分が完璧主義者だとは思わないけれど、それでもそんな風に焦燥感を感じてしまうというのなら、それは自分への期待値がデカすぎて実力以上のもの出力しようとしているんじゃないだろうか、と思うことにした。今までそんなことを気にせずガムシャラに書いてこられたのに、急に肩に力が入って書けなくなってしまったのなら、そこには必ず驕りだとか自惚れが入り混じって、見栄っ張りになっているから書けないのだ、と自覚するようにした。

 それでもいくら自分の心境に自覚的であっても、あたいの書く手は止まったし、執筆中の原稿や連載ネームや企画会議用の企画書も全部あたい都合で宙ぶらりんの最中だ。芸術家がせっかく描いたキャンバスを破るように、あたいも半年以上書き綴った原稿を一旦は白紙にしたこともあった。たぶん17万文字くらいあったと思う。

 これを他者に話すのも気恥ずかしかったので、あたいは平静を装って普段通り過ごしていた。友達と山に出かけたり、飲み屋で飲み仲間を捕まえたり、学校を休学することにして別分野の勉強をしたり、行きつけのご飯屋で大将と世間話をして、知人の論文作成の手伝いをして、とにかく元気いっぱいにアクティブに行動した。

「書いているものを一旦白紙にした」と言えば、「病んでるの?」と精神状態を心配されたり、あるいは「ストイックだねぇ」と向上心まで見出されたりするので、それが嫌で誰にも明かさずにひっそりと筆を下ろした。だって自分では自分のことを病みも鬱屈もしておらず、向上心やストイックだと認めてやれるほどの意識もなく、ただ「書けない、今は書きたくない」と思ったから書かなかっただけの、それだけのことだとしか思えなかったからだ。

 作家をしているとか、物を書いていると言うと、何故かちょっといい意味でも悪い意味でもズレていて、卓越した何かを持っているような色眼鏡越しの評価を受けるけれど、書いてる人間というのは書きたいから書いてるだけの人間で、そこに何の特殊性も立場の上下も無いのがあたいの自論だ。

 だから「今日はお風呂に入りたくない」「今日は家を出たくない」と同じような感覚で「今は書きたくない」があってもいいと思うし、そういった感覚があるだけの人間が作家だから、みんなの普遍的な悩みや倦怠感などと代わりないことなのに、とすら思う。


 そういえば、あたいが筆を置いてのんびり過ごしていたこの一年の間に、二度ほどゲイ風俗時代の先輩がやっているバーに訪れたのだけれど、その際あたいはこう切り出した。

「ボネ姉、むかしあたいに言ってくれたこと覚えている?」

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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

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