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社会運動がつくりだした被害者たち 原発事故から宗教、J事務所まで

取材・論考・タイトル写真
加藤文宏


はじめに

 ALPS処理水で騒いで終わったかと思えば、次はあきたこまちR──こんな話を、騒動の構造をあきらかにしながら論考しようと思う。

彼らは被害者なのか

 原発事故に際して首都圏が不安におののき、瓦礫処理では地方都市でも騒がしい動きがあった。
 日本中が動揺していた10余年前、ふと思った。原発事故にまつわるできごとの「真の被害者」は誰だろうか。
 首都圏は放射性物質に怯える必要がなく、各地で焼却した瓦礫も無害なものであった。これらは、不安感や危機感を煽られたことで、本来被害者ではない人々に被害者意識が芽生えて生じた混乱だった。直近のできごとでは、ALPS処理水放出反対運動でも不安感や危機感が煽られた。
 原発事故にまつわるできごとの真の被害者は、福島県の人々なのはまちがいない。では、不安感や危機感を煽って被害者意識をつくりだしたのは誰か。
 これは既に検証済みだ(図1)。
 政治家や活動家と報道が「虚像」を生み出した結果、人々が放射能と被曝に怯えた。この政治家や活動家が行ったのが反原発運動だった。反原発を旗印にした社会運動が、真の被害者を押し退ける勢いで、本来は無関係な人々に被害者意識を植え付けていったのだ。

図1

社会運動の構造

 反原発運動だけではない。
 米の新品種あきたこまちRを危険視して、植え付けと普及を阻止しようとする運動も、運動によってつくりだされた被害者が、政治家や活動家とともに騒いでいる。
 だめな社会運動が、被害と被害者をつくりだしてはじまる様子を整理してみようと思う(図2)。これは社会主義運動の常套手段であるばかりか、さまざまな場所で見かける手法だ。小学生でさえ、効果的ないじめの手法であるのを知っている。

図2

 まず、案件が存在する。あきたこまちRが案件だ。
 社会運動は案件に「被害」と被害をもたらす「加害」の関係をつくりだす。あきたこまちRは危険だという被害が捏造され、品種改良と新品種の普及をはかる者たちは悪質だという加害も捏造される。
 次は、消費者が危険にさらされているとして、被害者がつくりだされる。消費者は社会を構成する人々の一側面だが、生産者や開発者、農水書の官僚などは消費者であっても、社会運動からみると被害者ではない人々になる。社会が分断されたのだ。
 最終段階では、対立の固定化と被害者独占が社会運動によって行われる。
 最初につくりだされた「加害」と、つくり出された被害者の利害が対立する。そして社会運動が被害者を代表するとされ、社会運動の支持者となった「つくりだされた被害者」を独占する。いわゆる囲い込みだ。囲い込みによって対立構造が固定され、運動が終わったあとも社会に敵対関係が残される。

反権力としての社会運動

 社会運動は、前述のように「対立構造の固定化と被害者独占」を目的としている。
 このため、つくりだされた被害は救済されないか、延々と新たな被害がつくりだされる。わかりやすいのは反原発運動だ。最初は「放射性物質が飛来する」とされた。次は「瓦礫を焼却すると被曝する」だった。現在は「処理水を放出すると海洋汚染される」だ。いずれもあり得ない被害ゆえに被害者は存在せず、あたりまえだが救済策はない。
 だが反原発運動が放射線デマを流布させたことで、一次被害なき二次被害が発生した。デマは自主避難者を生み出したが、家庭崩壊や経済困窮で苦しむ避難者を反原発運動は救済しなかった。むしろ原発事故の悲惨さを示すサンプルとして活用するため帰還を遅らせたほか、避難者に状況を正しく認識させようとする活動を邪魔した。
 反あきたこまちR運動では、デマが流布されたことで従来品種のあきたこまちが売れなくなったと窮状を訴える声が生産者からあがっている。さらに他の品種改良された作物まで、あり得ない理屈で「加害性」がでっちあげられはじめた。風評被害が広がったなら、運動の担い手たちは農家が困っていると言い出して国や開発者たちを責めるだろう。既定路線と言ってよい。
 社会運動の本質は反権力だ。反原発運動では国と大企業東電が、あきたこまちRでも国、農水省、開発者が「加害者」であるとストーリーが設定された。
 だがメディアは、社会運動を報道するとき「対立構造の固定化と被害者独占」はもとより、本質である「反権力性」そのものは伝えない。メディアが伝えるのは、被害者と加害者の間に生じる「対立」だけだ。
 このため社会運動は、社会のなかから不安感や危機感がボトムアップされた結果のできごととして人々に認識される。また社会運動のリーダーたちも、自らが対立構造をつくりだしたのではなく、民衆が運動を開始したようにみせかける。
 こうした「反権力としての社会運動の構図」を整理すると以下の図になる(図3)。

