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写真が好きだった。過去形じゃなかった話。

以前別の場所で書いたが改めて加筆や修正を加えもう一度書きたい。




ふと絵の練習のために写真の模写をすることにした。なので印刷してあるが写真ないかと思い部屋を探した。引き出しの中には昔デジカメでとった写真の山が崩れるようにたくさんあった。

その写真の束を上から順番に一枚3分と決めて描いて見たけれど、何枚かして画力のなさに驚きつつ飽きた。

だから練習は一旦休憩して印刷された写真を見ていた。いま見返すとその写真はくだらないものが多くて、なんでこんななんの変哲もない写真を撮ったうえ、高いインクを無駄に消費して印刷したんだと呆れなが理由を考えた。

「昔はこのくだらない景色や日常にいちいち感動してたのか?」

なんて昔の自分を思い出しながら不思議に思ってました。




撮り始めたきっかけは何だったかな?おじいちゃんに誕生日に買ってもらったDSiだったかな。
発売してすぐの誕生日だったから2008年。

それから目に見えるものをデジタルに変換していった気がする。

よく遊びに行くじいちゃんちの窓から見える景色とか,庭に植えてあるのか生えてきたのかわからない花,おもちゃの車をパンフレットみたいな構図で撮ったり。
かなりハマってたのを覚えてる,いちいち楽しい。なんでも撮りたくなる。アレはおもしろい。


親が「構図がいい」とか「上手だ」なんて褒めてくれたのもあってなのか不思議とずっと飽きなかった。
今見ると荒い画像だが昔のゲームと一緒で画質が良いに越したことはないけど楽しいのに変わりはなかった。


その後写真を撮るものがデジカメにかわった。

ある夏、横浜の親戚のおじさんの家へ泊まりにいった。一週間かそれ以上で結構長かった。兄と二人、二時間以上電車に揺られ着いた先でもう使わないからとデジカメを貰った。PENTAXのコンデジだった。

こいつはかなり使い倒した,何枚撮ったのかわからない最高800万画素だったが多く撮れるよに画質を下げていた。
当時は画質の設定と画像の粗さに関心がなかったので下から数えたほうが早いような画質に設定していた。
今思うと少しもったいないと感じるが数ギガのSDカードに数千枚取れればこれに越したことはない。SDカードも最初に入っていた1ギガの他に二枚ほど足して使っていた。今でこそ1ギガなんて撮れる枚数なんてたかがしれているが画質を下げたおかげで沢山撮れた。

このデジカメを使わなくなるのは中学2年か3年だと思う。
iPodにかなり画質のいいカメラがついいて液晶もカメラより大きく美しかったためだ。
それも今やiPhoneX、11だ。,写真を撮るための機械で800万画素だったのに対し今では携帯電話に1200万画素のカメラが付いていて4kムービーでさえ撮れる。レンズも増え今までの広角に加え望遠までついた。


このカメラの進化が良くも悪くも僕には影響した。今でも写真は好きだ。撮るのも見るのも,何かを撮るために出かけるのも。


それなのに僕は一眼に手を出さなかった。


確かに値段がコンデジの比ではないがスマホカメラより確実に上である。

スマホでもうまく取れば一眼に寄せられるし背景ボケだってお手の物だ。

でも一眼はレンズの大きさ、センサの大きさ、光の集め方や色の表現力が違う。

スマホと同じ構図でとっても桁違いだ。


なぜ買わなかったのか……怖かったんだと思う。

誰でも簡単に写真を撮れるようになった今,そこに違いは生まれるのか?みんながみんな写真を撮ることに慣れて自分は特に才能がなかったら??
そんな思いが巡ったんだろう。

でも考えてみれば馬鹿なことだ,楽しくて写真を撮っていたのに評価や才能は気にする必要はなかった。
もちろん誰かに褒めてもらったり認められるのが嬉しいのに間違いはない。

でもそれが目的ではなかったはずだ。


昔のようにいつも見てる景色を撮ればいい,いいなと思った日常や普段目を向けない景色に気付かせてくれる。風景を切り取る行為はなぜにあんなに心踊るのか。

不思議だ。見返したときの、昔の空気感がふと蘇る感覚が欲しくていやっているのか?人が美しいものに惹かれるのは常であると思う。しかし日常まで特別にしてくれる写真はとてもおもしろい。


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