「身内に怒られてない奴」←ほんまにヤバい
「ヤバい奴とは、考えなしにうっかりヤバいことをしてしまう者ではなく、ヤバいことをしても周りから諌められず、遠巻きから寄せられた批判や注意に耳を傾けないでいられる者である」というのがあたいの持論である。
昨今、TwitterやInstagramやYoutubeなどで炎上している人間は毎日ってほど見かけるし、そういった話題が目に入ってくるたびに「またお前か」という常連もおりますわ。
普段から軽率で、深慮せず、身内ノリが抜け切っておらず、信頼関係ができてようやく成立するような冗談や発言をネットに向けて発信してしまい炎上する人間は、まぁなんというか仕方がないというか、学びの最中なんだろうなと思う。
多くの人間が「人のふり見て我がふり直せ」の通り、他人のあり方を見て、そこから立ち回り方や物事の限度や社会倫理を学ぶ中、その「人のふり」の例になってしまったのが、「軽率タイプ」の炎上者だと思う。いわゆる反面教師の教師側だ。自分が悪例として痛みを伴って学ぶ側に回ってしまったわけだ。
こういった炎上は、その人物の知名度に関係なく周期的に発生することなので、端的に言えば大勢の人間がその炎上の致し方なさを納得できるほどの無思慮さやツッコミどころがあるのだと思う。ネットにはたくさんヤバい奴がいるけど、ちゃんと炎上する奴は、なんというか一線を画しているというか、やっぱり炎上するだけの訴求力があるような気もする。あと端的に拡散されて(見つかって)しまう運の無さもあるだろう。
また人によっては拒否感もあるかもしれないけれど、こうやって他人の炎上を通して「炎上の基準」や「社会倫理」を学ぶ過程というのも、いわゆるポリティカルコレクトネスの一つなんだと思う。ネットには「残念だが当然(残当)」ってミームもあるけど、あれも政治的妥当性や社会倫理や道徳系の炎上にまつわる話題でもよく使われてるし。
つまりうちらはわりと日常的にポリコレに触れてるんだね。みんなある程度の社会正義を持って、正しくあるとはしている、とあたいは信じてる。
で、こういった軽率型の炎上者には、相手が反省や後悔をしている限りには情状酌量の余地があってもいいんじゃないかな、とあたいは思ったりする。
何も坊主にしたり、ボランティアに出たり、活動休止やアカウント削除する必要もない。やりたきゃ好きにやればいいけど、それは謝罪でも贖罪でもない。自己満足である。
そういうアピール的な反省や禊ぎのようなことじゃなく、「炎上を通して何がいけないのか分かりました」という表明と、反省の意思、そして今後どうするか、どうしていくかということをできれば表してしまえば、もうそれで個人ができることはほぼ済んだと思う。
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天然温泉旅館「もちぎの湯」
ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…
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