図3

さまざまなパターン

 反原発運動の中心的存在だった組織や人々が、あきたこまちRへのデマを生み出している。「反あきたこまちRデマ」は反原発運動以来、延々とつくりだされてきた被害バリエーションのひとつと言ってよいだろう。
 反あきたこまちR運動は反原発運動の枝葉末節かつ、独立した新たな被害者づくり運動ということになる。
 さらに反原発運動の主要メンバーが後に反差別、日本型フェミニズム、性的少数者運動の担い手となり、さらに統一教会追及にも関係したのを忘れてはならない。
 昨今、若年被害女性支援が補助金や助成金を巧妙に獲得しているとされ、「公金チューチュー」という俗語で揶揄されている。こうなった背景に、日本型フェミニズムがつくりだした「萌え絵・漫画被害」と「萌え絵・漫画加害」の構図があり、加害者として責められ続けた側の反発があった。さらに、団体代表が保護少女を沖縄基地問題の政治活動に動員するなど、「被害者の囲い込みと独占」が「反権力としての社会運動」と結びついていると目されたことも反発を呼んでいた。
 ただし、常に典型的な構造そのままの手順で運動が進められるわけではない。
 現在の統一教会追及の前史として、拉致監禁強制棄教と、棄教した人々を原告にしたてた民事裁判があった。ここまでは被害者づくりの典型的パターン通りだが、社会を分断したのではなく信者を分断している。社会を分断したうえで反権力性を強めたのは、安倍晋三元首相暗殺事件後だ。
 ジャニーズ事務所追及では、追及団体が被害者の代表であることと被害者の窓口であることを手放そうとしない点や、国連人権理事会からの「(政府が)謝罪であれ金銭的な補償であれ、被害者の実効的救済を確保する必要性」があるとする意見を利用しようとした動きに、社会運動が用いる手法との類似性がある。しかし、ジャニーズ事務所追及はセクシャルハラスメントやパワーハラスメントへの問題提起と、これらを隠蔽した企業を追及する活動として始動した運動だった。
 ジャニーズ事務所追及の顛末は、「正式に被害者となって正義の立場を確保」した活動が社会運動と類似したものへ収斂していくのを表している。

被害者になる戦略

 統一教会信者二世を代表するかのようにメディアで扱われている人物Aについて、他の信者は次のように語った。
 「Aは被害者になりたかったのだと思う。被害者になることで、自分の生き方を肯定してもらえる。いまの時代は、被害者が正義です」
 被害者にだけはなりたくないと思うのが普通だが、そうとは限らないのが「いまの時代」ということになる。
 社会運動は「被害者づくり」をするが、呼応する「被害者になりたい人」もしくは「正式に被害者となって正義の立場を確保したい人」がいるのはまちがいない。鶏が先か卵が先か、被害者になりたい人が先か社会運動が先か──の問いに答えるなら、社会運動(や社会運動未満の活動)が先だろう。
 社会運動(や社会運動未満の活動)は、被害者になることで正義の立場を得られるだけでなく、今まで持ち得なかった「威力」を手にできるのを教えてくれた。
 前出の信者は続けて言った。
「Aはテレビに出て、たくさん主張しました。私にも言いたいことがあります。でも、話をする機会が与えられません。加害者の側とされているので、批判ばかりされています」
 この人はAを責めているのではない。Aに機会が与えられるなら、自分たちにも機会を与えてほしい。しかし「被害」と「加害」の関係が設定済みなので、何を言ったところで公平に判断してもらえない。と、嘆くのだ。
 「いまの時代」は被害者をつくる戦略と、被害者になる戦略が暴走ぎみではないか。そして社会運動や社会運動似の構造を乱発しすぎではないか。

最後に

 社会運動の構造を整理しているとき、頭の片隅に1999年に発生した「東芝クレーマー事件」があった。同事件は、個人でもインターネットを使えば社会を騒然とさせられ、企業さえ追い込むことができるのをはじめて証明し、被害者であることの優位性を見せつけたできごとだった。
 またマスメディアの切り取りかたひとつで、当事者が被害者にも加害者にもなり得ることも示した。「クレーマー」が蔑称として定着していることから、同事件が批判的に報じられていたと勘違いされがちだが、当初は大企業東芝による恫喝事例とされて不買運動が展開されている。そして報道の風向きが反転したのち、報道量が減っていきなり騒ぎが鎮まったのだった。
 東芝の広告を担当する組織の一員として騒動の一部始終を注視していたときの記憶が、原発事故によって発生した首都圏から自主避難した人々への帰還支援を経て、社会運動の構造整理と、反権力としての社会運動論に至ったことをここに記しておく。
 ジャニーズ事務所についての筆者の実体験や、ある広告代理店社員が語ったジャニー喜多川からの被害について触れるべきか迷ったが、煩雑になるため当記事では割愛した。これらは内容を誤読されたり利用されたうえで「加害側として吊し上げ」られる可能性を感じるので、会員制記事で触れることになるだろう。容易にもの言えぬ環境をつくるのが社会運動だ。この問題は「濃淡論の見せしめに怯える世界へようこそ」と、[伝統宗教の聖職者まで怯える 内心の自由を軽々とつぶす もの言えぬ時代の到来]で説明した通りである。


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加藤文宏
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