見出し画像

「気を使ってる」と相手に気づかれた時点で、真には気遣えていない


 先に言っておくけど、タイトルの言葉は「アドバイス」でも「教訓」でもなく「呪い」の言葉ですわ。

《「あ、この人、私のために気を使ってくれてる」と、相手が気づいた瞬間、その気遣いは逆に相手に気を使わせてしまう原因になる。だって「そんなに気を使わなくてもいいのに」と感じるってことは、距離感や壁をさみしさを感じさせているってことだから。

こういった“バレてる気遣い“は接客業や会話術として洗練されておらず、ぎこちないコミュニケーションになっていて、相手に余計な心労と負担を与えてしまうことだ。これは二流の立ち振る舞い。一流の人間は気遣いを悟らせない》

出典 昔のあたいの接客手帳

 ーーこういう風に考えていた時期があたいにもあった。

 今はそういう風にはあんまり考えていない。むしろこの考えを呪いだと思っている。自分も、他人も蝕む呪い。よくない呪縛。


 あたいは基本的に他人を気遣えないし、空気も読めないし、人当たりがいいわけでもない。だからと言って横暴なわけではないと思うけれど、根が調子乗りの楽観者なので、繊細な人や几帳面で誠実な人から見れば「だらしない阿呆」に見えることだろう。

 代わりにあたいにシンパシーを感じる酔狂な人間には好いてもらえる。そう、あんたとか。

 今はそれであたいも十分満足しているけれど、昔はそうではなかった。もっと人に好かれたいし、嫌われたくないと思っていた。人気者になりたいわけじゃない。ただ関わった人にはできたら好かれておきたいと浅ましく考えていた。


 だから、世の中にたまにいる“第一印象が必ず好印象に受け取られ、基本的には誰からでも好かれる人間“のような《人たらしの人徳》に憧れたし、嫉妬もした。

 もちろん全員に好かれる完璧な人間なんていないし、人たらしにも人間関係の苦悩が存在するのだけれど、あたいから見える範囲で自分よりも簡単そうにーーつまり自然体で他人から好かれている様を見かけてしまうと、あたいは「すげぇなぁ」と惚れ惚れ半分、「うらやましぃなぁ」という羨望半分といったところだった。

 そして、人から簡単に好かれるのは、努力した結果ではなく、きっと生まれ持っての才能なのだと単純化して思い込むこともあった。

 さすがにいくら美人のあたいでも人に好かれる才能は持ち合わせていない。だってそれはきっと親や家庭環境も大きく関わるものだから。残念ながらあたいには備わらなかった。あたいは自分の生まれを呪ってはいないけど、祝福された家庭や自己肯定感の持ち主とはやっぱちょっと違うとも思っていたし、今でも考えることがある。そして、人たらしの才能を「きっと愛されて育ったから、自然と人に愛嬌を振りまけるのだろう」と思うことで、溜飲を下げるように自分で自分を仕向けた。

 そんな捻くれ者のあたいだけれど、今は堂々と胸を張って言える。

確かに自然体で相手に気を使わせない人は好かれるし、人気も出る。だけれど“この人は気を使ってくれている”と相手に悟らせてしまう振る舞いをしても、人の気遣いの価値は下がることはない」と。



 あたいは水商売や風俗といった人気商売型の接客業で働いた期間が長いので、振り返ってみると《人に好かれる人間がどういうものか》《どういう人間がどういう価値観の人間に好かれ、どういう振る舞いであれば嫌われるか》《人気とは何か》というものを、考えたり観測できる機会に恵まれていたと思う。

ここから先は

2,114字

ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

今ならあたいの投げキッス付きよ👄